事事関心! 仏閣探訪:
[ 長崎県長崎市/聖寿山崇福寺 ]
長崎県長崎市/聖寿山崇福寺         2015/03/17(火)新規
探訪案内

 長崎駅前から路面電車5系統「崇福寺行」に乗り、「崇福寺」電停で下車。電車の軌道を横切る道を左手に向かい突き当りを左へ150m(徒歩3分)。
 聖壽山崇福寺は、寛永六年(1629)福州地方出身の長崎在住唐人が中心となり、 唐僧・超然(ちょうねん)禅師を招き創建した黄檗宗寺院で、福州出身者で建立されたことから「福州寺」とも呼ばれていた。 崇福寺は、興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられている。

寺名: 聖寿山 崇福寺
宗派: 黄檗宗
本尊: 釈迦如来
開祖:
住所: 長崎県長崎市鍛冶屋町7-5
拝観: 大人300円
交通: 路面電車5系統「崇福寺」電停で下車、徒歩3分。

【履歴】
・2015/03/17(火): 03/16(月)参拝。

三門 【重文】

三門

 その華麗な形から別名「竜宮門」とも言われている。
 寛文十三年(1673)に創建された当時は、三間一戸八脚門入母屋造り単層で、現在のものとは全く形の異っていた。 明和三年(1766)の長崎大火によって焼失。その後再建されたが、文政九年(1826)の台風によって倒壊した。
 現在の三門は、游龍彦十郎・鄭幹輔の発願によって嘉永二年(1849)に再建されたもので、日本人棟梁大串五良平の手によるものである。 中央にある『聖壽山』の扁額は隠元禅師の筆といわれている。

第一峰門 【国宝】

第一峰門

扁額「第一峰」

横額「崇福禅寺」

 この門は、「唐門」・「海天門」・「二の門」・「中門」・「赤門」とも呼ばれている。 当初はここが第一門であったが、この下段西向きに、新たに三門(楼門・竜宮門)が建立され、ここは二の門となるが「第一峰門」という。 「第一峰門」の名称は即非禅師の書の扁額の文字が由来になっている。
 創建は寛永二十一年(1644)、現在の門は元禄八年(1695)に中国・寧波で材を切組み、運ばれたものを再建したものと云う。 横額の表「崇福禅寺」は唐通事林仁兵衛(林守)、裏の「海天華境」は林大卿(楚玉)の寄進と、父子による寄進だ。 裏側の横額の文字が『海天門』の由来である。なお、明暦元年(1655)に隠元禅師を迎えたときの山門は、この第一峰門である。

大雄宝殿 【国宝】


 釈迦(大雄)を本尊とする大雄宝殿は、大檀越(有力な財物施与者)何高材の寄進により、中国で切組み唐船で運び正保三年(1646)上梁建立された。 当初は単層屋根(たんそうやね)であったが、35〜6年後の延宝天和の頃、外観重層を付加し現在の姿となった。 下層部分は軒回りの逆凝宝珠束(ぎゃくぎぼしづか)の持送りや、前廊部分が俗に黄檗(おうばく)天井と呼ばれるアーチ型の天井であるなど、中国建築様式であるのに対して、上層部の建築細部様式は和様を基調としている。 この上層部の意匠は福済寺大雄宝殿(原爆焼失)のそれに類似していると云う。
 長崎市に現存する最古の建物である。


十八羅漢像

釈迦如来像

十八羅漢像

 本尊は釈迦如来で脇侍は迦葉(かしょう)と阿難(あな)が鎮座している。 この本尊は世にも珍しい内臓を持つ仏像である。昭和十年(1935)頃、仏像修理の際に内部から銀製の五臓、布製の六腑等が発見された。 内臓模型を入れるのは『生き身の釈迦』としてインドに伝説があり、金属製の内臓を持つものは我国の仏像としてはとても珍しいそうだ。

