事事関心! 仏閣探訪:
[ 神奈川県海老名市/相模国分寺 ]
神奈川県海老名市/相模国分寺        2018/04/04(水)更新
探訪案内 

 小田急線「海老名」駅下車、東口より約500m(徒歩10分弱)のところにある。
 国分寺は、奈良時代天平年間に聖武天皇の勅願によって日本各地に建立された国分寺のうち、「相模国国分僧寺」の後継寺院にあたる。
 寺伝によれば天平九年丁丑の年、行基菩薩此地を点として七つの精舎を建て、本尊薬師如来並みに日月大士の像を自ら彫刻して祭ったとある。 以来、時代とその変遷を共にし、源頼朝の時に一時その荘厳を維持したが、南北朝を経て戦乱の時代に入ると兵災を罹り堂塔以下悉く灰燼に帰すが、幸にも寺域の一部丘陵の上に残った薬師堂を現在の境内に移し再興された。

寺名: 東光山 醫王院 国分寺
宗派: 高野山真言宗
本尊: 薬師如来
創建: 750年頃
開基: 聖武天皇
参観: 無料
住所: 海老名市国分南1-25-38
交通: 小田急線「海老名」駅下車、東口より徒歩10分

【履歴】
・2018/04/04(水): 03/26(月)海老名再訪。(七重の塔追加)
・2014/03/15(土): 03/12(水)探訪。

山門 



 小田急線「海老名」駅東口からビナウォークを横切って徒歩で10分ほど歩くと県道40号線にぶつかるが寺はこの道沿いの高台にある。 寺への道は県道との分岐に聳える大ケヤキの木が目印になる。この大木は樹齢500年と云われている県指定天然記念物「国分の大欅」である。 寺の前の道は、昔の大山街道で、山門には「高野山真言宗 国分寺」の寺号標石が建っている。


本堂 

本堂

扁額「国分寺」

 石段を上がると、その先にはならだかな舗装された参道が本堂まで続いている。
 現在の本堂は、昭和四十六年にこれまで仮堂であった本堂と客殿が再建されたが、老朽のため平成六年四月二十四日に再建されたものだ。


鐘楼 

梵鐘

 現在の鐘楼は昭和五十一年(1976)年三月に建てられたもので、鐘楼の中には重要文化財に指定されている梵鐘がある。この梵鐘には正応五年(1292)に国分次郎源季頼が国分尼寺に寄進した旨の銘が刻まれている。なお、銘によれば梵鐘の製作者は物部国光である。


地蔵と石仏 


 境内の片隅に地蔵と石仏が祭られたお堂が建っている。


尼の泣き水                      (『かながわのむかしばなし』より)
 千二百年もの遠いむかしの天平十三年、相模国に國分寺がつくられた。金堂、講堂、中門、南大門などの七堂伽藍、天をつくような七重塔が朝日、夕日にはえていた。人々は、はるか遠くから國分寺をながめて、奈良の都のようだとあがめていた。やがて國分寺の近くに國分尼寺がつくられた。國分尼寺の尼と國分寺の僧とは、親しくなることが禁じられ、二つの寺の間には川が掘られていた。
 そのころ、國分寺の下を流れる相模川で、網を打って暮らしている若い漁師がいた。漁師はいつしか國分尼寺の尼と知り合い、愛し合う仲となった。二人は夜になるのを待って、人目をさけて河原で落ち合っていた。
 ある日の夜、尼は日に日にやつれていく若者を見て、「どこか悪いのではありませぬか」と尋ねたが、若者はだまっていた。 「言うてくだされ。何か心配事でもあるのでは」、若者はかすかにうなずいて話し始めた。「この頃は、いくらあみを打っても魚が掛からないのです。それで、ここでは暮らしていけないから、ほかの土地へ行って・・」若者は、立って帰ろうとした。「お願いです。本当のことを言うてくだされ」尼は若者にすがった。「魚が逃げて行ってしまったのです。川につきささるような太陽の光を恐れて、逃げて行ったのです」「陽の光?それなら今まででも同じはずなのに。それがどうして?」若者は國分寺の伽藍を見つめながら、呪う様に言った。
「あれに太陽の光が当たり、その照り返しで凄まじい光が射すのです」。尼も立ち上がって、月の光にくっきりと浮かぶ國分寺を見つめていたが、二人は寂しそうに別れていった。
 真夜中になった。「火事だー!火事だー!。國分寺が燃えているぞー!!」村人が叫びながら飛んで行く。國分寺はメラメラとくるった様に燃えて、くずれ落ちていった。恐ろしい一夜が明けて、静かな朝がおとずれた。國分寺の焼け跡は、まだくすぶっていた。
 それから幾日かたって、國分寺の火事は、恋に狂った尼が火を放ったのだ、という噂が広まった。その時はすでに、若い漁師に思いを寄せていた尼が捕らえられていた。そして、丘陵の上で刑場のつゆと消えた。放火の罪は重く鋸引きの刑になったという。
 やがて、尼が葬られた台地の下からは、涙の様な湧き水が、一滴二滴...と落ちるようになった。これを見た村人は、尼さんが罪をわびて流している涙だと言って、湧き水を「尼の泣き水」とよんだ。
 國分寺へお詣りにくる巡礼たちは、 朝日さし 夕日かがやく 國分寺 いつもたえさぬ 尼の泣き水 と、ご詠歌をうたい鈴をふって、尼の冥福を祈るようになった。
国分寺跡 

 

中門・南面回廊跡

塔跡

 当時の相模国の国府は平塚にあったと考えられているが、国分寺は海老名に創建された。 海老名駅の東側500mの台地上がその相模国分寺跡である。
 天平十三年(741)聖武天皇は国家鎮護のため諸国に国分僧寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立させた。 少し高台の海老名の地に建てられた僧寺は奈良法隆寺式の堂塔伽藍を配置し、金堂、講堂、七重塔を囲むように回廊が廻らされ、まばゆいばかりの堂宇が立ち並んでいた。  尼寺は奈良時代の大安寺様式で規模は僧寺より少し小さい。 相模国府政庁は当時尼寺の北、上今泉あたりにあったようだ。 また、河原口の有賀神社の近くにあったとも言う。今はそれらの全てを失い、当時の面影を残す礎石が37個寂しく点在している。このあたり一帯は国指定の史跡となっている。

七重の塔 海老名中央公園


 この七重塔は、聖武天皇の詔をうけて建立された相模国分寺の伽藍の一部だった七重塔の復元版である。 実物の約3分の1の大きさだ。
 平成四年(1992)に市制20周年を記念して観光の象徴として建てられた。


あとがき

 寺は他に参拝する人も無く、静かに散策できた。 また、国分寺跡地は更地の公園になっており、ポツリと犬と散歩している人がいるだけ。昔の栄華は微塵も感じられないなー...。


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