事事関心! 仏閣探訪:
[ 京都市上京区/相国寺 ]
京都市上京区/相国寺            2020/12/06(日)更新
探訪案内 

 地下鉄烏丸線「今出川」駅下車、出口3より今出川通を御所を右手に、左手に同志社大学を見ながら東へ約200m進むと右手に今出川御門がある。ここで左折すると150m先正面に相国寺の総門がある。
 臨済宗相国寺派の大本山である相国寺は、京都五山第二位に列せられる名刹。正式名称は「萬年山 相國承天禅寺」。
 足利義満が創建を発願、明徳三年(1392)に完成、夢窓国師を開山とした。 創建当時は室町一条あたりに総門があったといわれ、北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通にわたり、約百四十四万坪の壮大な敷地に五十あまりの塔頭寺院があったと伝えられている。 山内に禅宗寺院を統制管理する僧録司を置き、禅宗行政の中心的存在であったが、失火で炎上、5年後に七層の宝塔を建立したが落雷で焼失するなど衰退、再建を繰り返した。 現存する法堂は日本最古の法堂建築として1605年に再建された物を今に伝えている。
 今回(2015/09/29(火))、秋期特別拝観に合わせて訪問し方丈・開山堂・法堂を拝観した。

寺名: 萬年山 相國承天禅寺(相国寺)
宗派: 臨済宗相国寺派
本尊: 釈迦如来
開山: 夢窓疎石
創建: 永徳二年(1382)
住所: 京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701
拝観: 境内無料、特別拝観/800円
札所: 神仏霊場巡拝の道 第99番
交通: 地下鉄烏丸線「今出川」駅より徒歩5分

【履歴】
・2015/10/01(木): 09/29(火)拝観。
・2020/12/06(日): 更新(加筆)

総門【京都府指定有形文化財】

総門


 京都御苑の北隣を東西に奔る今出川通に面し御苑の今出川門と向かい合わせに参道が北方向に延び、その参道を進むと正面に建っている。


内参道

内参道

放生池と天界橋

 門をくぐると石畳の内参道が北側に建つ方丈に向かって真っすぐに奔っている。
 総門を潜り進むと左手に放生池がある。池には石橋「天界橋」が架かっている。 「天界」とは、当寺と禁裏御所との中間に境界線の役目をはたしているところから名づけられた。 天文二十年(1551)相国寺が焼亡した"天文の乱"はこの橋をはさんで始まった。現在の橋材はその当時の旧材を使っている。

庫裏(香積院)【京都府指定有形文化財】


 庫裏は宗務本所・台所(香積院[こうしゃくいん])で、江戸時代の文化四年(1807)に再建されたもの。切妻造で大きい破風や壁面が特に印象的だ。


方丈【京都府指定有形文化財】

方丈

裏方丈庭園

方丈:
 方丈は、天明の大火で焼失後文化四年(1807)に再建された表三間と裏三間の六間構造の大規模な建物。 平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となっている。
 方丈の右手からまず手前が竹の間で襖絵は王隣の竹林図。 中央が室中で、襖絵は原在中(複製)の普陀落山の図だ。 正面に掛けてあるのは加藤信清筆の経文で描かれた法華観音図の軸である。 手前に拡大した説明パネルが置いてあるので、それを見ればよくわかる。 最奥が梅の間となっている。襖絵は、維明和尚筆の老梅の図である。 奥突き当りの杉戸絵は、原在中の白象図だ。
 方丈前庭は白砂の枯山水庭園。石組もないフラットな庭園である。借景に法堂がそびえて見える。
裏方丈庭園:
 細長い敷地の中にモミジやマツが植えられ、大きな掘り込み状の枯流れが左手から右手へ流れている。 枯流れの斜面にはスギゴケが張られ、流れの底には小石が敷かれている。 左手先端には滝石組が組まれており方丈から見ると結構低い位置にあるにもかかわらず、小さいという印象を受けない。 枯山水風の庭でありながら流れが大きく掘り込んであるという、ほかに見られない様式の庭園で、滝石組なども整っており、独特の洗練さが感じられる庭となっている。

開山堂【京都府指定有形文化財】

開山堂


 開山堂は法堂の東にあり、境内で最も大切なところだ。 堂内には開山夢窓国師の木像、足利義満像が安置されている。 杉戸絵は円山応挙、応瑞筆の芭蕉小狗子図である。
 応仁元年(1467)"応仁の乱"の兵火で焼失し、寛文六年(1666)後水尾天皇が、皇子桂宮第三世穏仁親王のために再建されたが、更に天明八年(1788)天明の大火で焼失した。 現在の建物は江戸時代末期に桃園天皇の皇后、恭礼門院の黒御殿を賜って文化四年(1807)に移築、仏堂として用いられるように増築や一部改造を行なったもの。 現在は前方の礼堂と、この奥に続く中央の祠堂とから成っている。


