渡月橋から北へと延びる府道29号線を北へ約1km進むと突き当りに清凉寺がある。(嵐電「嵐山」駅からだと900mほど)
この地には、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(みなもとのとおる)の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。
源融の没後、阿弥陀堂が遺族により建立されて棲霞寺とし、その後、長和九年(1016)に京都蓮大寺に安置されていた釈迦如来像を安置するために、棲霞寺内の釈迦堂を清涼寺とした。
五台山清凉寺は古より「嵯峨釈迦堂」の名で呼ばれ親しまれてきた。
本尊の釈迦如来像は国宝に指定されており日本三如来の一つに数えられている。
仁王門から入った広い境内には、本堂はじめ、阿弥陀堂、一切経蔵、弁天堂、薬師寺、狂言堂、聖徳太子殿、法然上人求道青年像、鐘楼、多宝塔、豊臣秀頼公首塚、霊宝館など多くの堂塔が建ち並んでいる。
寺名: 五台山 清凉寺
宗派: 浄土宗
本尊: 釈迦如来像【国宝】
住所: 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
拝観: 本堂- 400円、本堂霊宝館共通券- 700円
交通: JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」駅より北西へ徒歩15分(約500m)
【履歴】
・2021/10/31(日): 09/27(水)再訪し霊宝館観覧。
・2015/10/01(木): 09/29(火)拝観。
仁王門 |
金剛力士(吽) |
金剛力士(阿) |
仁王門は安永六年(1776)に再建された。全体的に和様と禅宗様を折衷したものです。ケヤキ造りの二階二重門である。
初層左右に室町時代作の阿吽の金剛力士像を安置し、上層には十六羅漢像を祀る。
本堂 |
扁額「栴檀瑞像」 |
三国伝来生身釈迦如来像【国宝】 |
本堂には、本尊の三国伝来生身釈迦如来像(国宝)が安置されている。 寛永十四年の嵯峨大火により諸堂宇が消失したが、徳川五代将軍綱吉・生母桂昌院の発願、住友吉左衛門の援助により元禄七年(1694)から修理に取りかかり、同十四年(1701)に上棟。同十六年に鎮壇、遷仏供養を行った。 桁行・梁間7間、一重入母屋造、本瓦葺で、和様と禅宗様を折衷、本山級の風格を備える。 内内陣の宮殿厨子は、五代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の寄進による豪華なもの。 宮殿裏には、古カン(石ヘンに間)筆による「釈迦堂縁起」の一部を拡大した大壁画がある。 また本堂正面上には黄檗隠元禅師筆による「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」の大額が掛っている。
嵯峨天皇の12番目の皇子・源融が亡くなり、一周忌に当たる寛平八年(896)に、別荘「栖霞観(せいかかん)」に阿弥陀三尊像を本尊として安置されたことにより、栖霞観は寺となり、名も「棲霞寺(せいかじ)」と改められた。
それから半世紀ほど後の天慶八年(945)に、醍醐天皇の皇子・重明親王(しげあきらしんのう)が亡き妻のために棲霞寺の境内にお堂を建て、そこに釈迦如来像を安置したことから、そのお堂は「釈迦堂」と呼ばれるようになった。
その後、中国の宋にある五台山を巡礼した東大寺の僧・「然(ちょうねん)が、永延一年(987)に帰国すると、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、寺院を建立しようと計画したが、その志を果たせず亡くなってしまう。
しかし、その遺志を「然の弟子・盛算(せいさん/じょうさん)が継ぎ、長和五年(1016)に棲霞寺の境内に清凉寺を創建した。
この時、清凉寺に本尊として安置されたのが、「然が中国から持ち帰ったとされる「釈迦如来立像」である。
「然が中国・宋に入ったのは永観一年(983)のこと。その2年後に、熱心な仏教徒であった古代インド・コーシャンビーの国王・優填王(うでんおう)が、存世していた時の釈迦の姿を彫らせたとされる釈迦像「優填王思慕像(うでんおうしぼぞう)」に出会った。
