事事関心! 仏閣探訪:
[ 京都市東山区/清水寺 ]
京都市東山区/清水寺【世界遺産】           2022/01/09(日)更新
探索案内

 清水寺は東山区の音羽山の中腹にあり、地下鉄や京阪電鉄の電車利用では意外と不便な処だ。そこで、バスでのアクセスをお勧めする。 京都駅前バスターミナルから市バス206系統か100系統に乗り「五条坂」バス停で下車する。 五条坂から茶碗坂を登ること10分、清水寺の玄関である仁王門前に到着だ。
 清水寺は、延鎮上人により宝亀九年(778)に開山されたと伝えられている。 当初は「北観音寺」と呼ばれていたが、境内にわき出る清水(「音羽の滝」)が観音信仰の黄金延命水として神聖化され、一般にも清めの水として「清水」が知られるようになり、後に名称を「清水寺」に改めた。
 清水寺の一番の見所は「清水の舞台」で有名な本堂だ。 崖下からの高さは18mあり、舞台からは京都市内が一望できる。

[ 見所一覧 ]
仁王門西門北総門弁天堂三重塔
鐘楼瑞求堂経堂轟門本堂
釈迦堂西向地蔵堂阿弥陀堂奥の院百体地蔵堂
子安塔音羽の滝鎮守堂(春日社)善光寺堂

寺名: 音羽山 清水寺
宗派: 北法相宗大本山
本尊: 十一面千手観音像
札所: 西国三十三箇所観音霊場第十六番  法然上人二十五霊跡  洛陽三十三所観音霊場第十番
拝観: 本堂・奥の院拝観 400円
住所: 京都市東山区清水1-294
アクセス: 市バス[206:北大路バスターミナル行]、[100:清水寺・祇園・銀閣寺行]で「五条坂」下車、徒歩10分。

【履歴】
・2022/01/09(日): 見所追加(北総門、弁天社、西向地蔵堂、百体地蔵堂、経堂、轟門、鎮守堂(春日社))。
・2020/10/31(土): 10/28(水)有料領域拝観。
・2015/10/10(土): 新規。

仁王門【重文】

 てくてくと参道の坂道を登ってきて、最初にこの鮮やかな朱色の壮大な門を見たときには、思わず晴れやかな気持ちになってしまった。広々とした青い空が背景にあるせいだったかもしれない。


仁王門

 仁王門は、応仁の乱の後の室町時代(十五世紀末)に再建されたと云う。 大きさは三間一戸、檜皮葺きで左右10m、高さ約14m、奥行8.4mである。
 安置されている仁王像は鎌倉時代作の京都で最大といわれているが、観ていない。
 門の手前の狛犬は左右とも口を開いた阿形(あぎょう)で珍しく、境内鎮守社である地主神社のためのものだそうだ。 [清水寺の七不思議]
 この仁王門の右側端に小さな穴が開いている。この穴は門の表と裏側にあり、その穴に耳をあて反対側の穴を誰かに叩いてもらうと「カンカン」と透き通った音が聞こえるそうだ。 なぜこのようなものが作られたのか不明と云う。[清水寺の七不思議]

仁王門の狛犬[清水寺の七不思議]

 この狛犬たちは『笑い獅子』と呼ばれている珍しい狛犬だ。 なぜ、このように2体とも口を開いているのか...。確かな理由はわかっていないそうだが、 その理由のひとつとして考えられているのがコレ。 清水寺は高い位置にあるため、疲れて苦しい顔でお参りする人が多いと云う。 そうなるとご利益が半減。 「自分たちのように笑ってお参りください」との意味だという。
 また、吼えているようにも見えるので、『獅子吼(ししく)』とも言われているそうだ。

西門

 仁王門の右手奥にある。こちらは通常出入り禁止となっている。


西門と三重塔

西門

 西門の現在の建物は寛永八年(1631)再建のもの。 もとの創建時期は不詳だが、史書「帝王編年記」など鎌倉時代の文献に見えるので、おそらく浄土教が流行した平安時代末期には出来ていたようだ。 ここから見る西山の日没は素晴らしく、極楽浄土に往生する入り口の門、浄土を観想する日想観(にっそうかん)の聖所であったと考えられている。 平成六年(1994)に桧皮屋根の葺き替えと、彩色の全面復元がなされた。

北総門【重文】

 北総門は、仁王門を潜り直進する本堂への順路ではなく左へ折れた先にある。



 北総門は、一重切妻造瓦葺の一間潜付薬医門で横幅6.5m、高さ5mの大きさがある。
 この門は、寛永八年〜十六年(1631〜39)に再建され、平成二十二年(2010)に全面的に解体修復工事が行われた。 なお、かつて成就院(現在、清水寺の本坊として使用されている)の正門として造営されたものだ。


