事事関心! 仏閣探訪:
[ 神奈川県鎌倉市/妙本寺 ]
神奈川県鎌倉市/妙本寺           2015/04/22(水)新規
あらまし

 JR横須賀線「鎌倉」駅東口より若宮大路に出て、交差点で道を渡り100mほど南下して「鎌倉郵便局前」交差点で左折する。 更に少し進み丁字路に出たら右折すると滑川に架かる夷堂橋がある。この橋を渡ると正面山裾にある寺が妙本寺だ。


妙本寺−境内図

 妙本寺は、日蓮聖人を開山に仰ぐ日蓮宗最古の寺院である。開基は、比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本である。 この地は比企能員一族が住む谷戸であった。 比企の乱で一族は滅ぼされたが、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本で、能本は、鎌倉の町に立って生命掛けの布教をされている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりである。 日蓮聖人は、文応元年(1260)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けた。

寺名: 長興山 妙本寺(霊跡本山 比企谷 妙本寺)
宗派: 日蓮宗
本尊: 三宝尊
創建: 文応元年(1260)
参観: 無料
住所: 鎌倉市大町1-15-1
アクセス: JR東日本 横須賀線鎌倉駅から徒歩8分

【履歴】
・2015/04/22(水): 04/22(水)探訪

総門 

名号塔

総門

扁額「妙本寺」

 総門前の石塔は天明五年(1785)に現在の場所に移転されたもので、本来は境内の祖師堂前にあったものである。 石塔に刻まれている文字は第二十五世守玄院日聖人の筆蹟であり、ここが宗門最初の寺院であるとしるされている。
 道路沿いに建つのが、妙本寺境内の入口となる総門だ。 この総門は大正十二年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したものを大正十四年に再興したものである。

本堂 

方丈門

本堂

 方丈門を潜り60段ほどの石段を上ると、本堂、寺務所がある。本堂は本尊を安置するお堂の総称である。 現存の本堂は昭和六年、第75世 日雅聖人の代に建立された。
 本堂には、正面に久遠実成の本師釈迦牟尼佛を、その両脇には末法の世における法華経流布を誓われた本化の四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)を安置し、その前に末法の世の導師であり、日蓮宗の開祖である、日蓮聖人の座像を安置する。 また、正面脇には法華経行者守護を誓われた鬼子母神・十羅刹女・徳叉迦を祀っている。

二天門 



 総門から真っ直ぐに続く杉木立の参道を抜け、石段を登り切ると、目の前に現れる堂々とした弁柄塗りの門が「二天門」である。
 門は建立時の棟札によれば、天保十一年(1840)第47世 日教聖人の代に司務職本行院第54世 日恭聖人のもと建立されたとある。 門には様々な彫刻が施されているが、中央の龍の彫刻は見事で、平成の大改修で極彩色の色を取り戻し、息を吹き返した。 また、一般的な寺院に見られる仁王門とは異なり、仏教の守護を誓われた帝釈天に仕える四天王(持国[東]・広目[西]・増長[南]・多聞(毘沙門)[北])のうち、持国天と多聞天を安置してあることから二天門という。 持国天は、祖師堂に向かって右側に、多聞天は左側に足下に邪鬼を踏みつけ仏法を守護する構えで祀られている。

日蓮上人銅像、一幡之君袖塚 

日蓮上人銅像


 日蓮聖人は、貞応元年(1222) 12歳で清澄寺に入り、16歳で出家、仏教諸宗が様々広まっている中で、天変地異や飢餓などで人々が苦しんでいる有様に心を痛め、仏の真実の教えを求め続けて、32歳まで鎌倉諸大寺、高野山、そして比叡山と諸宗の諸大寺に遊学し、遂に「一切衆生を救う教えは法華経である!」との確信を得て、今から七百五十数年前、建長五年(1253)4月28日、立教開宗の宣言をされた。 日蓮聖人は、当時政治文化の中心であった鎌倉の町の辻々に立って教えを説き、「法華経こそお釈迦さまの真実の教えである!目覚めよ、人々!」と説いた。
 この銅像は、平成十四年、日蓮聖人立教開宗750年ならび鎌倉布教750年を記念して建てられた。


一幡之君袖塚


 比企能員の娘讃岐局(若狭局)は、2代将軍頼家の側室となり、嫡子一幡君と姫君竹御所を産んだ。 一幡君の誕生により、比企一族は将軍家の外戚という強い関係になったが、権力保持を目論む北条一族の策略により、建仁三年(1203)9月2日、この邸において亡ぼされた(比企の乱)。 この乱の折り、讃岐局は池に身を投げて自死、一幡君も僅か六歳にて火中に命を終えた。 その焼け跡に残った一幡君の小袖を供養するため建てられたのがこの袖塚である。


祖師堂 



 二天門を潜った先にあるのが日蓮宗の開祖である日蓮聖人(祖師)を祀る祖師堂である。  堂内中央正面の厨子に日蓮聖人を、向かって右脇に日朗聖人、左脇に日輪聖人を祀っている。
 現在の十二間四面の祖師堂は第47世日教聖人の時(天保年間、約170年前)に建立されたもので、鎌倉では最大規模の大きさを誇る堂である。 ちなみに、この祖師堂のあたりが、比企谷(ひきがやつ)の地名の由来、比企の尼が住まわれたところであり、「比企の尼」という女人は鎌倉幕府初代将軍源頼朝公の乳母であり、頼朝による開府後、頼朝公は武蔵(現在の埼玉県)の比企郡から尼をここへ招き住まわせた。 また、頼朝公の正室北条政子夫人が懐妊すると、尼の許に送り、ここで2代将軍頼家公が生まれたと伝えられている。

鐘楼 

鐘楼


 梵鐘をつるし、寺の重要な行事の開始を近隣に知らせたり、また、時を告げる鐘を突くお堂、通称「鐘突堂」などとも言う。 この鐘楼堂は、関東大震災(大正十二年)に倒壊したが昭和九年に再建された。
 妙本寺には古来より鐘楼堂があり、そこには江戸幕府第五代将軍徳川綱吉公寄進の梵鐘がつるされ妙音を響かせていたという。 残念ながら、その梵鐘は第二次世界大戦の際に供出されたが、昭和三十五年に復興した。


あとがき

 妙本寺は細長い敷地の中に直線的な参道が奔る。参道の途中の両脇には大きな杉の木が茂り森林浴で心も洗われる様な清々しさがある。 また、此処は鎌倉の街中の喧騒とは別世界で、訪問した時も引率の先生に連れられた四,五人づつの二組の修学旅行の高校生がいた程度だった。

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