事事関心! 仏閣探訪:
[ 奈良県奈良市/東大寺 ]
奈良県奈良市/東大寺【世界遺産】           2021/10/31(日)更新
探索案内

 近鉄奈良線「奈良」駅で降り地上に出るとすぐ脇を東西方向に大宮通が奔っている。この道を東へ歩くこと約15分、「大仏殿」交差点を左折すると200m先に南大門が建っている。
 東大寺は、奈良時代(八世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。 本尊・盧舎那仏は「奈良の大仏」として知られ、古より広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院だ。 聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす"総国分寺"と位置付けられていた。

南大門中門金堂(大仏殿)二月堂法華堂(三月堂)
三昧堂(四月堂)鐘楼念仏堂行基堂俊乗堂
大湯屋戒壇院指図堂正倉院東大寺ミュージアム

寺名: 華厳宗大本山 東大寺(金光明四天王護国之寺)
宗派: 華厳宗
本尊: 盧舎那仏座像
創建: 奈良時代
開山: 良弁
札所: 南都七大寺、法然上人二十五霊跡第11番(指図堂)
   神仏霊場巡拝の道第14番、大和北部八十八ヶ所霊場第12番(真言院)
住所: 奈良県奈良市雑司町406-1
アクセス: 近鉄奈良線「奈良」駅より大宮通を東へ徒歩20分。

【履歴】
・2021/10/31(日): 10/26(火)再訪し未見の堂宇を探訪
・2016/10/10(月): 09/27(火)探訪

南大門【国宝】

 近鉄「奈良」駅より大宮通を東へ歩いて約15分、または近鉄「奈良」駅前から市内循環バスに乗り「大仏殿春日大社前」バス停で下車、北方向へ徒歩3分ほどでその雄大さに目を奪われる南大門に到着する。


南大門−正面

 天平創建時の門は平安時代の応和二年(962)に台風で倒壊、その後鎌倉時代の正治元年(1199)に東大寺を復興した重源上人により復興された。 中国・宋から伝えられた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様ともいう)を採用した建築として著名である。
 入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっている。また屋根裏まで達する大円柱18本は21m、門の高さは基壇上25.46mあり、わが国最大の山門である。 上層の正面中央には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられている。 これは古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたものである。


金剛力士立像(吽形)[国宝]

金剛力士立像(阿形)[国宝]

 門内左右には高さ8.4mの巨大な木像の金剛力士(仁王)像(国宝)と石造獅子1対(重文)が安置されている。
 建仁三年(1203)に大仏師運慶、備中法橋(湛慶)、安阿弥陀仏(快慶)、越後法橋(定覚)の大仏師四人が多くの小仏師を率いてわずか69日で造ったと云う。 近年の解体修理で、阿形像は運慶・快慶、吽形は湛慶・定覚と分担して制作したことが判明した。


中門【重文】

中門−正面

中門−内側

 金堂(大仏殿)の手前にある入母屋造の楼門(2階建ての門)で、享保元(1716)頃の再建。 中門の両脇から"コ"の字形に回廊が伸び、金堂の左右に至っている。

金堂(大仏殿)【国宝】

 南大門を潜り参道を真っ直ぐ北方向へ200m進むと大仏殿を囲む廻廊の正面の中門に至る。大仏殿を観るには、大勢の参拝者が列をなしている中門の左手廻廊角にある入堂口から入る。


金銅八角燈籠国宝

大仏殿国宝

 中門から先にある大仏殿へと続く石畳の参道は仏教が伝わった歴史の意味を持っている。 それは、中央に敷かれている黒っぽい石は仏教が生まれたインドの石、その両脇にある石は中国、そしてその隣は朝鮮半島の石、最後に、斜めに配置されているのが日本の石だ。 仏教がインドで生まれ、次々と隣国に伝わり、ついには最終地点である日本に到達し、花開いた事を表現していると云われている。
 当初の大仏および大仏殿は、聖武天皇の発願により、八世紀に造られたものであったが、その後二度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代に再建されたものだ。
 江戸期には柱とする材が調達出来ず、芯となる槻(つき)を檜板で囲い、鉄釘と銅輪で締めて柱とした。 そのため、創建時に11間(86m)あったが7間(57m)となった。 現在でも世界最大級の木造建築であるが、往時の壮大さが伺える。
 毎年、大晦日から元旦に正面唐破風下の観相窓が開かれ、大仏尊像のお顔を外から拝しながら新年を迎えることができる。


