JR東海道線「鶴見」駅で降り、西口に出て駅前の線路沿いの道を横浜方向へ向かうと、程なくして右手に總持寺がある。
總持寺は全国に約1万5000寺の関連寺院を持つ、曹洞宗の大本山である。現在の地に移転してきたのは、明治四十四年(1911)のこと。
それまでは、石川県の能登地方にあった。
曹洞宗は、嘉禄二年(1226)に帰国した道元禅師の「教え」を後に体系化したもので、いつごろ始まったものなのかは定かではない。
ただし道元は寛元二年(1244)、現在の福井県吉田郡に、修行道場ともいえる永平寺を建てたと伝えられている。
一方、道元禅師から数えて4代目にあたる瑩山禅師は元亨元年(1321)、石川県にあった諸嶽寺を諸嶽山總持寺と改め、曹洞宗の礎を築いた。そのため、この二寺がともに、曹洞宗の大本山となっている。
時は下り明治三十一年(1898)、總持寺は本堂の一部より出火、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失した。
再建に際し関連寺院からの「交通の便の良い関東地方に移して」の強い要望により、鶴見の高台で眺望の開けた鶴見ヶ丘へ移転し、現在に至っている。
寺名: 曹洞宗大本山 諸嶽山 總持寺
宗派: 曹洞宗
本尊: 釈迦如来像
中興: 明治四十四年(1911) 石川素童
住所: 横浜市鶴見区鶴見2-1-1
参観: 無料
交通: JR京浜東北線「鶴見」駅より徒歩7分
【履歴】
・2014/01/08(水): 01/05(日)参拝。
三松関 |
扁額「三樹松関」 |
總持寺の総門である。 門には「三樹松関(さんじゅしょうかん)」と書かれた扁額が掲げられている。
この扁額は總持寺中興の祖といわれる石川素童(そどう)禅師(1841〜1924)が揮毫(きごう)されたもので、總持寺の祖院がある能登には、みごとな龍の形をした三本の松樹があったことに由来している。
この総門は、禅宗寺院の第一門としては珍しく、特異な高麗門の様式で建てられている。
総門には、棟続きの右奥に「新到安下所(しんとうあんげしょ)」がある。
仏の道を志す修行僧が、最初にワラジを脱ぎ、宿泊する建物で、細い縦看板がかけられている。
また、総門の左側には、築地塀を背にして「延命地蔵尊」が祀られている。
この地蔵は、悲恋の物語を秘めているとの伝承があり、能登の祖院では「三味線地蔵」と呼ばれている。
三門−正面 |
扁額「諸嶽山」 |
三門−裏面 |
総門を潜り、100mほど石畳の参道を進むと七堂伽藍の最初に出会うのが「三門」だ。
この三門は、木原崇雲氏が妻の菩提のために寄進され、昭和四十四年に落成した建物で、鉄筋コンクリート造りでは日本一の大きさを誇っている。
三門には、左右に元横綱・北の湖関15歳の姿をモデルとした伝えられている阿吽の仁王像が納められている。
また、三門楼上には、開創時からの因縁によって、観音・地藏の放光菩薩像と、十六羅漢像および四天王像が祀られ、毎月二日と十六日には羅漢供養の法要が修行される。これらの像は彫刻家・阿部正基氏の作である。
三門正面の扁額「諸嶽山」は独住十九世・岩本勝俊禅師が書かれたものである。
向唐門 |
向唐門とは、屋根に唐破風を持つ門のことで,唐破風を門の両側面に持つものを平唐門,正面および背面に持つものを向唐門と呼んでいる。
總持寺は、後醍醐天皇から「日域無双の禅苑たるにより、曹洞出世の道場に補任す」との綸旨を賜り、以後、歴代天皇より勅願寺として仰がれてたので、「勅使門」の名を残していた。
禅師の入山式や、正月・節分会・移転記念日(11月5日)の時だけに一般に開扉されているそうで、当日は閉門していた。
大祖堂 |
大祖堂は、一般的にいわれる開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿だ。
千畳敷の内中外陣と、982坪の地下室を有し、瓦葺形の銅版屋根は53トンに及ぶ。