弁天堂

 北総門の東側には弁天池があり、その中島に「弁天堂」と呼ばれる小さな社祠がある。


弁天堂

 金運や蓄財のご利益がある弁天様が祀られているのでこの弁天堂にもお参りしたいものだ。


三重塔

三重塔

三重塔(奥の院より望む)

 三重塔は平安時代初期847年に創建され、寛永九年(1632)に再建された。 現在の塔は古様式に則って昭和六十二年(1987)に解体修理したもので、総丹塗りとともに、桃山様式を示す極彩色文様を復元した。 内部には大日如来像を祀り、四方の壁に真言八祖像、天井・柱などには密教仏画や飛天・龍らが極彩色で描かれている。
 三重塔としては日本最大級の高さ約31mの塔は、古くから清水寺、京都東山のシンボルであった。
 三重塔の四方の角には「鬼瓦」が配置されており、東南角だけ「龍」が飾られている。 鬼瓦には厄払いの意味があり配置されるが、龍は水の神様であることから火除けの意味があるとされている。 これには意味があるとされており、京都の西北にある一番標高が高い愛宕山の山頂には、火伏せの神様が祀られている神社があり、京の都を火災から守ってきた。 しかし、その反対側の東南には守神がおらず、三重塔の東南角に龍を配置されたとされているそうだ。[清水寺の七不思議]

鐘楼【重文】

 仁王門を潜りすぐ左手に建つ。


鐘楼

 平安期に建造され、江戸時代中期の慶長十二年(1607)に玉円上人の手で現在の場所に再建・移築された。 応仁の乱の前は現在の本堂の北東方向、地主神社の南東の位置に建っていたという。
 桃山建築様式の粋を凝らした造りで、牡丹彫刻の懸魚や、菊花彫刻の蟇股、四隅の柱の先にある獏と象の木鼻などが見所である。
 現在の梵鐘は平成二十年(2008)に取り付けられた五代目で、高さ2.1m、重さ2.365tある。 四代目の梵鐘は重要文化財に指定されており、宝蔵殿に安置されている。


瑞求堂(慈心院 随求堂)

 仁王門を潜り真っ直ぐ参道の階段を上ると正面に建つ。


瑞求堂

随求菩薩(WEB借用)

 塔頭慈心院の本堂で、享保三年(1718)の再建。平成十八年(2006)には解体修理がなされている。
 随求堂の内部は前堂、相の間、後堂と地下室で構成されている。
 前堂は外陣部分にあたり一般非公開で堂内の仏龕には大聖歓喜天(絶対秘仏)、左端の覆屋(小堂)には粟島明神が祀られている。 なお、有名な「胎内くぐり」はこの外陣部分で行なわれている。
 前堂と後堂をつなぐ相の間には本堂と同じ清水型千手観音像や十一面観音菩薩、大聖歓喜天が祀られている。 後堂は内陣にあたり、衆生の願い、求めに随って、叶えてくれるという大功徳をもつ大随求菩薩(秘仏)を本尊として祀っている。 千鳥破風に施された「龍の鏝絵(こてえ)」は傑作として知られている。

経堂【重文】

 経堂は仁王門から進み三重塔の裏側にある田村堂の前に建っている。


経堂

 創設当時は講堂として造営されたもので、平成十二年(2000)に再建(解体・修理)が成されている。


轟門【重文】

轟門【重文】

 轟門は寛永八〜十年(1631〜33)に再建された。 ここを通り本堂へ入堂する。正面には左右両脇に持国天と広目天 、背面には阿・吽形の狛犬が安置されている。 門の前には、四角にフクロウが彫刻された石造の「梟の手水鉢」がある。
 平成二十八年(2016)に全面改修を終えた。


本堂【国宝】

 轟門で入場料を払い回廊を抜けてすぐ大黒様にご挨拶だ。そして本堂前の舞台に到着。 すると、どういうわけか最初に舞台の前面からの景色を見たくなってしまう。


本堂【国宝】

内々陣(WEB借用)

出世大黒天(WEB借用)

 本堂は、寛永十年(1633)に再建された、正面36m強、側面約30m、棟高18mの大堂である。 堂内は巨大な丸柱の列によって外陣(礼堂)と内陣、内々陣の三つに分かれ、通常、外陣とさらに外側に廊下がめぐらされている。 建物は、優美な曲線を見せる寄棟造り、檜皮葺の屋根や軒下の蔀戸(しとみど)など、平安時代の宮殿や貴族の邸宅の面影を今に伝えている。
 舞台は、錦雲渓(きんうんけい)の急な崖に、最長約12mの巨大な欅の柱を並べ、「懸造り」という手法で、釘を一本も使わずに組み上げた木造建築である。 本堂から張り出した「舞台」はちょうど4階建てのビルの高さにあたり、京都市街の眺望が見事である。 面積は約190u、410枚以上のヒノキ板を敷き詰めた「桧舞台」である。
 内々陣には多数のロウソクが灯され荘厳な雰囲気が漂っている。 3つの厨子が並らび、中央には本尊の「清水型千手観音立像」、向かって右には「毘沙門天立像」(二十八部衆の一尊・七福神の一尊)、左には「地蔵菩薩立像」が奉られている(3体とも秘仏)。 その間には、千手観音の眷属「二十八部衆」(千手観音の眷属・配下)が立ち並び、少し高い位置には風神・雷神像がいる。

