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[ 京都市右京区/仁和寺 ]
京都市右京区/仁和寺【世界遺産】           2015/10/10(土)新規
探索案内

 仁和二年(886)光孝天皇の勅願により創建し、仁和四年(888)に完成した。寺名「仁和寺」は年号から名付けられた。 宇多天皇が落髪入寺し寺内に御室(御座所)を設けたことから、御室御所とも呼ばれた。 以後、明治維新まで代々皇子皇孫が門跡となり門跡寺院の筆頭にあった。 堂塔伽藍は応仁の乱(1467-77)で多くが焼失したが、寛永年間(1624-44)に再興した。
 霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、孔雀明王像(国宝)、三十帖冊子(国宝)など多くの寺宝を所蔵している。 遅咲きの"御室桜"は有名で名勝。旧御室御所御殿の御所風佇まい、豪華な襖絵は見所である。

寺名: 総本山 大内山 仁和寺
宗派: 真言宗御室派
本尊: 阿弥陀如来
住所: 京都府京都市右京区御室大内33
アクセス: 嵐電北野線「御室仁和寺」駅より徒歩3分。

【履歴】
・2016/10/09(日): 09/26(月)探訪

二王門【重文】

二王門

仁王像(吽)

仁王像(阿)

 二王門は、徳川三代将軍家光の寄進によって、寛永十八年(1641)〜正保二年(1645)頃に建立された。 知恩院の三門、南禅寺の三門とともに京都三大門の一つに数えられる。 知恩院三門、南禅寺三門が禅宗様であるのに対し、二王門は平安時代の伝統を引き継ぐ純和様で建てられている。 門正面の左右に金剛力士像、後面には唐獅子像を安置している。

御殿


本坊表門

大玄関

 仁和寺の御殿(本坊)は、宇多法皇の御所があった辺りに建つことから「旧御室御所」とも呼ばれる。
 白書院、宸殿、黒書院、霊明殿が渡り廊下で結ばれている。
 これらの建物は、明治二十年(1887)に御殿が焼失した後のものだが、茶室「遼廓亭」(重要文化財)は、江戸時代の画家・尾形光琳の屋敷から移築されたもので、もう一つの茶室「飛濤亭」(重要文化財)は、江戸時代末期に光格天皇の好みで建てられた草庵風の茶席を移設したものである。


白書院

白書院から南庭を望む

白書院から望む勅使門

 白書院は、明治二十年(1887)に御殿が焼失したことから、明治二十三年(1890)に仮宸殿として建てられた。 その後、宸殿が再建されると「白書院」と呼ばれるようになった。
 白書院前の庭園は宸殿の南側にあることから「南庭」と呼ばれている。


白書院の襖絵

阿弥陀仏画

 襖絵は松を主題にしたもので、昭和十二年(1937)に日本画家・福永晴帆が描いたもの。



宸殿

室内の様子

北庭

 宸殿は、儀式や式典に使用される御殿の中心となる建物である。 明治二十年に焼失するまでは、寛永年間に御所から下賜された常御殿(天皇の御座所)が使用されていた。 現在の建物は大正三年(1914)に再建されたもの。
 御所の紫宸殿と同様に檜皮葺、入母屋造である。内部の襖絵や壁などの絵は全て日本画家・原在泉が描いた。
 宸殿の北側の池泉式の庭園は宸殿に対する位置関係から「北庭」と呼ばれている。 平安時代から造営されていたと考えられるが、応仁の乱の兵火によって詳しい史料が失われているため、いつ頃の作庭かは不明である。 寛永年間の仁和寺復興時に庭園も整備されたと考えられている。 現在の庭園は、明治から大正にかけて日本庭園の先駆者と称される七代目小川治兵衛(植治)の作庭である。


霊明殿

薬師如来像

 霊明殿は、明治四十四年(1911)に建立された歴代門跡の位牌を安置する堂である。 本尊は秘仏の薬師如来で、康和五年(1103)白河天皇の皇子・覚行法親王の発願により仏師円勢と長円が造像したもので国宝に指定されている。