貫首禅師演法の大道場たるのみならず、諸種法要修行の場である。
この殿堂の内陣の奥には「伝灯院」として、高祖大師・太祖大師・二祖国師・五院開基の尊像及び独住禅師の真牌が奉安されている。
訪れた時は見ての通り改修工事の最中で、参拝は控えさせていただいた。
總持寺仏殿 |
扁額「大雄宝殿」 |
伽藍中心部に南面して建ち、方三間一重もこし付の形式で、屋根は入母屋造、本瓦葺。眺めていても飽きることのない荘厳な雰囲気を醸し出している。
棟梁は伊藤平左衛門で大正四年に建てられた。「大雄宝殿」とも呼ばれている。
中央の須弥壇上に禅宗の本尊である釈迦牟尼如来(木彫坐像)を祀り、須弥壇の左右の壇には、禅宗の初祖である達磨大師と、大権修理菩薩を祀っている。
如来は、死の恐怖、病気、四苦八苦など様々な衆生の悩みや苦しみを救済するため、その具体的な請願によって出現される仏である。
尊像は、右手を施無畏印、左手は与願印の印相をしている。
この印相は、人々の不安をとり除き、あらゆる願いをかなえてくれる大慈悲の心を表現している。
ご本尊の脇侍として向かって右は比丘相の迦葉尊者、左には若年美顔相の阿難尊者を祀っている。
この両尊者は、お釈迦様の「十大弟子」の二人でもある。
この2尊を祀ることは一般の曹洞宗寺院と同じだが、両袖に曹洞禅の祖師である洞山悟本大師と、天童如浄禅師を奉安するのは、大本山總持寺仏殿の特色といえる。
紫雲臺 |
扁額「紫雲臺」 |
總持寺の住持・禅師の表方丈の間で、宗門の僧侶、全国の檀信徒と親しく相見する大書院である。 紫雲臺とは、禅師の尊称にもなっている。 正面玄関の「紫雲臺」扁額は、独住第三世西有穆山禅師の書になる。 書院を区画する襖および板戸には大正九〜十年にかけて制作された、佐久間鉄園(上段の間)、津端道彦(相見の間)、松林桂月(松の間)、池上秀畝(雁の間)、佐竹永陵、島崎柳塢、今井爽邦、森脇雲渓、広瀬東畝(孔雀の間)、狩野探令(龍の間)、八木岡勝川春山(山水の間)、松野霞城、高取稚成、佐藤紫煙、大坪正義など、近代日本画の貴重な資料としての水墨画や彩色画が残されている。 これらの障壁画から創建当時の紫雲臺大書院の華麗さがうかがわれる。
大正四年(1915)竣工したが、大正十二年(1923)関東大震災で玄関を除き倒壊してしまった。 現在の建物は昭和三十二年(1957)東京・千駄ヶ谷の尾張徳川家旧書院を移築したもの。總持寺の迎賓館にあたる。
宝蔵館「嫡々庵」 |
玄関の仁王像 |
雲水群像 |
金色に輝く擬宝珠を頂いた建物で、開祖瑩山禅師650回大遠忌の記念として建立された。
本山所蔵文化財を一堂に集め、随時一般に公開している。
「雲水群像」(昭和四十九年(1974))は彫刻家・矢崎虎夫氏が透徹した禅の精神と情熱を傾倒して制作された。
雲水とは、雲の行くまま、水の流るるままの拓鉢遍路をして精進する僧のことである。
三門の東を登った小高い丘陵は雙眸丘(ふたみがおか)と呼ばれており、大梵鐘はその丘にある。 この大梵鐘は大正二年(1913)の鋳造で、重さが18.75tあり関東一の大きさを誇る。 鐘銘は独住四世・石川素童禅師、勧進元は後に九世の伊藤道海禅師である。 この大梵鐘は平成七年(1995)秋に【横浜市指定文化財】に指定された。
以前、仏殿横に建てられていた聖観世音菩薩像は、三門傍の丘に移設され、新たに「平成救世観音」と名付けられた。
観音像は東北方面を向いて設置され、震災犠牲者の慰霊と被災地復興を祈り続けるという。
この観音像は、平成十九年(2007)六月の建設で、本体は約6m高のアルミ製で、台座を合わせると10mを超える。日本を代表する彫刻家・北村西望作の原型をもとにつくられ、宗教学者として知られる山折哲雄氏が命名した。
昼時前だったこともあり、足早に巡ったので十分な鑑賞は出来ていない。また、日を改めて訪れることにしよう。