事事関心! 仏閣探訪:
[ 長崎県長崎市/長崎山清水寺 ]
長崎県長崎市/長崎山清水寺         2015/03/17(火)新規
探訪案内

 長崎駅前から路面電車1系統「崇福寺行」に乗り終点の「崇福寺」電停で下車、国道324号に出て右折し丁字路突き当りまで進む。 右折し八坂神社一の鳥居の前を通り過ぎると隣に清水寺がある。入り口は220mほど先になる。
 長崎山(ちょうきさん)清水寺の起源は江戸時代の元和九年(1623)に遡る。 京都音羽山清水寺光乗院の僧侶・慶順が全国巡錫に立ち、ここ長崎の地に辿り着き、時の長崎奉行長谷川権六の助力により寺院を建立することとなった。 平成十七年から5年の歳月をかけ本堂の大復元が行われ、文久二年(1862)当時の姿に復元された本堂は平成二十二年(2010)国の重要文化財に指定された。

寺名: 長崎山清水寺
宗派: 真言宗霊雲寺派
本尊: 千手観音像
創建: 元和九年(1623)
開祖: 慶順
住所: 長崎県長崎市鍛冶屋町8-43
拝観: 無料
札所: 九州西国三十三ヶ所二十五番札所
交通: 路面電車1系統「崇福寺」電停で下車、徒歩4分。

【履歴】
・2015/03/17(火): 03/16(月)参拝。

山門 

山門

奇縁氷人石

 石段の途中にあり聖天堂への入り口となっている。
 向かって右手にある石柱は、縁結びの願掛け石と呼ばれる"奇縁氷人石"だ。 江戸時代、迷子探しや男女の縁結びに役立てたと言われており、左側に「たつぬるかた}(尋ねる方)、右側に「をしゆるかた」(教える方)と刻まれ、結婚を望む人は左に、世話人は右に、名前や素性を書いた紙を貼ったと伝えられている。

中門(石門) 


 明和八年(1771) 四方田慈輔の寄進により石段の最上段に建てられた。 長崎の寺院では幾つか見られる形だが、全国的には珍しいアーチ型の石門だ。 表に「廣大圓満」、裏には丸の中に「阿」の字が彫られており、左右には「花雨化成千載澤」と「香風吹遍十方春」の二句が聯書されている。


本堂 【重文】

本堂

扁額「清水寺」

本尊: 千手観音菩薩像

 現在の本堂は寛文八年(1668)に唐商何高材により建立されたもので、日本の様式に当時の中国様式(黄檗様式)を取り入れた長崎ならではのものだ。 昭和五十七年にはその歴史的価値が認められ、長崎県の有形文化財に指定された。
 建立当時の本堂は今の内院に当たる部分(祈願者が入る本堂内部の部分)だけだったが、その後、その内院を中心にお参り所などが増設された。 平成二十二年、平成の大修理により文政七年(1887)頃の姿に復元され国の重要文化財(建造物)に指定された。
 千手観音菩薩は開祖である慶順僧都が京都清水寺より奉持してきたもの。 京都清水寺の本尊を造る際の試作仏ではないかと言われており、大きさはその十分の一、清水型といわれる千ある手の一つが頭上で合掌する姿で、頭上には小如像を掲げている。

舞台 

舞台と唐船つなぎ石

花見塚(芭蕉句碑)

舞台: もともと木造だった舞台は正保三年(1646)背後の風頭山から石を切り出し石垣を築き、欄干を巡らせ、板石を敷き、京都清水寺のものを模した石舞台に改築された。 擬宝珠高欄に刻まれた寄進者名のすべては中国人であり、中には貿易商人と思われる南京人の名も記されているそうだ。
唐船つなぎ石: 唐貿易が盛んだった頃、入港する唐船を接岸する際、この石に綱をつないだと言われている。 貿易が終わった後、出島湾岸にあったものが境内へ運ばれ、石灯籠として元治元年(1864)に建立された。
花見塚(芭蕉句碑): 松尾芭蕉の句「志はら九八 花のうへ那る 月夜かな(しばらくは花の上なる月夜かな)」と、その辺句として祥木が詠んだ「初さくら 世に偽りの 道もなし」を刻んだ句碑である。文政七年(1824)に建立された。

大師堂 


 貞享三年(1686)に築造された祖師堂の老朽化に伴い、宝暦十年(1760)に建立された大師堂は、木造瓦葺・単層入母屋造・三十三坪の畳敷きの建物である。内部は内陣中央に弘法大師を祀った大師堂、慶順僧都を祀った祖師堂、親鸞・阿弥陀如来像と地蔵菩薩像を祀った阿弥陀堂に分けられている。この御堂の山側には明治頃まで、櫻姫美人大明神が祀られていたが、現在は本堂の南側の丘の上に移されている。


鐘楼と梵鐘 【長崎市指定有形文化財】

鐘楼

 寛永十九年(1642)京都三条釜座伊豆守藤原朝臣真次が鋳造し、博多の豪商伊藤小左衛門尉吉次より寄進された梵鐘が納められている。 戦時中の金属回収も免除され、長崎に現存する日本の梵鐘では最古のもので、昭和五十一年に長崎市の有形文化財に指定された。 鐘楼は明治十年(1877)に宝樹山現応寺(現八坂神社)より移築されたものとのこと。


櫻姫美人大明神 


 もとは大師堂の脇に鎮座していた石祠は、寛政元年(1789)に武元珍・元儔らが奉納したもの。 「石造流見世棚造」という珍しい祠で、明治時代に本堂の南東側の丘の上に移された。
 稲荷社は慶順僧都の時代から境内に祀られ、江戸時代の神仏混合の名残とも言われている。 祠は平成十八年九月の台風13号の暴風で倒れた大木の下敷きになり崩壊、平成二十一年に復元された。


あとがき

 京都の清水寺の末寺がここ長崎にあったとは知らなかった。京都と違い此処には静けさがあり、街中を走る路面電車の電停からほんの数分で訪ねることが出来る便利さが嬉しい。 隣にある八坂神社と共に訪れてみてはどうだろうか。

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