中門【重文】

 二王門を潜ると御殿を左手にして真っ直ぐに広々とした境内を奔る長い参道の向い正面に朱塗りの中門が遠くに建っている。 中門は、金堂、五重塔、御影堂などのある伽藍中心部に至る門となっている。


中門

西方天像

東方天像

 中門は、寛永十八年(1641)〜正保二年(1645)頃の建立で国の重要文化財に指定されている。 切妻造・本瓦葺・柱間三間の八脚門である。側面の妻部には二重虹梁蟇股が飾られている。 向かって左側に西方天、右側に東方天を安置している。

五重塔【重文】

五重塔

扁額「(大日如来)」

 五重塔は、寛永二十一年(1644)、徳川三代将軍家光の寄進によって建立された。 塔身32.7m、総高36.18m。
 東寺の五重塔と同様に、各層の屋根がほぼ同一の大きさに造られ、江戸期の五重塔の特徴をよく表している。 内部には大日如来と、その周りに無量寿如来などの四方仏を安置している。 柱や壁面には真言八祖、菊花文様などが描かれている。なお、初層西側に掛けられているのは大日如来を示す梵字の額である。


金堂【国宝】


 金堂は、寛永年間(1624-1644)に御所内裏の正殿「紫宸殿」(ししんでん)が移築された。
 移築された紫宸殿は、慶長十八年(1613)の建立。仁和寺金堂は現存する最古の紫宸殿であり、宮殿建築を伝える重要な遺構となっている。
 本尊は阿弥陀三尊で、金堂移築時に造立されたもの。 もと金堂に安置されていたといわれ、現在は霊宝館に安置されている木造阿弥陀三尊像([国宝])は、仁和四年(888)に仁和寺が創建されたときの本尊と考えられている。

経堂【重文】


 経蔵は、寛永十八年(1641)〜慶安元年(1648)頃に建立された禅宗様式の建築物である。 内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)が置かれ、天海版の『一切経』が収められているそうだ。 (公開してなかったので観ていない)
 天海は、徳川家康の側近として江戸幕府の政策に関与した天台宗の僧で、天海版の『一切経』は、幕府の支援を受けて慶安元年(1648)に完成したもので、「寛永寺版」とも呼ばれている。


鐘楼【重文】


 鐘楼は、江戸初期の仁和寺再興の際に新築された。江戸時代を代表する鐘楼で、裾が袴型の為、袴腰式と呼ばれている。


御影堂【重文】


 徳川幕府による寛永年間の復興に際し、同時に行っていた京都御所の新築により不要となった天皇の常の住まいである清涼殿の古材を用いて建てられた。


水掛不動尊


 近畿三十六不動霊場の14番札所。仁和寺の裏山より湧き出る水を中央の不動明王に掛けながら祈願すると、その願いが叶うと云われている。 この不動明王は、一条戻り橋が洪水で流されたときに見つかったもので、、お告げにより仁和寺に移されたのだという。
 不動明王の足下の岩には名が付いており、「菅公腰掛石」と呼ばれている。 由来は仁和寺開山宇多法皇にお世話になった菅原道真公が太宰府に左遷される事となり、出発前に挨拶に仁和寺を訪れたが、法皇がお勤め中であった為、この岩に腰掛けお勤めが終わるのを待ったと言われている。


あとがき

 今回、霊宝館は公開期間外のため観覧無し、残念である。なお、仁和寺は広々とした境内に重要文化財の各伽藍が適度の距離を隔てて配置され、ゆったりとした気分になった。
 本尊の阿弥陀三尊像(創建当時)や聖徳太子座像(鎌倉期)、国宝の薬師如来坐像や吉祥天立像(ともに平安期)、文殊菩薩坐像(鎌倉期)など拝観してみたいものがいっぱいあるので時機を見て再訪したいものだ。


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