虚空蔵菩薩坐像重文

盧舎那仏座像国宝

如意輪観音坐像重文

広目天像

多聞天像

 大仏殿の中央に本尊である高さ約14.7mの「奈良の大仏さま」(銅造盧舎那仏坐像)が鎮座している。 二度の焼失のため、奈良時代に制作された部分は、台座・右脇腹・大腿部などの一部で、頭部は江戸時代、体部の多くは鎌倉時代に補修されたもの。
 大仏の脇侍として向かって左手に「虚空蔵菩薩坐像」、右手に「如意輪観音坐像」が控えている。 どちらも江戸時代の作で、大仏とは違い木造である。 「虚空蔵菩薩坐像」は像高710.0cm、江戸時代の宝暦二年(1752)に完成した。 「如意輪観音坐像」は像高722.5cm、虚空蔵菩薩像よりもわずかに大きい。造像時期もやや早く、元文三年(1738)頃に完成した。
 さらに大仏殿には、北西に「広目天立像」、そして北東に「多聞天立像」がいて大仏を守護している。
拝観料: 600円

二月堂【国宝】

 東大寺も他の観光地と違わずメインの南大門から続く参道と大仏殿に賑わいが偏っている。ツアーや修学旅行で訪れる人が多いのだろうなー。





 旧暦二月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名「二月堂」がある。 二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の二回の大火には焼け残ったとされているが、寛文七年(1667)、お水取りの最中に失火で焼失し、二年後に再建されたのが現在の建物である。
 本尊は大観音、小観音と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。

法華堂(三月堂)【国宝】

 若草山麓のふもとの丘にある二月堂の南手の平地に建てられている。法華堂は天平時代の多くの仏像に出会える貴重な場所なので東大寺を訪れたら絶対に足を運ぶべきだ。


法華堂(三月堂)

不空羂索観音立像(本尊)

 東大寺に残る数少ない奈良時代建築の一つであり、天平仏の宝庫として知られる。 創建当時は「羂索堂」と呼ばれ、東大寺の前身寺院である金鐘寺の堂として建てられたもので、創建時期は天平十二年(740)から同二十年(748)ごろと推定されている。 建物の北側(参道側から見て向かって左側)の、仏像が安置されている寄棟造の部分を正堂、南側の入母屋造部分を礼堂と呼ぶ。 正堂は奈良時代の建築、礼堂は奈良時代にも存在したが、現在あるものは鎌倉時代の正治元年(1199)頃に付加したもののようだ。
 堂内には不空羂索観音立像(本尊)、梵天・帝釈天立像、金剛力士・密迹力士立像、四天王立像の計9体の乾漆像(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、塑造の執金剛神像(秘仏)を安置する(いずれも奈良時代。全て国宝)。
拝観料: 600円

三昧堂(四月堂)【重文】


 延宝九年(1681)の建立。寄棟造二重、本瓦葺き。本尊十一面観音立像(重文)、阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。
 (旧本尊の千手観音立像(重文)は東大寺ミュージアムに移座。)


鐘楼【国宝】



 三昧堂(四月堂)脇の石段を下りた右手の「鐘楼の丘」広場にある。
 鐘楼は、重源のあとを継いで二代目の大勧進となった栄西が再建したもの。
 梵鐘[国宝]は、大仏開眼供養が行われた天平勝宝四年(752)に製作されたもので、中世以前の梵鐘としては最大のもの(高385p、口径271p、重さ26.3t)。
 知恩院(京都)、方広寺(京都)の梵鐘とともに「日本三大名鐘」の一つに数えられている。

念仏堂【重文】


 三昧堂(四月堂)脇の石段を下りた右手の「鐘楼の丘」広場にある。
 鎌倉時代の建築で、寺院建築では古くから存在する錣ぶき屋根形式の中でも寄棟屋根を載せたような屋根を持つ。
 鎌倉時代の大仏師・康清作の木造地蔵菩薩坐像[重文]が安置されている。


行基堂


 三昧堂(四月堂)脇の石段を下りた右手の「鐘楼の丘」広場にある。
 東大寺大仏の造立に尽力した奈良時代の僧・行基を祭る。
 堂内には行基菩薩坐像が安置されている。


俊乗堂


 元禄年間、公慶上人が重源上人の遺徳を讃えて「俊乗堂」を建立した。 堂内中央に「重源上人坐像」[国宝]が安置されている。
 俊乗房重源は、保安二年(1121)京都に生まれ、父は紀季重。 13歳で醍醐寺に入り密教を学び、仁安二年(1167)入宋し、翌年帰国。
 治承四年(1180)平重衡によって大仏殿が焼かれるなど、東大寺の多くの伽藍が焼失したが、翌年60歳を過ぎた彼が造東大寺の大勧進職に任ぜられ、10数年の歳月をかけて東大寺の再興を成し遂げた。 再建に当って、"大仏様(だいぶつよう)"と呼ぶ宋風建築様式を取り入れ、再建の功により大和尚の号を受け、健永元年(1206)86歳で入滅した。

