事事関心! 仏閣探訪:
[ 大阪府大阪市/四天王寺 ]
大阪府大阪市/四天王寺           2022/11/01(火)新規
探訪案内 

 大阪メトロ御堂筋線「天王寺」駅下車、北側出口玉造筋を東へ、社会保険事務所の手前を左折して庚申街道を北へ約500m、四天王寺南門に至る。
 四天王寺は聖徳太子が建立した日本最初の官寺(国立の寺院)であり、仏教の是非を巡って蘇我氏と物部氏の間で起こった戦争の折、太子が寺院の建立を条件に四天王に戦勝祈願したことから、この名が付いたとされる。なお、天王寺区の名前の由来にもなっている。 また、創建当初は四天王を本尊としていたとされるが、現在は山号を「荒陵山」とし、本尊に救世観世音菩薩を祀る和宗(仏教の既存の宗派に属さない独立宗派)の総本山寺院となっている。

寺名: 荒陵山 四天王寺
宗派: 和宗総本山
本尊: 救世観世音菩薩
開基: 聖徳太子
創建: 推古天皇元年(593)
札所: 新西国三十三箇所第1番札所 西国三十三所番外霊場 西国薬師四十九霊場第16番
   近畿三十六不動尊霊場第1番 大坂三十三所観音めぐり第20番 - 24番
   聖徳太子霊跡第1番 他
参拝: 無料
住所: 大阪市天王寺区四天王寺1丁目11番18号
アクセス: 御堂筋線「天王寺」駅下車、北側出口玉造筋を東へ、社会保険事務所の手前を北へ約500m

【履歴】
2022/11/01(火): 11/01(火)参拝。

寺院創建概要 

 第29代欽明天皇十三年(552)、百濟の聖明王から天皇に仏像・仏典が献上され、仏法を日本に広めるよう勧められた。 天皇は臣達を集めてこれを相談すると、蘇我大臣は「(海外)諸国が敬っている信仰を、我が国だけが背くわけには行きません」と言って仏像礼拝に賛成した。 しかし、物部大連と中臣連は「我が国には多くの神が居り、皆が年中礼拝しています。これを改めて異国の神を祀れば、きっと国神の怒りを受けるでしょう」と言って仏像礼拝に反対した。
 そこで、天皇は蘇我大臣に仏像を授けて礼拝させてみたが、疫病が流行して若死にする者が多発したため、物部大連と中臣連は天皇の勅許を受けて仏像を棄て、寺に火を放って全焼させた。 敏達天皇三年(574)、橘豊日皇子(用明天皇)と穴穂部間人皇女との間に厩戸皇子(聖徳太子)が誕生した。
 用明天皇二年(587)、天皇が病に伏せたことから仏法に帰依したいと相談した。これに蘇我大臣は賛成したが、物部大連・中臣連は反対した。以後、崇仏派の蘇我大臣と排仏派の物部大連・中臣連が対立するようになった。 その後、天皇が崩御すると皇位を巡って対立が激化し、やがて崇仏派と排仏派との間で戦争が勃発した(丁未の乱)。
 崇仏派の蘇我氏は多くの氏族を味方に付けて軍を起こすが、排仏派の物部氏は軍事を司る氏族だったため、戦況は物部氏が圧倒的に勝っていたが、崇仏派の軍に参加していた厩戸皇子は自ら白膠(ぬりで)の木で四天王像を造って「もし、勝利させてくれるならば、護世四王(四天王)のための寺を建てましょう」と誓って戦勝祈願した。 すると、崇仏派の武将が放った矢が物部大連を射抜き戦争は崇仏派の勝利に終わった。 この勝利によって推古天皇元年(593)、厩戸皇子は難波の荒陵に四天王寺を建立した。

境内入口 

西大門石鳥居【重文】

西大門(極楽門)

