事事関心! 仏閣探訪:
[ 京都市東山区/六波羅蜜寺 ]
京都市東山区/六波羅蜜寺          2023/10/07(土)更新
探索案内

 京都駅から六波羅蜜寺へ行くには京都市バスが便利である。 駅前バスロータリーから206系統に乗車し、「清水道」バス停で下車、バス停より少し戻り松原通へ右折する。 松原通を西方向(市街中心地)に進み左手四つ目の路地に折れると少し先右手にある(徒歩約5分)。
 六波羅蜜寺は、醍醐天皇第二皇子光勝空也上人が天暦五年(951)に開いた西光寺を、上人の没後、弟子の中信が六波羅蜜寺と改名した。 悪疫退散を念じて空也が刻んだという本尊の十一面観音像(国宝)は本堂(重文)に安置、12年毎の辰年に開帳される。 西国第17番の札所である。

寺名: 補陀洛山 六波羅蜜寺
宗派: 真言宗智山派
本尊: 木造十一面観音立像(秘仏【国宝】)
開基: 空也上人
札所: 西国第17番札所霊場、都七福神の一・巳成金弁財天
住所: 京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町
アクセス: JR京都駅より市バス206系統約20分、「清水道」バス停下車、徒歩約5分。

【履歴】
・2023/10/07(土): 山門、令和館、札所を追加。
・2019/04/20(土): 幽霊本舗を追加。
・2018/11/02(金): 10/31(水)再訪。

山門 

山門

 ここには普通よく見られるような山門はない。左の写真は本堂正面の「鉄門」である。 十年ほど以前にここにあった門も非常に粗末なものだった。


本堂 【重文】

本堂

扁額「六波羅蜜寺」

十一面観音立像

 本堂(重文)は寿永二年(1183)の兵火で本堂を除いて焼失し、南北朝時代貞治二年(1363)に再建された。
 この本堂は昭和四十四年(1969)の解体修理の際に合わせて外側は彩色仕直された。 本堂の内部はそのままの状態で、参拝に来た人々が入ることができる外陣を板敷きとし、蔀戸で仕切られた内陣を一段低い四半敷き土間とする天台式建築である。
 本尊・十一面観音像は12年に一度、辰年に33日間だけ拝観できるそうだ。 縁結びの神様と呼ばれ、お参りすると恋愛が成就し、夫婦円満になると言われている。 本堂手前に本尊・十一面観音立像のレプリカが立っているので、フツーにお参りに来た場合は「本尊はこんななんだ―!」と忘れないで眺めよう。

護摩堂「六波羅弁才天」

護摩堂

六波羅弁才天像

 七福神の一人・弁財天を祀る。祀られている弁財天は高さ30pと小柄だが、まばゆい金色の光を放っている。 こちらの弁財天は「都七福神めぐり」の一つでもある。


水掛不動尊、水子地蔵尊、銭洗い弁天

堂宇

水子地蔵尊

水掛不動尊

 水掛不動尊は、平家討伐に向かう源義経が水を掛けて勝ち戦を祈願したと伝えられる不動尊とのこと。
 その水掛不動尊のすぐ横には、金運に御利益のある銭洗い弁財天が祀られている。


文化財収蔵庫「令和館」 (仏像はWEB借用)

「令和館」玄関表札

 令和館(2020/05/20オープン)では空也上人立像(重要文化財)の他、平安期の薬師如来坐像(重要文化財)や鎌倉期の平清盛坐像(重要文化財)など、重要文化財14体を含む17体の御像が観覧できる。



空也上人立像【重文】

平清盛坐像【重文】

空也上人立像(鎌倉時代): 空也上人は自ら刻んだ十一面観世音菩薩を車に安置して市中を曳き廻り、梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病人に与え、念仏を唱えて病魔を鎮めたという。上人は市民の中に入り伝道に励むのを常としていたと云う。 手に撞木と鹿の角を付けた杖を持ち、草鞋を履いた空也上人像は正に市中の清貧な僧侶の姿であり、権勢を誇り民衆の上に立っていた当時の僧侶の姿は微塵も感じられない。 また、念仏を唱える口からは六体の阿弥陀仏が現れたという伝承も木像に表現されているが、これが空也上人の神秘性を高めるのに独特の効果をもたらしている。
ひとたびも 南無阿弥陀仏と いふ人の はちすの上に のぼらぬはなし 空也(拾遺抄[しゅういしょう])

平清盛坐像(鎌倉時代): 経巻を手にした平清盛坐像は平家物語に描かれた傲慢さは全く感じられない。むしろ仏者としての気品を覚える。一門の武運長久を祈願し、朱の中に血を点じて写経した頃の太政大臣淨海入道清盛公の像である。


