北区紫野にある大徳寺にて「大徳寺 本坊 特別公開(2017年9月16日〜10月15日)」が催されているので拝観しに出掛けた。
大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で鎌倉時代末期の正和四年(1315)に大燈国師宗峰妙超が開創した。
室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興し、桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
勅使門から三門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備した。
千利休によって増築された三門二階部分を「金毛閣」と称し、利休の像を安置したことから秀吉の怒りを買い利休自決の原因となった。
■大徳寺本坊 ■勅使門、三門 ■仏殿 ■法堂
■塔頭 大仙院 ■塔頭 龍源院 ■塔頭 瑞峯院 ■塔頭 興臨院
寺院: 大本山 龍宝山 大徳寺
宗派: 臨済宗大徳寺派
本尊: 釈迦如来
開創: 正和四年(1315) 大燈国師宗峰妙超
拝観: 特別公開−大人1,000円
住所: 京都市北区紫野大徳寺町53
アクセス: 地下鉄「北大路」駅にて下車、バスターミナルより205系統で「大徳寺前」バス停へ、降りるとすぐ。
【履歴】
・10/01(日): 09/25(月)拝観。
公開内容: (写真撮影禁止!!)
・方丈(国宝)
− 狩野探幽筆 方丈障壁画(重文)
− 織田信長公像(狩野永徳筆)、総見院殿像
・方丈庭園(史跡・特別名勝)
− 唐門(国宝)
・法堂
− 狩野探幽筆 法堂天井画「雲龍図」(重文)
本坊入口 |
拝観は庫裡から入り、その先に繋がる方丈を説明付きで一周巡り、その後、自由に法堂・唐門を拝観する段取りだった。
本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水の庭だ。
方丈の縁側に面した方丈庭園の正面には聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。
方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。
什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。
現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、それぞれに貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。
勅使門 |
三門 |
三門前にある、前後唐破風、左右切妻、屋根桧皮葺の四脚門、後水尾天皇より拝領したと伝えられる。
平成十二年には屋根等を修復している。
応仁の乱後、一休禅師の参徒連歌師宗長等が一階部分を寄進、のち千利休居士により二階部分が設けられ金毛閣と名づけられた。
当山第一世大現国師により創建せらるるも応仁の乱にて消失、一休和尚等によって再建されるも、寛文五年(1665)那波常有によって改めて建造された。本尊の釈迦如来座像が祭られている。
法堂と同様にここにも天井画が描かれているが、残念ながら傷みが激しく何の絵か判別不能な状態だった。
仏殿前のイブキの古木は、仏殿再建の時に植えられたものと考えられ、京都市の天然記念物に指定されている。
法堂 |
正中二年(1325)夏、宗印禅者を檀越として修造を始めるが、これまた応仁の兵乱によって消失した。
一休和尚が仏殿を再建した後は仏殿と兼用されていた。
寛永十三年(1636)、開山国師三百年遠諱に当たり、江月和尚の参徒・小田原城主稲葉丹後守正勝、正則父子により現在地に再建。
天井の龍は、狩野探幽35歳の筆による。
堂内で拍を打つとまるで龍が鳴いたかのような不思議な音が響く。「天下一の鳴き龍」と呼ばれる鳴き声を聞いてみたいと思い、思わず強く手を打った。
永正六年(1509)六角近江守政頼が、その子古岳宗亘和尚を開祖として創建した。 本堂(国宝)は創建当初の建物で、禅宗の方丈建築としては最も古い遺構の一つ。 書院は重文。庭園は枯山水を代表する石庭といわれ、狭い地に沢山の巨石を配置して山や渓流を現している。
山門 |
独座庭 |
天文四年(1535)九州の戦国大名大友義鎮(よししげ)(宗麟)が建立した大徳寺の塔頭である。
宗麟は、徹岫宗九を開祖にむかえ自分の菩提寺として建て、宗麟の法名によって瑞峯院と名付けられた。
なお宗麟はのちにキリスト教の洗礼をうけ、キリシタン大名としても有名である。
方丈および唐門、表門は(いずれも重要文化財)は創建当寺の建物である。
方丈には後奈良天皇の宸筆になる「瑞峯院」の寺額をかかげている。
内部のふすま絵は、最近の作品であるが瑞峯の院名にちなんで朝鮮の金剛山を写した大作である。
庭園は、独坐庭(方丈南庭)、茶庭(中庭)、閑眠庭(方丈北庭)の三面があり、何れも最近の作庭ではあるが、枯山水の新しい名園となっている。
大徳寺南派の本庵で、文亀二年(1502)大燈国師八世の法孫東渓宗牧を開山として、能登守護畠山義元が創建したものである。
方丈・唐門・表門はいずれも創建当初の建物で、大徳寺山内最古の建物であり、禅宗方丈の典型的な形式を示している。
本尊釈迦如来像は建長二年(1250)行心の作、以上いずれも重要文化財に指定されている。
そのほか、方丈襖絵に室町時代等春筆「列仙の図」がある。
庭園は各様式からなり、特に方丈北庭は室町時代相阿弥作と伝えられる須弥山式)枯山水の名園、方丈東庭は珍しい壺石庭(つぼせきてい)で有名。
また、方丈前庭にはもと大宮御所にあった桃山型石燈籠があり、さらに聚楽第の礎石を配した阿・吽の石庭等もある。
寺宝には、他に豊臣秀吉、徳川家康が対局した四方蒔絵の碁盤、天正十一年(1583)在銘の種子島銃などがある。
表門【重文】 |
唐門【重文】 |
庭園 |
大永年間(1521〜1528)能登の畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立したといわれ、みずからの法名を寺号とした。
方丈・唐文・表門そして所蔵の椿尾長鳥模様堆朱盆は重要文化財に指定されている。
方丈は創建後に火災にあったが、天文二年(1533)に再建されたらしく、さらに畠山氏衰微ののち、天正年間(1573〜1592)前田利家によって修復なども行なわれた。
方丈玄関の唐門は室町時代の禅宗様式を見事にあらわしており、表門も創建当初のもので「興臨院の古文」として有名である。
一方、バイタラ樹の名木がある枯山水の庭や茶席「涵虚亭」のおもむきが深い。
本坊の拝観は案内員の説明がついていた。これだと知識は深まるが庭園や襖絵をじっくり鑑賞したり出来ないので痛し痒しだ。
本坊拝観の後、公開されている塔頭を巡ったが何処も人影は疎らで、瑞峯院では縁側にて座禅を組んでいる人さえいた。