元興寺の旧境内範囲図 |
近鉄奈良線「奈良」駅から東向き商店街を通り三条通に出て、左折して少し東へ進みもちいどのセンター街に入る。
商店街を進み、さらに下御門商店街を南へ進み突き当たった広い道(ならまち大通)を東へ180mほど進むと元興寺北門に通じる路地に至る。(徒歩12分ほど)
元興寺は蘇我馬子が建立したと云われる日本最古の寺院・飛鳥寺(法興寺)を前身とする。
かつては、南都七大寺の一つとして現在「ならまち」と呼ばれる界隈の大半を含む広大な寺院だったが、現在は、僧坊遺構の極楽堂と禅室を残すのみとなっている。
「世界遺産」碑 |
寺名: 元興寺(がんごうじ) [世界遺産]
宗派: 真言律宗
本尊: 智光曼荼羅【重文】
創建: 推古天皇元年(593)
開基:
住所: 奈良県奈良市中院町11
札所: 西国四十九薬師霊場
拝観: 09:00〜17:00 500円(特別拝観時は600円)
アクセス: 近鉄奈良線「奈良」駅より、南方向へ徒歩約12分。
【履歴】
・2022/10/31(月): 新規。10/31(月)拝観。
平城京およびその周辺の七つの大寺。
東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺。
法隆寺を除き唐招提寺を入れた例もある。飛鳥時代には大安寺、薬師寺、元興寺、弘福寺を四大寺と称したが、奈良遷都後は大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺を四大寺とよび、ほかに五大寺、六大寺の称も行われた。
七大寺は、聖武天皇の崩じた翌々日および初七日すなわち天平勝宝八年(756)5月に七大寺に誦経(ずきょう)せしめた『続日本紀(しょくにほんぎ)』というのが初めての記載で、その後延暦15年(796)11月『日本後紀(にほんこうき)』などにみえる。
『続(しょく)日本後紀』『文徳実録(もんとくじつろく)』『三代実録』や『延喜式(えんぎしき)』などにも言及されており、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』に七大寺の寺名が記されている。
また、『七大寺巡礼私記』『七大寺日記』『七大寺年表』(以上平安末期)、『七大寺巡礼記』(室町時代?)などがある。
東門は切妻造・本瓦葺の四脚門で元興寺の正門になっている。
東門は鎌倉時代後期(1275〜1332)に東大寺西南院の門として建立され、応永年間(1394〜1427)に元興寺に移築された。
本堂 |
本尊:浄土曼荼羅【国宝】 |
本堂の本尊は奈良時代に元興寺で学んだ僧侶・智光法師が夢で見た極楽浄土の様子を描かせた図(曼荼羅図)である。
なお本堂は寄棟造の本瓦葺、桁行六間・梁間六間の建物で、内陣が板敷き、それを取り囲む外陣が畳敷きになっており、内陣の周囲を念仏を唱えながら歩く行道に適している。
本堂はかつて禅室とともに奈良時代に往生人智光法師・礼光法師などの僧侶が住んでいた僧房だったが、寛元二年(1244)改築して建立された。
僧房は東西に長い建物で、その東側部分が本堂になった。なお本堂は内陣の角柱や天井板に奈良時代の部材が使われている。
禅室(春日影向堂) |
禅室は切妻造の本瓦葺、桁行四間・梁間四間の建物で、かつて「春日影向堂」とも言われていた。 禅室は近世には客殿、近代には学校舎としても使われた。 禅室はかつて本堂とともに奈良時代に往生人智光法師・礼光法師などの僧侶が住んでいた僧房だったが、寛元二年(1244)に改築されて建立された。 僧房は東西に長い建物で、その西側が禅室となった。 なお禅室は本堂と同様に奈良時代の部材が使われている。
「かえる石(蛙石)」は境内北側にあるガマガエルのような石である。 元興寺ではかえる石のかつての有縁無縁の一切の霊を供養し、極楽カエルに成就させたと言われている。 かえる石は慶長二十年(1615)の大坂夏の陣で大阪城が落城した際、関白・豊臣秀吉の側室・淀殿の遺骸が下に埋められ、怨念がこもっているとも言われていたそうだ。 かえる石は元々大阪河内の川縁にあったが、豊臣秀吉が気に入り、大坂城内に移したと言われている。 その後昭和三十三年(1958)に元興寺に移された。
