弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。正式には旧嵯峨御所大覚寺門跡と称し、嵯峨御所とも呼ばれる。
平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立したが、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。
嵯峨院が大覚寺となったのは、皇孫である恒寂入道親王を開山として開創した貞観十八年(876)である。
弘法大師空海のすすめにより嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(60年に1度の開封)として奉安され、般若心経写経の根本道場として知られる。
明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院である。
寺名: 旧嵯峨御所 大本山 大覚寺
宗派: 真言宗大覚寺派
本尊: 不動明王ほか五大明王
開基: 嵯峨天皇
創建: 貞観十八年(876)
住所: 京都市右京区嵯峨大沢町4
拝観: 拝観/500円
アクセス: JR山陰本線「嵯峨嵐山」駅から徒歩約17分
【履歴】
・2015/10/01(木): 09/29(火)拝観。
式台玄関 |
生け花(嵯峨御流) |
大門を潜り進むとすぐ拝観受付の右手にあるのが式台玄関である。
江戸期の建築物で、木造入母屋造瓦葺、正面に銅板葺きの唐破風を持つのが特徴である。東福門院の女御御所の一部と伝わっている。
幔幕に染められた十六弁菊が皇室とのゆかりを感じさせる。
その格式から、大藩の屋敷や貴人を迎える玄関として使用されることが多い。
明智陣屋は亀山城の一部と伝えられる木造切妻造の大きな建物で、明智の名は亀山城主明智光秀の名を残すものである。
ぱっと見にはよそのお寺の庫裏と区別がつきにくいが、前に生えている姿のよい松の木と、手前にある供侍が目印となる。
また、懸魚部分が白漆喰なのも目印となる。
供侍には嵯峨御流の生け花が展示されていた。
嘉永年間(1848〜54)に再建されたもの。 門は四脚門、屋根は切妻造り、正面および背面に軒唐破風を付け、全体は素木造りだが唐破風の部分のみ漆を塗り、金鍍金の飾り装飾を施している。
江戸時代、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。 天皇に入内された徳川2代将軍秀忠の娘、東福門院和子が、女御御殿の宸殿として使用していたもの。 妻飾り、破風板、天井などに装飾がこらされている。廊下・広縁はすべて鶯張りとなっている。
「牡丹の間」の襖絵 |
「柳松の間」の襖絵 |
「鶴の間」の襖絵 |
内部は4室あり、その襖絵から「牡丹の間」、「柳松の間」、「紅梅の間」、「鶴の間」と名付けられている。 特に「牡丹図」と「紅白梅図」は、狩野山楽による桃山金碧画の代表的作品である。
霊明殿 |
総理大臣を務めた斎藤実が昭和三年(1928)東京の沼袋(現・中野区沼袋)に建てた日仏寺の本堂だったものを、 昭和三十三年(1958)当時大覚寺門跡の草繋全宜(くさなぎぜんぎ)が移築した。 縁板まで含め総朱塗りとした建物で、阿弥陀如来を本尊とする。
大正十四年、法隆寺の夢殿を模して再建された。 殿内には嵯峨天皇をはじめ、後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格天皇の勅封心経を奉安し、薬師如来像が奉伺されている。
江戸時代中期(天明年間)の創建。現在の大覚寺の本堂で、不動明王を中心とする五大明王を安置する。
大沢池のほとりに位置し、正面5間、側面5間。正面には吹き抜けの広縁がある。
大沢池に面する東面には、池に張り出すように広いぬれ縁(観月台)があり、大沢池の眺望がすばらしい。
正面中央は双折桟唐戸、両脇各2間は蔀戸となっている。
大覚寺の東に位置し、周囲約1kmの日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園)。 嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、唐(中国)の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれる。
境内の自由散策は出来ないので建物の景観など殆ど観れなかった。また、建物内の撮影も出来ないようだったのでそれも最小限となっている。
秩父宮御殿の特別公開をやっていたが、今回はパスした。