小田急小田原線「栢山」駅下車、東口より県道720号線(怒田開成小田原線)を小田原方向へ進み、県道714号線が合流する変則四叉路で正面の脇道に入り、直進して栢山神社脇を通り過ぎる。
更に、水路沿いの道を暫く進むと右手にある。(徒歩約10分)
建保三年(1215)巴御前が木曽義仲と和田義盛一族の菩提のために律宗の僧、善法真栄上人を勧請して創建されたものと伝える。
次いで南北朝の頃、延元三年(1336)に鎌倉円覚寺第十世東明恵日禅師が足柄の地に隠棲中、臨済宗に改めて再建し、一時大いに繁栄した。
しかし、中世の末に酒匂川のたびたびの氾濫をうけて寺領が流失し、伽藍も荒廃してしまった。
戦国時代に至って、小田原北条氏が関八州の覇者として隆盛したとき、三代太守北条氏康夫人として賢婦の誉れ高かった瑞渓院が、巴御前開基の寺という因縁によって当寺に帰依し、名僧悦叟宗忻和尚(透源大通禅師)を招請して再興し、自ら私財を投じて堂宇を完成した。
時に天文二十三年(1554)で、この時より宗派を現在の曹洞宗に改めた。
以来四百四十余年法統を継承、護持して今日に至る。
本堂前には、巴御前と木曽義仲の五輪塔が、墓地には、北条氏康夫人の墓と栢山で生まれた江戸時代の農政家二宮尊徳とその一族の墓がある。
寺名: 如意山 善栄寺
宗派: 曹洞宗
開山: 善法真栄
開基: 巴御前
創建: 建保三年(1215)
住所: 小田原市栢山868
参観: 無料
アクセス: 小田急小田原線「栢山」駅下車、徒歩約10分
【履歴】
・2015/04/22(水): 04/22(水)探訪
山門 |
扁額「如意山」 |
六地蔵 |
山門前広場左手には苔むし趣のある六地蔵が、右手には庚申塔が一基置かれている。
本堂 |
扁額「善栄寺■」 |
本尊は釈迦如来である。
鐘楼 |
山門を潜り本堂へ向かって進むと、中程左手端に建っている。なお、その先には幼稚園があり、時々園児の歓声が聞こえてくる。
山門を潜り、すぐ右手に二宮金次郎の像があり、その手前に右奥へ延びる弁財天堂への参道がある。
途中、石造りの太鼓橋がある。そして、この橋の右手手前に地蔵堂もあった。
橋を渡ると正面にあるのが弁財天堂だ。
「少年勉学の像」/積小偉大 |
金次郎が16歳の頃、伯父の万兵衛宅に寄食中、一日の仕事を済ましてから、夜遅くまで書物を読んでいるのを見て、万兵衛は”百姓には学問は無用じゃ!”と、行燈の油を無駄に使うなと厳しく叱った。
そこで、友人から菜種五勺(一握り)を借りて、仙了川の土手に蒔き、それが翌年の春になって七升以上の収穫となり、使いきれない程の油ができた。
このことが「積小為大」の貴重な体験になったといわれる。
この銅像はその16歳の頃の、刻苦勉励して「小を積んで大と為す」の自然界の真理を深く学んだ姿だという。
二宮尊徳は、天明七年(1787)七月二十三日栢山の中流農家に生まれたが、幼少の頃、酒匂川の洪水で家は貪困に陥り、十四才で父を、十六才で母を失った。
以後、刻苦勉励して家を再興、また抜群の才幹と卓越した人格によって、各地方の財政復興と社会救済に偉大な業績を遺し、すぐれた報徳の教えをたてて後世に伝えたのである。
そして、安政三年(1856)十月二十日、日光神領復興仕法中に栃木果今市の報徳役所で、その偉大な七十年の生涯を閉じ、同地の星顕山如来寺に葬られた。
この時、先生最後の病床に待していた実弟三郎左衛門(幼名友吉)が、遺髪と遺歯を抱いて十月二十六日故郷に帰り、当寺の二宮総本家の墓地の中に埋葬した。
”葬るに分を越ゆるなかれ“とは、門下に残した遺言である。
「誠明院功誉報徳中正居士」とあるのが、二宮尊徳の戒名である。
木曾義仲公側室 当寺開基 巴御前之墳 |
本堂の手前左にある。向かって右が木曾義仲、左が巴御前の墓である。
巴御前は木曽義仲の妾。義仲とともに戦場を駆けめぐった女武者として知られている。
寿永三年(1184)一月二十日、木曽義仲は近江国粟津で討死するが、巴御前は落ちのびた後、鎌倉の源頼朝に召され、和田義盛の妻となって、朝比奈三郎義秀を生んだというが定かではない。
うら寂しさを感じた。