事事関心! 仏閣探訪:
[ 京都市上京区/引接寺(千本えんま堂) ]
京都市上京区/引接寺(千本えんま堂)     2019/09/28(土)新規
探索案内

 千本今出川交差点から千本通を信号3個分北上した廬山通との交差点左手にある。
 千本ゑんま堂のはじまりは、朱雀大路(現千本通)頭に、小野篁が閻魔法王を安置したことによると伝えられている。 当時、この辺りは「蓮台野(れんだいの)」と呼ばれ、平安京の三大風葬地の一つだった。 当時は野原が広がる北の外れの地で、死体を雨風にさらす葬り方(風葬)をしていたそうだ。 そこで篁は、この風葬地の入口に自ら刻んだ閻魔法王を、祠を建てて安置し、死者の魂を弔ったと云う。 死者の魂をお送りし、塔婆供養と迎え鐘を用いて先祖の魂を再びこの世に迎えて供養した。 現在でもこの風習は残され、お盆に「お精霊迎え」として行われている。
 お堂が建てられたのは、平安時代の寛仁元年(1017)に定覺上人が引接寺として開山した頃。その後、応仁の乱でお堂と閻魔法王は焼失するが、長享二年(1488)に閻魔法王は新たにつくられ、現在でも"ゑんま堂"として厚く信仰されている。

寺名: 光明山 歓喜院 引接寺(いんじょうじ)(通称: 千本ゑんま堂)
宗派: 高野山真言宗
本尊: 閻魔法王
創建: 寛仁元年(1017)
開基: 定覚(小野篁とも)
住所: 京都市上京区千本通蘆山寺上ル閻魔前町34
アクセス: 京都駅から市営バス206号系統「乾隆校前」バス停下車、北へ約100m。

【履歴】
・2019/09/28(土): 09/24(火)探訪

境内入口


 「千本えんま堂 引接寺」の寺号標と赤い「千本えんま堂」の提灯列が並ぶ門柱から真っ直ぐに本堂まで石畳の参道が続いている。


本堂

本堂

閻魔大王[ネットより借用]

 本堂には見る者を圧倒する大きな閻魔像が鎮座する裁きの間が再現されている。 像の大きさは日本最大級でおよそ2.4m。両脇に司令尊(右)と司録尊(左)。 司令尊は、生前の行いをゑんま様に伝える係り。司録尊は、裁判の結果を記録する。脇には小野篁像も控えている。
 現在のお像は長享二年(1488)仏師定勢により刻まれ再現安置されている。

地蔵供養池


 本堂の右奥には「地蔵供養池」がある。
 京都では旧盆の8月7日〜15日に、先祖の精霊がゑんま様のお許しを得て各家庭にお皈りになる。 地域の人々を中心に多数お参りし、水塔婆を流し迎え鐘をついて、その音にのって皈ってこられる「おしょらいさん」をお仏壇の扉を開いてお迎えする。 また15日夕〜16日には再びお皈り頂く"お精霊送り"を行う。


十重供養塔と紫式部像

十重供養塔【重文】

紫式部像

 高さ6mの花崗岩製の供養塔は、南北朝時代は至徳三年(1386)に、圓阿上人の勧進によって建立されたものであるという。
 この供養塔は紫野雲林院の塔頭白毫院にあったものが移築されたもので、大徳寺真珠庵に「紫式部産湯の井戸」もあり、式部の供養塔であることは疑いない。
 紫式部のブロンズ像は平成二十年源氏物語千年紀に因んで、信者からの寄進によるもの。高さ約1m、十ニ単衣を纏い巻物を垂らして読む立ち姿、ふっくらとした童女の面持ちで首を傾げている。 翌々平成二十二年、開山堂から供養塔の傍に安置された。

あとがき

 平安京の時代、京の都の外れには、死者を葬るための葬送地があり、北の千本焔魔堂と南の六道珍皇寺はともにあの世と、生者の世界である現世の境目におかれたお寺だそうだ。 京都の街を毎年2,3日づつ巡り八年目、やっと平安時代の南北の現世とあの世の堺まで足を運んだんだな―、とちょっと感傷に浸ってしまった。


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