龍渕水の庭

龍渕水の庭

 相国寺開山堂の庭は、厳密にいえば、築山と流れの「山水の庭」と、御影の切石に縁取られた白砂に庭石を配置した「枯山水平庭」の、二様の形態の庭がひとつに同居し、しかもこの二様の庭が一体となって連繁を保っている面白い形式となっている。

応仁の乱

 室町時代末期、足利将軍家ならびに管領畠山、斯波両氏の継嗣問題に端を発し、細川、山名両有力守護大名の勢力争いが絡みあい東西両軍に分れ、応仁元年(1467)から文明九年(1477)までの11年間にわたって京都を中心として争われた大乱。
 戦いは京都で始まったが、のち諸国の大名・小名が勝元(東軍)・宗全(西軍)のいずれかに加わり、全国的規模に発展した。 京都はこの戦乱のため荒れ果て、将軍の権威は失墜した。

法堂【重文】

法堂

 法堂は慶長十年(1605)豊臣秀頼の寄進により再建された。法堂建築としては日本最古と云われている。
 法堂は横幅28m・奥行22m・高さ22mの入母屋造りの建物で、京都五山禅院の中では最も大きな建物である。


本尊: 釈迦如来像(NETより借用)

蟠龍図(鳴き龍)(NETより借用)

 法堂には須弥壇、祖師堂壇、土地堂壇があり、須弥壇には本尊・釈迦如来像を中心に阿難・迦葉を安置している。
 天井には絵師狩野光信が描いた蟠龍図がある。この蟠龍図は八方睨みの龍で、堂のどの位置から見ても観る人を向いているように見える物だ。 また、図の真下で手を叩くと天井と床の間で反響するので、鳴き龍とも云われている。(内部は撮影禁止のため図は借用)


経蔵(きょうぞう)【京都府指定有形文化財】



 経蔵は、相国寺120世盈冲周整和尚の寄進により、"天明の大火"によって焼失した宝塔の跡地に万延元年(1860)に建立された。 宝塔が再興される折に、蔵経置場を兼用することになり、以来経蔵を兼ねた宝塔として機能してきた。 しかし、仏舎利が他の堂宇に移された現在は経蔵としてのみ使用され、高麗版一切経(大般若は元時代の普寧版)が納められている。


天明の大火(1788年1月30日 - 1788年2月2日)

 近世、京都洛中で最大の火災。
 天明八年(1788)正月晦日未明に鴨川東岸の宮川町団栗辻子(どんぐりのずし)から出火し、南へ五条通りまで延焼した。 その間鴨川西岸に飛火し、強風にあおられて洛中に燃え広がった。 二月二日未明(一説に朔日夕刻)の鎮火までに、東は河原町・木屋町、北は上御霊社・鞍馬口通り・今宮御旅所北辺、西は智恵光院通り・大宮通り、南は東西本願寺北辺に及び、洛中町場のほとんどが焼亡した。 焼失した町数は1424町余、3万6797軒、6万5340世帯、寺201、神社37という(《古久保家文書》)。

鐘楼「洪音楼」【京都府指定有形文化財】



 鐘楼は一名「洪音楼」と云う。天明の火災で焼け、寛政元年(1789)四月古鐘を買って仮楼にかけ、天保十四年(1843)現在の層楼を築成した。
 「袴腰付鐘楼」ともいわれ、大型のものでは現在有数のもの。楼上には梵鐘を吊り、各区画の中にごく多くの陰刻銘がある。順調な気候で災害や戦争がなく、国が豊かで人民の安らかなことなどを願う文句の後に、「干時寛永六己已季卯月七日」とあり、1629年の造立と知られる。


弁天社【京都府指定有形文化財】



 開山堂の南西にあり、南面して建つ春日造桟瓦葺の小社で、弁財天を祀っている。
 この弁財天は古来から御苑内久邇宮邸にその守護神として奉祠されていたが、明治十三年(1880)に同宮家が東京にご移転された時に、相国寺第126世獨園承珠が同宮二品朝彦親王より御寄進をうけられ、弁天講を組織して広く信仰を集めた。 昭和三十二年(1957)にはこの謂れをもとに弁天講が復活されるが、現在活動はしていない。 また現在の建物は、十七世紀後半の建立と考えられている。

あとがき

 拝観客が居なかったので開山堂の縁側に座り石庭を眺めてひと時を過ごした。 そのうちにいつの間にか縁側は十人ほどが気ままに集っていた。 此処の庭は縁側に座り、ゆったり眺めていると心も落ち着き、悠久の時の流れを感じられ和やかな満ち足りた気持になれた。

関連コンテンツ

inserted by FC2 system