事事関心! 仏閣探訪:
[ 長崎県長崎市/東明山興福寺 ]
長崎県長崎市/東明山興福寺         2016/01/28(木)新規
探訪案内 

 長崎駅前の路面電車電停から「蛍茶屋行き」(3系)に乗車、「公会堂前」電停で下車する。 市民会館脇を通り中島川を越え更に新橋通を進み、突き当りの寺町通りを左折する(電停より徒歩約8分)。
 興福寺は、「長崎三福寺」(興福寺、福済寺、崇福寺)の一つで、元和六年(1620)中国人がキリシタンでないことの証と唐船の航海安全の神、媽祖(まそ)を祀る寺として創建された。 わが国における最初の黄檗禅宗の唐寺(とうでら)である。主として南京出身の船主らの寄付によって建てられたので「南京寺」とも云う。 また、雄大な朱丹色塗りの山門により「あか寺」として親しまれている。

施設: 東明山 興福寺
宗派: 黄檗宗(禅宗)
創立: 元和六年(1620)
本尊: 釈迦如来像
住所: 長崎市長崎市寺町4-32
拝観: 一般300円
交通: 路面電車「長崎駅前」電停から3系統「蛍茶屋行」に乗車、「公会堂前」電停にて下車、徒歩約8分。

【履歴】
・2016/01/28(木): 01/23(土)拝観。

山門 【県有形文化財】

山門

扁額「東明山」

 総朱丹色の雄大な山門は長崎で一番の大きさで、明暦元年(1655)に創建された。 寛文三年(1663)市中大火で伽藍の悉くを焼失、元禄三年(1690)に日本人工匠の手で和風様式にて再建された。 更に昭和二十年(1945)原爆で大破したため、その後復元された。
 正面の扁額「東明山」は隠元禅師が命名した山号で、山門梁上(内側)の扁額「初登宝地」は隠元禅師の書である。
 山門を潜ると突き当りが石垣で、参道が直角に曲がっている。 この造りは、本堂(大雄宝殿)に邪気が直接入るのを防ぐ唐寺特有の魔除けのための伽羅配置である。 興福寺の場合は参道である眼鏡橋から配置がされているという。

大雄宝殿(本堂) 【重文】

本堂

扁額「大雄宝殿」

 本堂を「大雄宝殿」と呼ぶのは釈迦(大雄)を本尊として祀ることからきている。 正面壇上に本尊釈迦如来、脇立は準提観音菩薩と地蔵王菩薩を祀る。
 寛永九年(1632)第二代黙子如定禅師が創建。元禄二年(1689)再建、慶応元年(1865)暴風で大破したため、明治十六年(1883)に再建され現在に至る。 建材は中国で加工し、中国から招いた工匠が作った純中国式建築である。 柱や梁には巧緻な彫刻、とくに氷裂式組子(ひょうれつしきくみこ)の丸窓、アーチ型の黄檗天井、大棟の瓢瓶(ひょうへい・災害が振りかかると瓢瓶が開いて水が流れ、本堂を包み込むという意がある火除けのおまじない)高さ1.8mなどが珍しい。

媽祖(まそ)堂 【県有形文化財】

媽祖堂

扁額「海天司命」

 媽姐は、「天妃」/「天后聖母」/「菩薩」などの呼び名がある。航海の守護神で、華南地方で深く信仰された。
 長崎へ来航する唐船には必ず「媽祖」が祀られ、在泊中は、船から揚げて各由縁の唐寺の媽祖堂に安置した。 これを「菩薩揚げ」といい、賑やかに隊列を組んで納めたという。
 寛文三年(1663)の市中大火で焼失した。 再建の年代は諸説あるが、堂内正面に寛文十年(1670)の扁額「海天司命」が現存することから、大火後7年目の寛文十年頃に整備されたものと考えられている。 中央に、本尊・天后聖母船神(媽祖神)、脇立は赤鬼青鬼と呼ばれる千里眼と順風耳。崇福寺と異なり媽祖門がない。 建築様式は和風を基調とし内外総朱丹塗、黄檗天井の前廊、半扉、内部化粧屋根裏風天井など黄檗様式を加味し、また軒支輪のある建物は珍しく、貴重な建築資料である。内部の左右側壁には棚が設置され、在泊船の媽姐像を安置する菩薩棚がある。


順風耳

千里眼

 「順風耳(順風耳像(青鬼))」は大きな耳が特徴で、あらゆる悪の兆候や悪巧みを聞き分けて、いち早く媽姐に知らせる役を持つ。
 「千里眼(順風眼像(赤鬼))」は三つの目が特徴。媽姐の進む先やその回りを監視して、あらゆる災害から媽姐 を守る役目を持つ。
 伝説によると、この2鬼神は昔、悪ふざけばかりして人々を困らせていた妖術使いであったが、 媽姐が改心させて自分の守護を命じたと云われている。