インドから中国に持ち込まれたこの釈迦像は、釈迦が37歳の時の姿だと言われている。その姿に心打たれた「然は、その釈迦像を仏師に“魏氏桜桃(ぎしおうとう)”という中国産のサクラ科の木を使って精密に模刻させた。
そして、永延一年(987)に日本に持ち帰った。
ただ、一説によると、「然は本物の像と模刻した像をすり替えて、本物の像を持ち帰ったとも言われている。
清凉寺の国宝・釈迦如来立像は、インドから中国、そして日本に渡ってきたことから「三国伝来の生釈迦」と呼ばれ、京都・平等寺の薬師如来像、長野・善光寺の阿弥陀如来像と並び日本三大如来のひとつに数えられている。
阿弥陀堂 |
阿弥陀堂は、嵯峨天皇の第12皇子・河原左大臣 源融公(源氏物語の主人公 光源氏のモデルとされる人物)が嵯峨天皇より仙洞(嵯峨院)の地所の一部を別荘として賜り棲霞観を建てたのが始まり。 源融公の没後に遺族が寛平七年(895)御堂を建立した。 現在の阿弥陀堂は、幾度かの火災で焼失した後に、江戸時代末期の文久三年(1863)に再建された建物になる。
一切経堂 |
傅大士・普建・普成像 |
一切経蔵は江戸中期の建造物。傅大士(ぶだいし)・普建(ふけん)・普成(ふじゃく)の像が祀られている。
堂内には、明版一切経(大蔵経)を納めた輪蔵が置かれ、これを回すことで一切経を読んだのと同じ功徳が得られるという。
輪蔵の周囲には四天王像が安置されている。
傅大士は、中国南北朝時代の在家の仏教信者。
仏教を広めるために尽くし、転輪蔵を創始した。そのため経蔵などにその像が置かれるようになった。
「笑い仏」とも呼ばれる。
弁天堂 |
庭園 |
本堂裏にある庭園と弁天堂である。忠霊塔の十三重石塔が建つ川中島も設けられている。
江戸時代に小堀遠州により作庭された平庭式枯山水庭園と云う。
身心の病魔退散を祈って平安時代初期の弘仁九年(819)に建立された嵯峨天皇の勅願寺。
創建以来、嵯峨天皇勅願の寺として大覚寺(嵯峨御所)の保護を受け、嵯峨御所御寺務所が置かれていたが、明治時代以後は大覚寺(真言宗)を離れ、現在は浄土宗知恩院派に属している。
本尊の「心経秘鍵薬師如来像」は、勅封仏で勅命(天皇の命令)が無いと厨子の開扉が出来ず、厨子の開閉は大覚寺の手で行われ、薬師寺の住職は開扉を許されていなかったといわれている。
信者には、皇族、公家、諸侯をはじめ鎌倉幕府五代執権・北条時頼などの名が残されている。
心経秘鍵薬師如来像の他には、阿弥陀三尊像、地蔵菩薩半跏像(生六道地蔵菩薩、伝小野篁作)、三地蔵尊(石仏、生六道地蔵菩薩の分身と夕霧地蔵菩薩像および瑠璃光地蔵菩薩像)が祀られている。
鐘楼 |
鐘楼は、江戸時代に建立されたと考えられている。石垣の上に組まれた4本柱の造りで一般的な鐘楼の形状である。
京都府指定文化財となっている梵鐘には、室町時代中期の「文明十六年(1484)十一月吉日」の日付と寄進者名の中に、足利義政、日野富子、征夷代将軍義尚および堺の商人の銘がある。嵯峨十景の一つ「五台の晨鐘」がこの鐘楼の梵鐘である。
多宝塔は、江戸時代中期の元禄十三年(1700)に江戸護国寺での出開帳の際、江戸の老若貴賎の人々の寄進によりなったもので、元禄16年(1703)に廻漕建立した。
多宝塔の背後(西側)にある宝篋印石塔は源溶公の墓である。
なお一説には、棲霞寺開山淳和天皇の皇子桓寂法親王の墓とも言われている。
霊宝館 |
阿弥陀三尊座像【国宝】 |
阿弥陀堂裏手にある宝物館が「霊宝館」だ。多くの国宝や重要文化財が保管されている建物としては貧弱すぎるので「本当にここか?」と一瞬疑ってしまう佇まいだ。
源氏物語の光源氏のモデル源融の供養のために造られた旧棲霞寺本尊:阿弥陀三尊像など、国宝や重要文化財が収蔵されている。阿弥陀如来像(国宝)は、「光源氏移し顔」の伝説がある。
2015/09/29(火)訪れる予定はしていなかったが仁王様を見たくて急遽訪問。
昼時前だったこともあり、足早に巡ったので十分な鑑賞は出来ていない。
2021/09/27(水)霊宝館の秋期特別公開に合わせて六年ぶりに訪問。
阿弥陀三尊像(国宝)や幾多の重要文化財仏像等を拝観した。
コロナ禍も収まり修学旅行の生徒が増えてきていた。