事事関心! 仏閣探訪:
[ 神奈川県鎌倉市/岩船地蔵堂 ]
神奈川県鎌倉市/岩船地蔵堂         2013/01/26(土)新規
探訪案内

 JR横須賀線「鎌倉」駅西口より線路沿いに北鎌倉方向へ進む。英勝寺の前を過ぎ、150mほど先で横須賀線のガードレールを潜る路に折れる。さらに進むとすぐ先の亀ヶ谷坂に向う三叉路際に源頼朝の娘・大姫の供養堂が建っている。

寺名: 岩船地蔵堂
本尊: 地蔵菩薩
拝観: 無料
住所: 鎌倉市扇ガ谷3-3
アクセス: JR横須賀線「鎌倉」駅から徒歩約15分。

【履歴】
・2013/01/26(土): 01/25(金)散策。

岩船地蔵堂 

岩船地蔵堂

木造地蔵立像

 岩船地蔵堂は大姫の守り本尊を祀った堂宇である。木造の地蔵立像は元禄三年(1691)に造られ、守本尊とされる石造地蔵尊の前に安置されている。 石造地蔵尊(岩船地蔵)は、舟形光背をもつもので、"岩船地蔵"の名の由来となっている。 あるいは、木造の地蔵立像の体内に大姫の守り本尊を内蔵したとも言われている。
 平成十三年(2001)堂を建替え、木造地蔵尊を前に石造地蔵尊をその奥に安置した。このため、外から拝観できるのは木造地蔵尊のみとなっている。
 現在は近くにある海蔵寺の管理となっている。

『吾妻鏡』義高と大姫の悲劇
 木曽義仲は源頼朝との関係が悪化すると、当時11歳(12歳とも)の嫡男の清水冠者義高を人質として頼朝のもとに送って和睦、 義高は大姫の許婚として迎えられた。
 義仲は北陸道を快進撃して都に入るが、まもなく後白河法皇と対立し、 法皇の命を受けた頼朝は範頼・義経らを派遣し義仲を討ちとる。 仇討ちを恐れた頼朝は、義高を殺害するよう配下の者に命じた。 これを漏れ聞いた大姫は義高を逃がすが、ことは発覚し、元暦元年(1184)四月、激怒した頼朝は義高追討の軍勢を派遣、武蔵入間河原(現、狭山市入間川)にて義高を討ち果たした。 許嫁の木曽義高が討たれた後、大姫は哀傷のあまり病がちとなり、建久八年(1197)七月、二十歳という若さで薄幸の生涯を終えた。
 その死を悼んだ北条、三浦、梶原などの多くの御家人が、この谷に野辺送りをしたと伝えられている。
あとがき

 古都鎌倉には至る所に故事が残っており、下調べ無しでの散策は勿体ない限りだ。


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