釈迦堂【重文】

 舞台を横断して入口の反対側へ進むと少し低くなった広場に西向地蔵堂、そして釈迦堂が建っている。


釈迦堂

 寛永八年(1631)再建。一見簡素な造りだが 、内部は朱い漆塗りの円柱の来迎柱や、極彩色を施された長押、貫、遊飛する天女の天井画などが装飾されている。
 中央の黒い漆塗りの須弥壇上には釈迦三尊が祀られている。
 昭和四十七年(1972)に豪雨で倒壊したが 、その三年後(昭和五十年)に流された用材をかき集め寛永八年(1631)の姿で復旧された。 ただし、瓦屋根は創建当初の茅葺屋根に葺き替えされている。


西向地蔵堂


 釈迦堂の左に建つ。この堂宇も昭和四十七年(1972)に豪雨で倒壊したため、昭和五十年に再建されている。


阿弥陀堂【重文】


 江戸時代初期・寛永八年(1631)の再建で入母屋造り、桟瓦葺の建築様式。
 浄土宗の開祖・法然上人が日本で最初に常行念仏道場とした場所であることから、法然上人二十五霊場第十三番札所として多くの参拝者が訪れている。
 本尊は阿弥陀如来。


奥の院【重文】


 「音羽の瀧」の真上に建ち、現在の建物は、本堂と同時期の寛永十年(1633)に再建された。
 平成二十九年(2017)に修復がなされている。本堂と同様の懸造りである。


百体地蔵堂


 釈迦堂と阿弥陀堂の間の奥に建つ堂宇である。 子供を亡くした親たちが、我が子に似た地蔵を探し、篤く信仰しているといわれている。 夏の地蔵盆会では多くの参拝者で賑わうそうだ。


子安塔【重文】


 聖武天皇、光明皇后の祈願所と伝えられているが、その創建時期は不明。
 現在の建物は、明応九年(1500)の再建で高さ約15mの三重塔(重文)である。 明治期までは仁王門の左手前にあったが、明治四十四年(1911)に現在地に移された。 堂内には子安観音(千手観音)が安置され、安産の神として信仰を集めてきた。
 なお、産寧坂(三年坂)は子安観音へ祈願するための参道であったという。

音羽の滝

音羽の滝

 奥の院の断崖へ音羽川の流れを引き、三条の滝口から清流を本堂舞台下へ落としている。
 三つの筧から流れ落ちる水は万病に効く霊験あらたかな滝として知られ、古来から「黄金水」「延命水」などとも呼ばれている。


音羽の滝 言い伝え
 観音様の化身である龍が夜ごと飛来して水を飲んだという。
 流れる三本の水にはそれぞれ意味があり、おおきくは「仏・法・僧への帰依」で、左から慈悲、真ん中が利、右が知恵のご利益があると言われている。 つまり「行動」「言葉」「心」の3業の清浄をあらわし、滝自体が神聖な信仰の対象とされたきた。
 ただし、飲む場合、「一か所から一口で!」としよう。
 ・3本すべての水を飲むと受けたご利益が全てなくなる
 ・ひしゃくで受けた水を、2口、3口と飲むとご利益が1/2、1/3となる
と云われている。
鎮守堂(春日社)【重文】


 三重塔を左へ進むと隋求堂があるがその手前にある階段を降りた広場の片隅に建つ小さな社である。
 社は室町時代後期に再建された。 清水寺の法流の鎮守である奈良の春日大明神の来臨を願って祀った鎮守堂である。 典型的な春日造りの神社建築で、細かな彫刻が桃山時代の様式美を表している。


善光寺堂

善光寺堂

如意輪観音坐像(WEB借用)

 山門前に建つ洛陽三十三所観音霊場第十番札所である。
 もとは地蔵菩薩を本尊とする「地蔵院」だったが、いつ頃からか如意輪観音を中尊とし、明治の中頃に、奥の院南庭にあった善光寺如来堂を合併して、「善光寺堂」となった。
 鎌倉時代末期作の秀逸な如意輪観音坐像、善光寺如来堂の本尊だった善光寺型阿弥陀如来三尊像は、本尊の地蔵菩薩立像と並んで安置されている。

見どころ

 屋根の修復工事が終わったので今回(10/28)やっと再訪した。 拝観者は少な目でよかったが、まだ舞台下の部分が工事中だったのが残念だ。
 コロナ禍によりまだ観光客が少ない状況でも境内の京都地主神社は行列が出来る混雑ぶりだった。 とにかく若者、カップルが多かったな―。

関連コンテンツ

inserted by FC2 system