広隆寺−境内図 |
JR「京都」駅からのアクセスは多少不便だ。まず、嵯峨野線(山陰本線)で「太秦」駅まで行き、3分ほど歩いて嵐電北野線「撮影所前」駅へ。
ここから一駅目の「帷子ノ辻」駅で嵐山本線に乗り換えて「太秦広隆寺」駅にて降りる。すると、目の前の道路の向かい側に寺の山門が聳えている。
広隆寺は推古天皇十一年(603)に聖徳太子に譲られた仏像を祀るために作られた寺で、京都最古の寺院である。
しかしながら広隆寺は弘仁九年(818)火災で焼失、弘法大師の弟子であり秦氏出身の道昌僧都によって再建された。
更に永承五年(1150)にも火災に遭っており、現在の広隆寺はその後に復興したものである。
寺名: 蜂岡山 広隆寺
宗派: 真言宗系単立
本尊: 聖徳太子(上宮王院本尊)
拝観: 霊宝館拝観/300円
住所: 京都市右京区太秦蜂岡町32
交通: JR山陰本線「太秦」駅から徒歩約10分
【履歴】
2017/09/28(木): 09/27(水)拝観。
寺名標 |
山門 |
仁王像(吽) |
仁王像(阿) |
広隆寺の正門で、門の両脇には仁王像が安置されている。元禄十五年(1702)の再建。
南大門を入ると正面右手に講堂があり、その先に聖徳太子像(秘仏)をまつる上宮王院太子殿が建つ。
更にその北側に宝物館である新霊宝殿がある。
講堂 |
阿弥陀如来坐像【国宝】 |
平安時代の建造物。永万元年(1165)の再建で広隆寺内で最古の建物。
この講堂は当初金堂として使われていたと思われている。
室町時代末期に改造され、正面に禅宗様の火灯窓が付けられたことにより、当初とは面影を異にしている。
寄棟造の漆喰壁で床は土間であり、桁行5間、梁間4間は、中規模の古代仏堂の典型である。
阿弥陀如来坐像、地蔵菩薩坐像、虚空菩薩坐像を祀る。
阿弥陀如来坐像は講堂の本尊で国宝に指定されている。像高261cm。記録から承和七年(840)頃の作とされている。
広隆寺の本堂に当たる堂で、入母屋造、檜皮葺きの宮殿風建築である。
享保十五年(1730)の建立である。堂内奥の厨子内には本尊として聖徳太子立像を安置する。
本尊の聖徳太子像は秘仏であり、毎年11月22日のみ特別公開されている。
この聖徳太子像の着衣は黄櫨染御袍という天皇が重要儀式で着用する衣服で、天皇より衣服を賜り着せる習わしが平安時代から現在まで続いているそうだ。
堂の縁側には立ち入りでき、壁には明治以降の奉記録が並んでいる。
宝冠弥勒菩薩半跏像【国宝】 |
十二神将像【国宝】 |
旧霊宝殿は大正十二年(1923)、聖徳太子の1300年忌にあわせて建設された。その東側に新霊宝殿が昭和五十七年(1982)に造られ、ここで広隆寺に伝わる数十躰の仏像が公開されている。
展示室に入るとすぐ目の前の壁一面に12神将像(【国宝】)が並ぶ。
そして展示室の奥の中央には、有名な宝冠弥勒菩薩半跏像(国宝指定第一号)が安置されている。像高は123.3cmと等身大の大きさである。
この弥勒菩薩は、宝冠を冠っているように見えることからもう一体の弥勒菩薩と区別して宝冠弥勒と呼ばれている。
そこから振り返ると、弥勒像と向かい合わせに3躰の大きな仏像が並んでいる。
真ん中は千手観音坐像(【重文】)、向って右の千手観音立像(【国宝】)は極めて林厳な顔つきの平安前期彫刻。
そして向って左、霊宝殿の出口に近い場所に大きな不空羂索観音像(【国宝】)が立っている。
十二神将像(【国宝】)は康平七年(1064)作で、仏師・長勢の作品を含む。
長勢は、平安時代後期を代表する仏師・定朝の弟子にあたる。
きちんと拝観できず。薬師堂は、木造薬師如来立像(平安時代前期、像高101.3cm)を安置する。 地蔵堂は「腹帯地蔵」と通称される木造地蔵菩薩坐像を安置する。
境内の西の端に桂宮院という鎌倉時代の美しい八角の太子堂(【国宝】)があるが、非公開。
京都駅からアクセスするとしてJR「太秦」駅からだと約10分と離れた処にポツンと建つお寺のためか、観光客は疎ら。自分らが訪れたときは二,三人しかいなかった。
一寺で多くの国宝を含む数十躰の仏像が拝観できるので仏像好きには見逃せない寺である。