運慶坐像【重文】

湛慶坐像【重文】

弘法大師坐像【重文】

運慶坐像・湛慶坐像(鎌倉時代): 我が国の日本仏像彫刻界史上のもっとも有名な仏師親子の肖像彫刻とされている。 精悍な湛慶像と、老いてまだまだ盛んな巨匠といった風貌の運慶像とそれぞれの個性が表現されている。 地蔵菩薩坐像とともに地蔵十輪院に伝わった。当時、十輪院は運慶一族の菩提寺だったことから本尊の脇侍のように祀られていたと云う。
弘法大師坐像(鎌倉時代): 空海を表す時に特有の、五鈷杵を持つ右手の「妙な捻り」以外は、実におとなしめの造形で、顔立ちにまで静謐な雰囲気が漂っている。 がっしりした体格の割に小顔である。作者は、快慶の弟子・長快。 彼は湛慶の補佐もし、三十三間堂の千体千手観音(国宝)制作にも関わったとされる。 なお、この像の衣文は細部まで東寺御影堂の弘法大師坐像(国宝・康勝作)に共通することから、東寺像の模倣と考えられている。
[像高: 69.7p/木造・彩色・玉眼/長快作]


薬師如来坐像【重文】

吉祥天立像【重文】

地蔵菩薩立像【重文】

閻魔大王像【重文】

薬師如来坐像(平安時代): 寺の創始時期の仏像で、本尊に次ぐ古像である。 上半身(及び顔)正面中央を通る線で左右二材を接合する、寄木造の初期の作例」とあったのだが、目を凝らしてよくよく見ても、どこにその「線」があるのやら、現地ではわからなかった
吉祥天立像(鎌倉時代): 吉祥天は、古代インドの神ラクシュミーが守護神として仏教に取り込まれ、中国を経て伝来したもので、毘沙門天と対、または毘沙門天との間の子とされる善膩師童子と合せて三尊で信仰される場合もあるが、当像は独尊であるとのこと。 細かな衣文や、体幹部のプロポーションは優美であり、十三世紀前半の慶派仏師の作と考えらているらしい。
地蔵菩薩立像(平安時代): 六波羅地蔵堂に安置されていた。左手に頭髪を持ち、鬘掛(かつらかけ)地蔵と呼ばれ信仰されている。 『今昔物語集』にもこの像に関する説話が取り上げられるなど、古来著名な像である。
閻魔大王像(鎌倉時代): ド迫力の厳めしい顔付、ガチムチの屈強そうな体型に目を奪われる。 肩幅の広い怒り肩、そこに顔が半ば埋没するような格好である。 法衣は比較的ゆったりと着ることができる服装だが、その下に隠された鍛え上げられた筋肉のために、胸の辺りはピチピチになっている。

その他: みなとや幽霊子育飴本舗 東山区松原通大和大路東入ル二丁目轆轤町

みなとや幽霊子育飴本舗

幽霊子育飴

幽霊子育飴

 六波羅蜜寺を出て、門前の道を左に向かうと約20mほど先丁字路突き当りに、「幽霊子育飴」で有名な「みなとや幽霊子育飴本舗」がある。
 前を通りかった九時半ごろは、時間が早かったので残念ながらお店は開いていなかった。

幽霊の子育て伝説

 今から四百年ほど前の慶長四年(1599)に、鳥辺山(とりべやま:平安時代以前から京の埋葬地となっていた場所)から夜な夜な飴を買いに来る女性が現れました。 この女性は、毎回1文ずつ手にして飴を買いに来ていたそうな。
 ある朝、銭函の中を見てみると、しきみの葉(お墓にお供えする花)が入っていた。 不思議に思った店主は、その夜、買いに来た女性の後をつけていった。 すると、鳥辺山にある墓地の前で、「スーッ..」と姿を消し、お墓の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきたそうな。 翌日、お寺の住職と一緒にお墓を掘ってみると、中から飴をくわえた赤ん坊が出てきた。 その幽霊は赤ん坊をみごもっている時に亡くなり、土葬された女性だったそうな。 しかし、亡くなった後もお腹の中では子どもがすくすくと成長し、お墓の中で赤ん坊が誕生したのだ。 母親は自分が母乳を与えることができないため、幽霊となって飴を買いに来ていたのだ。
 このことから、いつしか飴は『幽霊子育飴』と名前が付けられたと云う。

 京都の街にはこんな人情噺が彼方此方にいっぱい残っている。ちょっとした時間に行う街歩きが興味の尽きない楽しい処である。

あとがき

 境内に宝物館があり、空也上人立像(重文)や平清盛座像(重文)など、平安から鎌倉時代の彫刻名品の数々が納められているそうだ。 今回は時間の余裕がなく拝観はできなかった。
 前回(2019/04)訪問した際は令和館(宝物館)に納められた仏像の鑑賞が出来なかったので再訪し開館(8:30)を待って鑑賞した。 なお、朝早い時間だったが、約20人ほどの観光客が開館前から訪れていた。

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