本堂の古瓦 |
禅室の古瓦 |
古瓦(丸瓦・平瓦)は本堂の北流(北側)・西流(西側)、禅室の南流(南側)・東部分に使われている。
古瓦は飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代に焼かれたものだ。
飛鳥時代の古瓦は飛鳥に建立されていた元興寺の前身・法興寺に使われていたが、和銅三年(710)の平城京遷都ととも元興寺に移されて代々使われてきた。
なお本堂西南隅・禅室南東隅には古代の軒平瓦も残されている。
古瓦は上部が細く、下部が広い形状となっている。
古瓦を重ねて葺く方法が"行基葺(ぎょうきぶき)"と言われている。
小子房 |
北向土間不動尊 |
「小子坊」は、境内の南側、浮図田の近くにある建物で、現在は拝観者などの休憩スペースとして用いられている。
内部には護摩供養も行われる「北向土間不動尊」が安置されているほか、西側には平成に入ってから増築された茶室「泰楽軒」もあり、内部の堂々たる梁のある風景も合わせ、小子坊一帯は「お寺」というよりはお屋敷の敷地にいるかのような雰囲気が感じられる空間となっている。
浮田図/仏足石 |
浮田図 |
元興寺を拝観する中での最大の見どころの一つとも言える圧巻の石仏・石塔群である「浮図田」。
鎌倉時代〜江戸時代にかけての石仏・石塔などを昭和になってから一か所に集める形で整備されたものだが、本堂・禅室を背景に石仏たちを望む風景は元興寺の定番の「写真撮影スポット」となっている。
本堂近くの浮図田の一角に近年設けられた"仏足石"があり、この前でお釈迦さまを讃える供養が行われる。
総合収蔵庫(法輪館) |
総合収蔵庫は、世界遺産「元興寺」が有する国宝をはじめとする各種文化財の多くが展示されている、境内にある「博物館」だ。
本堂など境内の堂宇に安置されている仏像、拝観できる仏像があまりない元興寺では、代わりにこの収蔵庫においてほとんどの文化財を別途料金なしに拝観出来る。
五重小塔【国宝】 |
五重小塔は三間五重塔婆の本瓦形板葺で、高さ約5.5m。内部構造まで忠実に造られ、工芸品ではなく、建造物として国宝に指定されている。 この五重小塔は奈良時代の五重塔の構造を伝える唯一の資料と言われている。
木造阿弥陀如来像【重文】 |
阿弥陀如来像は、平安時代に造立されたとされ、元興寺と興福寺の子院「禅定院」の多宝塔本尊を現在の本堂(極楽堂)に移してきた存在とも言われる仏さまである。金箔の部分も多く残された仏像は1本のケヤキの木を彫り上げて造られつつ、一部では朔土(粘土)を使用して造られており、全体的に穏やかかつ明るい雰囲気が滲み出るような存在になっている。 なお、像の内部からは仏舎利を模した金属粒をはじめ多数の納入品が見つかっている。
木造聖徳太子立像【重文】 |
聖徳太子立像は、鎌倉時代の文永五年(1268))に仏師善春らにより造られた青年期の聖徳太子(16歳ごろ)の姿を表現した像であり、髪を結い柄香炉を持ったお姿は透き通った美しさを感じさせるものとなっている。
聖徳太子と元興寺を巡っては、元興寺の前身寺院にあたる飛鳥寺(法興寺)が聖徳太子による創建伝説を有している事情から、かつては聖徳太子信仰も盛んであったお寺であり、この像はそのような当時の聖徳太子信仰を象徴する存在となっている。なお、阿弥陀如来像と同じく、こちらも像内から多数の納入品が発見されている。
木造弘法大師坐像【重文】 |
弘法大師坐像は、鎌倉時代に造立された弘法大師「空海」の姿を表した坐像である。
聖徳太子信仰のみならず、元興寺は真言宗との関係が良好で弘法大師空海とも一定の歴史的つながりを有していたこともあり、「大師信仰」も盛んであったと言われており、この像もその一環で生み出されたと考えられている。
収蔵庫の展示物はその数と内容が素晴らしい。しかも、お寺の拝観料だけで鑑賞できる。是非見逃すことのないように注意すべきだ。