事事関心! 仏閣探訪:
[ 千葉県松戸市/萬満寺 ]
千葉県松戸市/萬満寺            2018/02/04(日)新規
探訪案内

 JR常磐線「馬橋」駅で下車、駅東口ロータリー正面の道を進み旧水戸街道(県道199号線)に出る。ここで左折し100mほど進むと立派な山門がある。
 萬満寺は、鎌倉時代に歴代将軍と千葉家一門が菩薩を弔うため、千葉頼胤により創建された真言立宗の「大日寺」が起源とされている。 その後、室町時代に第三代将軍・義満と自身の氏満という両方の満をとり、康暦元年(1379)寺号を"萬満寺"と改められた。 更に義満により、臨済宗に改宗された。
 全国で唯一の中気除けの不動尊として、また痘瘡(とうそう)除けの寺として、古くから人々の信仰を集めている。

寺名: 法王山 萬満寺
宗派: 臨済宗大徳寺派
本尊: 阿弥陀如来像【松戸市有形文化財】
創建: 建長八年(1256)
開基: 千葉頼胤
開山: 忍性良観上人
住所: 千葉県松戸市馬橋2547
アクセス: JR常磐線「馬橋」駅/東口より北方向へ徒歩5分

【履歴】
・2018/01/31(水): 01/30(火)探訪。

山門 



 旧旧水戸街道に面して門前の広場の先に立派な山門が建っている。


仁王門 



 山門を潜り石畳の参道の先に仁王門がある。


吽像【重文】

阿像【重文】

 仁王門にある2体の木造金剛力士立像は、いずれも寄木造りで彩色、玉眼。像高は阿像が257cm、吽像が240cmある。 伝承によれば鎌倉時代の仏師運慶の作と云われている。
 毎年2回の祭礼時と、正月の三が日には仁王門が開帳され、「仁王さまの股くぐり」という珍しい行事が行われている。 右手の「阿像」の両足の間をくぐり抜けると、むこう1年病魔や災難も除け、子どもはすくすく育つといい伝えられている。


本堂 

本堂全景


 明治四十一年(1908)、大火により伽藍のほとんどを焼失してしまったが、昭和六十二年(1987)新本堂が完成した。


水掛不動尊 

水掛不動尊

水掛不動尊像

 仁王門を過ぎた左手に「水掛不動尊」がある。 この寺の御本尊の「木造不動明王像」を模して自然石に刻んだ不動尊で、水をかけて願掛けを行う。 脇の2童子は、高野山金剛峰寺の八大童子立像(国宝)の内、制多迦童子と矜羯羅童子を模したものと云われている。


その他 

義真弁財天

鐘楼堂

 弁天様は、一般的にはふくよかな女性の形をしているが、この寺には合掌した小僧さんの姿をした"弁財天"を祀った祠(義真弁財天)がある。
 平成十九年に建てられた鐘楼堂下は墓参の方の休憩所となっている。


義真弁財天

 その昔、享保年間(1716〜1735)の頃、万満寺に「義真」と言う小僧さんがいて、大変利発で将来を嘱望されていたが、余りのいたずら好きの為、十三歳の時に寺を追われてしまう。 そして日頃、馬鹿にされていた二人の寺男が「義真」を捕えて米俵に詰め、坂川に放り込み殺してしまった。 小僧の遺体は古ヶ崎村に流れ着き、享保十六年(1731)六月二十日、円勝寺の住職によって懇ろに葬られた。 その後、古ヶ崎の用水堀に白蛇が現れるようになり、ある夜、村人の夢枕に立ち「我は万満寺の小僧義真の化身である。弁天に祀り供養せよ」と告げた。村人はこの告げに従い坂川の畔に祠を建てて祀り、「小僧弁天」と呼んだとのこと。 一方、その後小僧を殺した寺男二人は熱病にかかって亡くなり、子孫にも災難が続いたと云う。
 また他の説では、10歳で得度した「義真」は過度の修行で身をこわし、万満寺を出て投身自殺したが、翌日、古ヶ崎に流れ着いた遺骸は村人によって葬られ、傍らに1本の松が植えられた。 後に村人の浄財で祠が建てられたのが「小僧弁天」と云われている。
 「義真」の霊は 白蛇となって、折々、姿を現し、これを見た人には良いことがあり、また子供を失った母が祠を詣でると、夢で愛児に会えると云われている。

あとがき

 駅から近いが自分以外の参拝者はいなかったのでゆっくりと参拝できた。山門からして立派な造りの寺院だ。
 水戸街道きっての古刹として有名だったが、明治の廃仏毀釈や明治四十一年(1908)汽車の煙火による大火で伽藍や仏像、数多くの寺宝を失い、さらに戦後の農地解放で寺領の殆どを失ってしまったが、よくここまで復興できたものだ。


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