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[ 奈良県奈良市/興福寺 ]
奈良県奈良市/興福寺【世界遺産】           2019/09/28(土)更新
探索案内

 近鉄「奈良」駅からバスで一駅目の「県庁前」バス停で降りると道路を挟んだ向かい側にある。
 法相宗大本山「興福寺」は、京都山科の藤原鎌足私邸に建立された山階寺が前身で、飛鳥を経て、和銅三年(710)平城遷都に伴い、藤原不比等によって現在地に移転され、興福寺と名付けられた。 以降、藤原氏の氏寺として繁栄し、奈良時代初期には四大寺の一つにあげられ、四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ寺院として隆盛を極めた。 治承四年(1180)の平重衡の南都焼討ちによって焼失した堂塔は、鎌倉時代に復興を遂げるが、その後、享保二年(1717)の火災によって、伽藍の西半分を失った。
 境内には光明皇后創建とされる五重塔、北円堂の国宝建築物をはじめ、南円堂(重要文化財)、国宝館などが建っている。 また多くの仏教彫刻の名品を所蔵している。

施設: 法相宗大本山 興福寺
宗派: 法相宗
本尊:
住所: 奈良県奈良市登大路町48
アクセス: 近鉄奈良線「奈良」駅より徒歩5分。

【履歴】
2016/10/10(月): 09/27(火)探訪
2019/09/28(土): 09/25(水)再建された中金堂拝観に再訪

中金堂


 平成30年に天平様式で8回目の再建がされた「興福寺の中心」となる巨大な仏堂で、東西の間口は約37m、南北の奥行きは約23m、高さは約20mの規模を誇る。
 最初の中金堂は、平城京に遷都し奈良時代が幕を開けた和銅三年(710)頃に成立した興福寺において、その当初から中心的なお堂として建立された。 丈六釈迦如来像をその中心部に配置し、脇侍としては薬王菩薩像・薬上菩薩像・2体の十一面観音菩薩像を置き、四天王像・弥勒浄土像も安置していた。奈良の寺では東大寺大仏殿に次ぐ規模を有する非常に重要な存在であったようだ。
 堂内には以下の仏像が納められている。
 本尊木造釈迦如来坐像: 江戸時代・文化八年(1811)に造立。
 木造四天王立像 【国宝】: 本尊釈迦如来を中央に安置する須弥壇の四方に安置。運慶作。
 木造薬王・薬上菩薩立像【重文】: 建仁二年(1202)に造立。かつての西金堂本尊の脇侍。
 厨子入り木造吉祥天倚像【重文】: 本尊釈迦如来の裏手に安置、仏師寛慶が造像。
 木造大黒天立像【重文】: 鎌倉時代に造立で1m弱と小振り。

五重塔【国宝】


 天平二年(730)に興福寺の創建者藤原不比等の娘光明皇后により建てられた。 初層の東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に弥勒浄土変を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経を安置していたと伝えられている。
 その後五回の被災・再建をへて、応永三十三年(1426)頃に再建された。高さ50.1m、初層は方三間で8.7m、本瓦葺きの塔である。 軒の出が深く、奈良時代の特徴を随所に残しているが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れた、大変に力強い塔である。
 初層の四方には、創建当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像を安置している。

東金堂【国宝】


 復元再建中の中金堂の東に五重塔に並んで西向きに建てられた金堂である。神亀三年(726)に聖武天皇が叔母元正太上天皇の病気全快を願い建てた。
 創建当初は床に緑色のタイルが敷かれ、薬師如来の浄瑠璃光世界が造られていた。以来六度の被災、再建を繰り返し、今の建物は応永二十二年(1415)に再建されたもの。 正面七間(25.6m)、側面四間(14.1m)、寄棟造り、本瓦葺きの建物で、前面を吹放とし、木割が太く、奈良時代の雰囲気を伝えている。
 堂内には本尊薬師如来像、日光・月光菩薩像(以上いずれも重要文化財)、文殊菩薩像と維摩居士像、四天王像、十二神将像(以上いずれも国宝)が安置されている。