大湯屋【重文】

 二月堂裏手の長い階段を下り、そのまま坂道を下った先左手にある。


大湯屋-側面

大湯屋-正面

湯釜重文

 創建の年代は不明。治承四年(1180)の兵火で焼失、その後延応元年(1239)俊乗上人が再建し、応永十五年(1408)に惣深上人の手により修復された。
 東西八間・南北五間、西正面入母屋、東背面切妻造で、柱の上にある木組みの肘木が和様で、詰め組の中備えをなす丸みのある肘木が唐様である。
 湯屋内部の浴室入り口上部には唐風破が取り付けられている。 内部は三区分され、中央の浴室に建久八年(1197)に鋳物師草部是助作の湯釜(口径231cm、深さ73cm: 重文)が据えられている。 別の釜で沸かした湯を運び入れて使用していたようだ。「銭湯」の原形とされ、一般にも解放された「施し湯」としては、日本最古のもの。

戒壇院


 天平勝宝六年(754)、6度目の渡航で、ようやく唐より来日を果たした鑑真は、翌天平勝宝七年(755)に東大寺戒壇院を開いた。


戒壇堂

千手堂

 天平勝宝六年(754)、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真から戒を授かり、翌年、日本初の正式な授戒の場として戒壇院を建立した。 戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたが、江戸時代までに3度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興された。
 戒壇堂は天平勝宝六年(754)鑑真により聖武天皇・公明皇后が受戒し、翌年日本で最初の正式な受戒の場として建立された。 現在の戒壇堂は江戸時代に再建されたもの。 堂内では、中央の宝塔の四隅を広目天・多聞天・持国天・増長天の四天王像【国宝】が守っている。
 戒壇堂西側に千手堂と呼ばれるお堂がある。 鎌倉時代後期、東大寺の大勧進に任ぜられた圓照(えんしょう)上人が諸堂の造営修理に力を注いだが、千手堂も圓照上人の新造である。 文安三年(1446)、僧坊からの失火で戒壇院の主な堂舎は焼失したが、幸い千手堂は類焼を免れた。 しかし永禄十年(1567)、三好・松永の兵火によって焼失し、慶長年間(1596−1615)に寺僧成秀の尽力で漸く再建された。

指図堂


 大仏殿の西側すぐの位置にある10m四方程度の大きさの比較的小さなお堂である。
 指図堂は、もともと大きな板絵に描かれた「指図」(大仏殿の計画図面)を収めていた堂で、大仏殿復興後に倒壊したが、浄土宗徒の願いにより法然上人ゆかりの霊場として再建建された。


正倉院【国宝】

 大仏殿の北側(裏側)に回り、講堂跡や僧坊跡の広場を抜けて北側へ続く砂利道を200mほど進むと左手路地の前に椅子に座るおじさんがいた。 正倉院への参道の管理人のようだ。挨拶して参道に入り100mほど進むと左手に思いの外大きな正倉院があった。


正倉院宝庫

 奈良・平安時代の中央・地方の官庁や大寺には,重要物品を納める正倉が設けられていた。そしてこの正倉が幾棟も集まっている一廓が正倉院と呼ばれた。しかし,あちこちに置かれた正倉は,歳月の経過とともに何時しか滅してしまい,わずかに東大寺正倉院内の正倉一棟だけが往時のまま今日まで残った。
 正倉院は現在宮内庁の管轄となっている。

東大寺ミュージアム



 東大寺ミュージアムは、東大寺南大門のすぐそば、大仏殿からもほど近い位置にある「東大寺総合文化センター」の館内にある展示空間である。 ミュージアムにおいては、東大寺の1300年にわたる歴史を仏像・絵画などの展示物を観覧できる。
入館料: 大人[ 600円 ]

あとがき

 南大門周辺の鹿の糞尿の悪臭は酷過ぎだ!!。 息も出来ないほどで、ハンカチで鼻を抑え、目をショボショボさせながら足早に通り過ぎるしかなかった。 参道に店を出す商売人はどう考えているのだろうか?...。 "おもてなし"はお客の心に湧き上がる高揚感なのになー。これだけで東大寺の思い出は最悪のものになってしまった...。
 今回は前回観てなかった建物と戒壇院千手堂の特別公開(千手観音菩薩立像(鎌倉時代))を拝観した。 コロナ禍下火となり観光客もだいぶ戻っているようで特に修学旅行の生徒が多いなーと感じた。

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