媽祖(まそ)門 【重文】

媽祖門

魚板

 媽祖は、ぼさ(菩薩)ともいい、「ぼさ門」とも呼ばれている。 媽祖堂の前にあり、大雄宝殿と書院玄関をつなぐ渡廊下を兼ねた配置になっている。
 現在の媽祖門は文政十年(1827)に再建されたものだ。当初は寛文十一年(1671)の石壇の完工後あまり日を経ないで造られたものと推定されている。 八脚門3間3戸形式、扉の前面は黄檗天井、背面は山形天井となっている。
 被爆前の福済寺観音堂は媽祖堂にあたるがこれには門があったが、興福寺媽祖堂には門がなく、また聖福寺及び宇治の黄檗山万福寺には媽祖堂そのものがない。 このことからも現存する媽祖堂の門はここにしかなく貴重なものと言えるとのこと。
 媽祖堂門には、後半部に魚板がかかっている。 すり減った腹に、『維時天保二年辛卯吉旦 施主大串五 中野与』などの文字が見え、その下は消えているが、文政十三年(1830)棟梁職を申渡された大串五郎平(五良平)が、翌天保二年この魚板を寄進したようだ。 竜宮門を完成したのはこれから約20年後の嘉永三年(1850)のことであった。

媽姐堂 【県指定史跡】




 媽祖は、海上守護神で天后聖母・天妃・老媽・菩薩、その他の呼び名があり、中国の華南地方で尊崇されている。 唐船は船毎に媽祖像を祀り、入津(にゅうしん)滞泊中は唐寺の媽祖堂に奉安したから、媽祖堂は寺内でも重要度の高い建物で、長崎の唐寺の草創は媽祖堂の建立に始まるという傾向があったようだ。
 現在の建物は寛政六年(1794)唐船主からの砂糖1万斤の代銀12貫目で再建された。 基壇(きだん)上の勾欄(こうらん)・前廊の黄檗(おうばく)天井・半扉(はんとび)、その他の黄檗様式と和様の細部様式とが混在している。 船の媽祖像を揚げ卸す儀式のために、前庭の空間が用意されている。港内から望見できる目印の旗を立てた刹竿(旗竿)石1対が、現在も鐘鼓楼の前に置かれている。

護法堂 【重文】


 左から天王殿、観音堂、関帝堂の三つの堂から成っている。 軸部を中国で切組んだものを唐船で運び、日本人棟梁が建てたものと考えられている。享保十六年(1731)の完成である。
 左から韋駄天、観音、関帝(関羽)を祀っている。





鐘鼓楼 【重文】


 重層の上階に梵鐘を吊り、太鼓を置いている。即ち、鐘楼(しょうろう)と鼓楼(ころう)を兼ねている。
 中国で材を切組み、唐船で舶載し建立したというが、享保十三年(1728)の年号と木匠頭荒木治右衛門の墨書がある。 妻の懸魚(けぎょ)や破風(はふ)等の細部に和風様式が混入している。 上層は,梵鐘や太鼓の音を拡散させるために、丸窓・火灯窓等の開放された開口部が多い。 柱上部籐巻(とうまき)・挿肘木(さしひじき)・鼻隠板(はなかくしいた)など他と共通する特徴があり、軒裏軒下を除き、雨がかり部の朱丹塗りも、隣接の護法堂に同じである。 なお創建時の鐘鼓楼は八(六?)角円堂の重層建物で、書院前庭の南隅にあったと云う。

大釜 【市指定有形文化財】


 延宝八年(1680)農作物の不作のために飢饉が蔓延し、翌年正月福済寺が施粥(せじゅく)を始めたが、崇福寺は寺内工事のため施粥は出来ず、工事が終わった9月15日から千呆(せんがい)は町に托鉢に出て施粥を始めた。 翌天和二年(1682)4月14日、大釜を鍛冶屋町から車で運び、崇福寺本堂前の竈に載せた。 5月15日には施粥は止んだ。
 大釜は、口径6尺5寸、深さ6尺、釜代一貫三百目と伝えられている。鋳物師(いもじ)阿山(あやま)家の二代安山弥兵衛の仕事と推定される。 釜の廻りに『聖寿山崇福禅寺施粥巨鍋天和貳年壬戌仲春望後日』の銘がある。 大釜はその後現在の鐘鼓楼の位置に移され、次に護法堂との間に移り、明治三十六年(1903)現在位置に移された。

あとがき

 唐寺では京都府宇治にある黄檗山万福寺を昨年拝観し、雄大で綺麗だったと感じた。 ここ崇福寺は小粒ながら唐の様式を多く残しており、貴族向けと一般大衆向けのような一味違う感覚を覚えた。
 今回、建物の細かい細工など見逃しも多々あったので、次の機会の見学を楽しみにしよう。

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