三行会所門 【県有形文化財】

三行会所門


 長崎在留の清国人のうち三江(江南・江西・浙江の3省)出身者が明治十一年(1878)三江会を設立し興福寺に事務所を置いた。 その集会場として三明治十三年(1880)江会所が建てられた。
 主屋は昭和二十年(1945)原爆により大破し、門だけが遺存する。 中央に門扉、左右は物置の長屋門式建物で、門扉を中心に左右に丸窓を配し、他は白壁、門扉部分上部の棟瓦を他より高くした意匠は簡素清明。 大雄宝殿と同じ中国工匠の手になるものと思われる肘木(ひじき)、虹梁(こうりょう)、彫刻など細部手法は純中国建築様式で、敷居は高く、これは、豚などが門内に入らないよう工夫した「豚返し」と呼ぶ中国民家の様式である。
[東明燕(とうめいえん)]
 三江会所跡に造られた庭園。庭の池は「黄檗池」とよばれる形で、江戸時代につくられたもの。

旧唐人屋敷門 【重文】


 元禄二年(1689)、十善寺郷(現在の館内町)に唐人屋敷が完成。 市内に散宿していた唐船主以下中国人は民宿を禁じられ、この唐人屋敷に収容された。
 約3万uの広大な敷地内には住宅、店舗、祀堂などが軒を連ね一市街地を形成した。 その後数度の火災があったが、天明四年(1784)の大火で天后堂(関帝堂)を残し他はことごとく焼失してしまった。 この唐人住宅門だけが民家の通用門として遺存していたのを、昭和三十五年、保存のため中国にゆかりの深い興福寺境内に移築された。 扉は二重で内門は貴人来臨専用。 用材は中国特産の広葉杉、柱上部の藤巻、脂肘木、鼻隠坂、懸魚などに中国建築特有の様式が見られる。 建築年代は不明だが、天明四年(1784)大火以降のものと推定されている。

鍾鼓楼 【県有形文化財】

鍾鼓楼

 寛文三年(1663)の市中大火のあと元禄四年(1691)に五代悦峰禅師が再興した。 後に日本人棟梁(高木弥源太・同久治平)により享保十五年(1730)位置を変えて再建、その後も度々修理が加えられている。
 和風建築様式で、重層の上階は梵鐘を吊り太鼓を置き、階下は禅堂に使用された。梵鐘は戦時中に供出して今はない。 上層は梵鐘、太鼓の音を拡散させるため、丸い花頭窓を四方に開き周囲に勾欄を付け、軒廻りには彫刻をほどこし、他の木部は朱丹塗り。 屋根の隅鬼瓦は外向き(北側)が鬼面で厄除け、内向き(南側)が大黒天像で福徳の神という珍しいもの。 「福は内、鬼は外」の意味といわれ日本人棟梁の工夫である。

中島聖堂遺構大学門 【県有形文化財】



 儒教の祖「孔子」を祀る東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂とともに長崎聖堂は、日本三聖堂のひとつである。 儒者向井元升が正保四年(1647)に聖堂・学舎を創設した。 寛文三年(1663)市中大火で類焼、一時衰退などあったが、元升の子元成が京より帰来したのでこれを迎えて再興、聖堂を正徳元年(1711)8月に竣成した。 長崎聖堂というが、中島川のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれた。 聖堂は長崎奉行の保護下にあり、壮大な構えであったが、明治初年に廃滅し、杏檀門と規模縮少した大成殿を残すのみとなり、昭和三十四年保存のため興福寺境内にに移築された。 門扉に大学の章句が刻まれているので、俗に「大学門」と呼ばれている。

歌碑

斎藤茂吉歌碑

有馬朗人句碑

[ 長崎の 昼しづかなる 唐寺や
 思ひ いづればしろき さるすべりの花 ]
(斎藤茂吉)
[ 長崎の 坂動き出す 3日かな ]
(有馬朗人)


魚板(けつ魚) 


 庫裡の入口にさがる巨大な魚鼓は、正式名称を「はんぽう」と云い、寺院の衆に飯時を告げるために叩かれた江南のけつ魚の木彫りだ。 このような魚板は全国の禅寺によくあるが、その中でも興福寺のものは日本一美しいと定評がある。(日本に唯一残る明朝魚鼓)
 長年叩かれ腹部は凹んでいるが、当時は叩く音が遠く山裾まで届いていたそうだ。 魚の口に含む玉は欲望を表し、これを叩いて吐き出させるという意味をもち、木魚の原型とみなされている。


あとがき

 観光客が散見される眼鏡橋を観た後で見学したが、此処は自分らだけ。 寺院の拝観はあまり人気がないようだ。 同じ黄檗禅宗の宇治・萬福寺の広大な様に比べると本当に狭いが、古さが際立ち趣がある。

関連コンテンツ

inserted by FC2 system