事事関心! 仏閣探訪:
[ 神奈川県藤沢市/遊行寺 ]
神奈川県藤沢市/遊行寺           2012/12/21(金)新規
探訪案内

 JR東海道線「藤沢」駅北口から遊行寺通りを北上する。藤沢橋交差点先にある朱塗り欄干の遊行寺橋を渡ると正面先に黒門が見える。
 遊行寺は時宗の総本山で、正式には藤沢山無量光院清浄光寺という。
 時宗は一遍上人(1239〜1289)を宗祖とし、南無阿弥陀仏のお札を配りながら各地を回って修行(遊行という)する踊り念仏の宗門である。 この清浄光寺はこうした遊行上人の寺ということで広く一般に「遊行寺」と呼ばれている。

寺名: 藤沢山無量光院清浄光寺(通称「遊行寺」)
宗派: 時宗総本山
本尊: 阿弥陀如来
創建: 正中二年(1325)
開山: 呑海上人
札所: 東国花の寺百ヶ寺神奈川15番札所
住所: 神奈川県藤沢市西富1-8-1
拝観: 無料
交通: JR東海道線「藤沢」駅から徒歩約15分

【履歴】
・2012/12/20(木): 12/19(水)散策。

惣門(黒門) 


黒門


 主柱の後ろに控柱を持つ四本足で、屋根は無く主柱の上部を横木が貫く「冠木門(かぶきもん)」と云われる形式の門だ。 日本三大黒門の一つと言われているが他の二門は不明のため単なる権威付けだけのことのようだ。
 天保十年成稿の「相中留恩記略」挿図や明治初めの境内図では、この門は「惣門」とあり、黒門とは書かれていない。 姿も今とは違い、冠木門に屋根がついた薬医門の形式で、基壇もある。江戸後期の境内図で、門全体を茶色に塗ったものもある。色も黒ではなかったようだ。 文政十三年(1830)に小川泰堂が記した「我がすむ里」という、藤沢とその周辺の地誌がある(『藤沢市史料集2』所載)。 その中の清浄光寺の項では、「総門西面なり、里俗むかしより黒門と呼ならわす、案ずるに上古は黒塗の門なりしや」とし、次いで境を表す畔(くろ)、あるいは外廓(くるわ)門の意味かとの推測もある。 つまりこの時代は、黒門と呼ばれる黒くない門だった。 享保二十年(1735)に黒塗りされた記録があり「黒門」と呼ばれるようになったが、その後建て替えられたが黒塗りされなくなってしまったことのようだ。
 黒門から先、山門跡に向けて"いろは坂"がある。石段が48段あるからこの名がある。

本堂 


本堂

扁額「登霊台」

 本尊の阿弥陀如来と、開山呑海(どんかい)上人を祀っている。 関東大震災で倒壊後、昭和十年に落成。木造では東海道随一と言われている。
 本堂は江戸時代初期以降幾度も焼失し、さらに関東大震災で倒壊したが、正面の柱2本を除き旧部材で昭和に再建された。 堂内は近世の仏堂らしく、広い外陣をなしている。正面1間通りを板敷の外々陣とし、その奥3間を柱を省略した畳敷きの外陣となっている。 時宗特有の踊念仏会(おどりねんぶつえ)は極楽往生が決定(けつじょう)した民衆の踊躍歓喜(ゆやくかんき)を表したものとされているが、この念仏会は、内陣前の広い外陣で行われる。
 木造銅葺きで木造としては東海道随一と言われる。関東大震災で倒壊し、昭和十二年に再建された。
 扁額「登霊台」は紀伊藩主徳川治宝の染筆である。この額はもともと惣門に掛けられていたが、明治の大火の際に救い出されて以降は本堂の正面扉の上に移された。

中雀門 


中雀門

 安政六年(1859)の建築物で、も焼け残り、関東大震災で倒壊したが、そのまま復元されて山内で最古の建築物である。 向唐門(むかいからもん)様式で作られている。
 境内の建造物の中でもっとも古く、紀伊大納言徳川治宝公の寄進により、安政六年(1859)に建てられた。 明治の大火を含め度重なる火災でも焼け残っていたが関東大震災で倒壊、その後以前の姿に復元され平成二十年四月大改修が完成した。


延文銅鐘, 俣野大権現 


延文銅鐘【県指定重要文化財】
総高167cm,口径92cm

俣野大権現

 銅鐘は延文元年(1356)に鋳造された。冶工は,中世関東地方で活躍した鋳物氏の物部氏の一人,光蓮と考えられる。 その後永正十年(1523)に後北条氏により小田原に持ち去られ、更に他かの寺に移転されたが、江戸時代の寛永三年(1626)に遊行寺の壇信徒によって取り戻されて今日に至っているという。

 本山は呑海上人の実兄であり、当時の地頭であった俣野五郎景平が土地と本堂以下の建物を寄進して開山した。 俣野五郎景平は没後に俣野大権現として山内に祀られている。



明治天皇御膳水井

大銀杏

 明治天皇は、三度遊行寺に宿泊されている。その際、この井戸から御膳水がくみ上げられたそうだ。
 大いちょうは、樹齢200〜700年と言われ、樹齢推定に巾があるが、いずれにしても立派な大木である。


一遍上人像 


一遍上人

 時宗の宗祖として仰がれる一遍上人は延応元年(1239)に伊予道後に生れ、10歳で出家以来20数年間の修行ののち、独自の念仏信仰を確立し、文永十一年(1274)に日本国中を念仏賦算(お札配り)と踊り念仏の遊行の旅に出発し、正応二年(1289)に51歳で兵庫の真光寺で没した。 その間25万人以上の人々に念仏札を配ったといわれている。 清浄光寺とは直接の関係はない。


南部茂時墓 

南部茂時墓


酒井忠重逆修六地蔵

 鎌倉幕府滅亡のとき、北条高時に殉じた奥州南部氏十代南部茂時主従の墓。
 酒井忠重は、江戸初期の旗本で、鶴岡城主酒井忠勝の弟。萬治三年(1660年)に建立されたという。

遊行寺−板割朝太郎の墓 

 黒門を潜り、いろは坂を上り始めるとすぐ左にある塔頭真徳寺の墓地に佇んでる。


板割朝太郎の墓

 天保十三年(1842)、赤城山で忠治と別れた後、仏門に入り長野県佐久、時宗金台寺の列外和尚の弟子となった。 のち遊行寺の堂守となり、鐘つき、参詣者の接待、清掃をしながら念仏三昧、中島親子の菩提を弔った。 その精進、改心が認められ、当時、この地にあった貞松院の住職となる。 明治十三年(1880)、遊行寺が火災に遭った際、勧進僧となり各地をめぐり本山の復興に尽くし、明治二十六年、74才でその生涯を閉じた。


あとがき 

 ここは市街地の外れにあるせいか観光客は少ない。東海道随一と云われる木造の本堂以外には目立つ伽藍も少ない。

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