1654年、日本からの度重なる招請を受け、中国福建省から渡来した隠元禅師が、後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の尊崇を得て、1661年に開創した明朝伽藍の寺院。日本三禅宗(臨済、曹洞、黄檗)の一つであり、隠元禅師、木庵禅師、即非禅師など中国の名僧を原点とする黄檗宗の大本山。京都都七福神の一柱布袋尊を祀っている。
観覧した順路をなぞり紹介する。
寺名: 黄檗山 萬福寺
宗派: 黄檗宗大本山
本尊: 釈迦如来
創建: 寛文元年(1661)
開基: 隠元隆g
拝観: 一般 600円
住所: 京都府宇治市五ヶ庄三番割34
交通: 京阪電鉄「黄檗」駅下車、東へ徒歩5分。
【履歴】
・2014/10/03(金): 09/30(火) 探訪。
総門 |
寛文元年(1661)創建。元禄6年(1693)再建。
中央の屋根を高くし、左右を一段低くした中国門の牌楼(ぱいろう)式を用い、漢門とも呼ばれた。
中央上部裏面には円相が型取られている。これは風水的モチーフの一つの「白虎鏡」だ。額「第一義」は第5代高泉の書である。
句碑「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」 |
三門 |
扁額「萬福寺」(隠元書) |
総門を潜り、しばらく行くと眼前にそびえる大きな門が現れる。満福寺の三門だ。
その手前に江戸時代の尼僧で俳人の菊舎尼が萬福寺を訪れた際に詠んだ「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」と刻まれた句碑がある。
三門の内側は中国そのものだったのに、三門を出た際、茶畑から聞こえた茶摘み唄に「ここは日本であった」と我に返ったときの句と言われている。
元々萬福寺には三門は無かった。それは三門が本来、中国の寺にはないからだ。日本のほかの臨済宗の寺には三門があるということもあり、途中(1678年)で造られたとのこと。
三門には外と内を分ける結界の位置付けがあり、外は境内地であっても俗世間、内は禅の修行僧が集う聖地になっている。
山門を潜り右手の拝観受付で拝観の手続きをする。
天王殿への参道 |
扁額「天王殿」() |
弥勒菩薩(布袋) |
三門を潜り、真っ直ぐ行くと天王殿だ。天王殿は中国寺院では一般的に玄関として見られるお堂にあたる。弥勒菩薩(布袋)の他、四天王、韋駄天が祀られている。
四天王は本来、東西南北の定位置があるが、弥勒菩薩が正面にある(南面している)ために45度づつずれている。方柱はチーク材。堂内に2本の円柱があり、黄檗の七不思議のひとつといわれている。
韋駄天像 |
増長天像 |
持国天像 |
毘沙門天像 |
広目天像 |
大雄宝殿 |
扁額「大雄宝殿」(隠元書) |
萬福寺の本堂で最大の伽藍である。日本では唯一最大のチーク材を使った歴史的建造物として、大変重要かつ貴重なものである。 正面入口は魔除けとされる桃の実の彫刻を施した「桃戸」、左右に円窓がある。上層の額「大雄寶殿」は隠元の書。 下層の額「萬徳尊」は木庵書。本堂内部須弥壇の上の額「真空」は明治天皇の御宸筆である。
釈如来坐像 |
本尊は釈如来坐像で両脇侍は葉、阿難の二尊者。両単に十八羅漢像を安置している。大棟中央に火付、二重の宝珠がある。
慶友尊者像 |
阿氏多尊者像 |
諾距羅尊者像 |
蘇頻陀尊者像 |
半託迦尊者像 |
賓頭盧尊者像 |
堂の左右には十八羅漢が安置され、背後には開山隠元隆g像の像が置かれている。
法堂 |
一重入母屋造の建物で寛文二年(1662)に建立された。 禅寺における重要伽藍のひとつで説法を行う場所である。内部には須弥壇のみが置かれている。 上堂や住持の晋山式などに使われる。須弥壇上の額「法堂」は隠元の書であり、黄檗山では唯一の楷書による大書である。 外の額「獅子吼」は費隠の書である。
斎堂 |
開ぱん |
雲版 |
堂内に緊那羅王菩薩を祀っている。高脚飯台と腰掛があり、本山僧衆の食堂である。表に鬼界の衆生に施す飯を乗せる生飯台(さばだい)がある。前方入口の前には、「開ぱん」と「雲版」があり、食堂を禅悦堂とも云う。
開ぱん・・魚梛或は魚鼓とも呼ばれる。
叢林における日常の行事や儀式の刻限を報じる魚の形をした法器のこと。
雲版・・・朝と昼の食事と朝課の時に打つもの。青銅製。
開山堂 |
開山 隠元禅師を祀っている。 歇山重檐式、蛇腹天井、正面の半扉の桃戸、そして全て角柱であるところは、大雄宝殿と同じで、また卍の匂欄があるのも黄檗ならではの特徴がみられる。 上層正面の額は、費隠書「瞎驢眼」、下層は木庵書「開山堂」である。
松陰堂 |
松隠堂は隠元禅師が晩年、隠居の場所として過ごした処である。 書院造りの日本建築で、関備前守長政の夫人によって寄進された。客殿には禅様式の6つの部屋があるとのこと。
萬福寺の建造物は、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置になっており、日本では他に例を見ない禅宗伽藍建築群なので拝観する価値が高い。 観光客はそう多くないので静かな雰囲気の中で観てまわることができる。私たちの時は他に二組ほどしかいなかった。