南円堂【重文】



 弘仁四年(813)に藤原冬嗣が父内麻呂の冥福を願って建てた八角円堂である。基壇築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら築き上げたことが発掘調査でわかった。
 興福寺は藤原氏の氏寺だったが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めている。 そのうえ本尊不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、氏神春日社との関係から、特に藤原氏の信仰を集めた。
 創建以来四度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建された。八角の一面は6.4m、対面径は15.5m、本瓦葺きの建物。その手法は極めて古様である。
 堂内には本尊不空羂索観音菩薩像、四天王像(いずれも国宝)が安置されている。
 西国三十三所観音霊場の第九番札所である。

北円堂【国宝】

 興福寺伽藍の中央には再建中の金堂が位置し、その左手奥(北西隅)に柵で囲まれた北円堂が建っている。 北円堂の建つ場所は平城京を一望の下に見渡すことのできる一等地である。



 日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されている。興福寺創建者藤原不比等の一周忌にあたる養老五年(721)八月に、元明太上天皇と元正天皇により建てられた。
 治承四年(1180)の被災後、承元四年(1210)頃に再建された。八角の一面は4.9m、対面径は11.7m、本瓦葺きの建物である。 華麗で力強く、鎌倉時代の建物であるにもかかわらず、奈良時代創建当初の姿をよく残している。 内陣は天蓋が輝き、組物間の小壁には笈形(おいがた)が彩色されている。
 堂内には本尊の弥勒如来像(国宝)、法苑林(ほうおんりん)・大妙相菩薩(だいみょうそうぼさつ)像、無著・世親菩薩像(国宝)、四天王像(国宝)が安置されている。

三重塔【国宝】



 康治二年(1143)に崇徳天皇の中宮が創建されたが、治承四年(1180)に被災し、間もなく再建された。 高さ19.1m、初層は方三間で4.8m、本瓦葺き。
 鎌倉時代の建物で、木割が細く軽やかで優美な線を醸し出し、平安時代の建築様式を伝えている。 興福寺では最古の建物である。
 初層内部の四天柱を]状に結ぶ板の東に薬師如来像、南に釈迦如来像、西に阿弥陀如来像、北に弥勒如来像を各千体描き、さらに四天柱や長押(なげし)、外陣の柱や扉、板壁には宝相華文や楼閣、仏や菩薩など浄土の景色、あるいは人物などを描いている。 東の須弥壇(しゅみだん)に弁才天像と十五童子像を安置し、毎年7月7日に弁才天供が行われる。

国宝館


 僧侶が集団で食事をする食堂が建てられていた場所に、昭和三十四年(1959)に鉄筋コンクリート造りの耐火式宝物収蔵庫として建てられた。  食堂と細殿を連結して内部を一堂とした建物で、数多い仏像や寺宝を収蔵し、一般公開するための利便生を考慮して設計された、正面九間(35.3m)、側面八間(31.8m)の、本瓦葺き建物となっている。
 地下には、旧食堂の奈良時代以降の遺構がそのままの形で保存されているそうだ。


阿修羅像【国宝】

 奈良時代の阿修羅像などの乾漆八部衆像や乾漆十大弟子像、梵鐘、華原馨(かげんけい)、平安時代の銅造燈籠や火袋扉、板彫十二神将像、鎌倉時代の木造金剛力士像、木造天燈鬼・龍燈鬼像、さらに飛鳥の山田寺から運ばれた七世紀の銅造仏頭などの国宝や、その他に重要文化財の木造阿弥陀如来像や木造薬師如来像、梵天像、帝釈天像などが安置されている。


あとがき

 興福寺「国宝特別公開2016 五重塔・三重塔」(8/26-10/10)のイベントをどうしても観たくて京都から足を延ばした。 二つの塔が同時開扉されるのは初めてだそうで、めったに奈良を訪れる事がない身としてはまたとない機会だった。
 国宝館の見学だけで小一時間ほど夢中になって仏像の観賞に浸っていた。阿修羅さまは美男子だなあー。またお会いしたいものだ。

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