金戒光明寺/境内図 |
京都駅前バスターミナルから市バス100系統[清水寺・銀閣寺行]に乗り「岡崎道」バス停で降り、ここから東方向へ20m先信号のある交差点で左折し道なりに行くと徒歩約10分の処に高麗門(西門)がある。
法然上人が承安五年(1175)念仏の教えを広めるために比叡山山頂の石の上で念仏をされた時、
紫雲が全山に漲り光明が辺りを照らしたことから この地(くろ谷)に草庵をむすばれ、これが浄土宗最初の寺院となった。
ここは、幕末に京都守護職を勤めた会津藩主松平容保が本陣を置いた場所でもある。
浪士組として京都に来ていた芹沢鴨、近藤勇らは、松平容保から「新撰組」の名を賜り、京都で活動した。
会津藩の本陣があった関係で、黒谷には戊辰戦争で亡くなった会津藩士の供養塔もある。
寺名: 紫雲山・くろ谷 金戒光明寺
宗派: 浄土宗大本山
開山: 宗祖/法然上人(源空)
本尊: 阿弥陀如来
拝観: 境内無料(御影堂・大方丈・庭園・山門の内部拝観は特別公開時のみ)
住所: 京都市左京区黒谷町121
アクセス: 京阪電鉄鴨東線「丸太町」駅から徒歩30分、または市バス204番で「岡崎道」下車徒歩10分
【履歴】
・2014/10/03(金): 09/29(月)探訪
高麗門(西門) |
高麗門には右脚柱に「京都守護職本陣」の表札が掛かっている。また、高麗門の右に「会津藩殉難者墓所」碑もある。
徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注いだ。
直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置出来るように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとしたのである。
黒谷は、大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。
有事の際はこの門を閉じて、知恩院と呼応して黒谷全体を城砦化することにしていたと云う。
山門 |
山門/扁額「浄土真宗最初門」 |
山門は応仁の乱にて消失し、万延元年(1860)に再建された。桜上正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がある。
釈迦三尊像、十六羅漢像が安置されている。更に天井には今にも動き出しそうな迫力のある蟠龍図が描かれている。
御影堂 |
千手観音立像【重文】 |
文殊菩薩半跏像 |
御影堂は大殿とも称され、宗祖法然上人75歳時の御影座像が安置されている。
昭和九年に焼失したため、昭和十九年に再建された。
千手観音立像(吉備観音)は遣唐使・吉備真備の難を救ったと言われる観音さまだ。
文殊菩薩半跏像(中山文殊)は三重の塔に安置されていたが、平成二十年に御影堂に遷座された。
日本三文殊の一つで、文殊菩薩像と脇侍像は運慶作と伝えられている。
すっとした顔立ちで、乗っている獅子はどっしりとした力強さがある。
阿弥陀堂 |
本尊: 阿弥陀如来坐像 |
阿弥陀堂は慶長十年(1605)豊臣秀頼により再建された。境内で最も古い建物である。
恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。如来の腹中に一代彫刻の使用器具が納められてあることから「おとめの如来」、「ノミおさめ如来」と称されている。
清和殿 |
納骨堂 |
清和殿は食事処の堂宇で江戸時代の安永八年(1779)の建物である。昔は大庫裡として使われていた。 現在では、法要の待合などに使われており、古く大きな建材と高い天井が特徴だ。
三重塔(WEBより借用) |
三重塔(文殊塔)は、寛永十年(1633)徳川二代将軍秀忠の供養ために建立され(【重文】)、黒谷の北西にあった中山宝幢寺の本尊だった文殊菩薩像が安置された。 中山宝幢寺は応仁の乱の兵火で廃寺となり、本尊の文殊菩薩像は近くに建てられた小堂に祀られていたという。 寛永十年(1633)に金戒光明寺の方丈に移され、三重塔が建立されると本尊として安置されたが、平成二十年御影堂に遷座した。
残念ながら時間が押し足早の見学となってしまった。そのため、建物内へは入っていないし、三重塔なども見ずじまい。