 西大門の外側に立つのが石鳥居だ。鎌倉時代の永仁二年(1294)四天王寺別当となった忍性が石造の明神鳥居として再建したもので、国の重要文化財に登録されている。 現存する最古の石造鳥居でもある。 鳥居上部の嘉暦元年(1326)鋳造の扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と記され、この地が釈迦如来が仏法を説いている場所で、ここが極楽の入口であるとの意だ。 西の海に沈む夕陽を拝む場所で、現世から西方極楽浄土に通じる救いの門として信仰されてきた。 平安時代末期に四天王寺の西大門が極楽浄土の東門に接しているという信仰が確立し、浄土信仰の隆盛とともに、阿弥陀如来のいる極楽浄土に導いて貰おうと、人々は祈りを捧げたのである。


南大門

東大門(境内側)

 南大門は伽藍の南側に位置しており、ここが四天王寺の正門である。
 熊野詣での人々はここから南へ、上町台地の海沿いの道を、第一王子の「窪津王子」、第二の「坂口王子」、第三の「郡戸(こうと)王子」、第四の「上野王子」を経て四天王寺へ参詣した。
 四天王寺は王子ではないが「熊野権現遥拝石」が南大門の前に残っており、この石の上から熊野に向かって旅の無事を祈り、熊野へ行けない人は此処から熊野の神へ加護を祈ったという。
 東大門は伽藍の東側に位置しており、左右には仁王像が安置されている。 なお、昭和二十年の大阪大空襲で焼失し、昭和三十八年に再建された。

中門(仁王門) 

仁王門

仁王像(蜜途金剛力士)

仁王像(那羅延金剛力士)

 中門は本寺中心伽藍の最南端にあたり、脇の間に仁王像を祀っていることから俗に「仁王門」と呼ばれている。 仁王像は四天王寺大仏師久朋琳氏の作で、重さ約1t、5.3m高。奈良の大仏に次いで我が国2番目の大きさという。

金堂 


 昭和三十六年(1961)三月再建。入母屋造で屋根は上下二重となっている。 中門、講堂と同様、錣葺で鴟尾を乗せている。外観は法隆寺金堂に似ているが、裳階を付さない点が異なっている。 内部には中央に本尊救世観音菩薩像、向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が立っている。 周囲の壁面には中村岳陵筆の「仏伝図」の壁画がある。


講堂 


 講堂は、聖徳太子が法華経・勝鬘経を講讃した所で講法堂とも呼ばれる。
 中心伽藍の北側に位置している。 堂内は、西側の夏堂(げどう)と、東側の冬堂(とうどう)に分かれ、夏堂には十一面観世音菩薩が、冬堂には阿弥陀如来が安置されている。


五重塔 


 現在の塔は昭和三十四年(1959)再建の八代目、「六道利救の塔」ともいう。 壁面には山下摩起筆の仏画がある。 なお、舎利塔が奉安されている五重目まで階段で上がれるようになっている。


聖霊院(大師堂)、奥殿 



 聖霊院(しょうりょういん)は、聖徳太子を祀る堂で、「太子堂」とも呼ばれる。
 昭和二十九年(1954)建立の前殿には太子十六歳像・太子二歳像・四天王が祀られている。



 昭和五十四年(1979)建立の奥殿には秘仏の太子四十九歳像が祀られている。


北鐘堂、太鼓楼 

北鐘堂

太鼓楼

 北鐘堂(黄鐘楼)は北の引導鐘ともいう。昭和二十四年(1949)建立。
 太鼓楼にはかつては太鼓が置かれていたが、再建の際に鐘に変えられた。


六時堂と石舞台 【重文】


 中心伽藍の北に位置し六時礼讃堂とも呼ばれる。入母屋造、瓦葺き。元和九年(1623)徳川秀忠による建立。 以前の六時堂が焼失した後、椎寺・薬師堂(境内北西、大江小学校付近にあった)を移築したものである。 椎寺とは天慶六年(943年)に建立された四天王寺の別院であり、薬師堂(薬師院)と普門院(現:元三大師堂)からなっていた。 六時堂の堂内には薬師如来坐像と四天王像が安置されている。西国薬師四十九霊場第16番札所である。
 石舞台は元和九年(1623)の再建。六時堂の手前の「亀の池」の中央にある。 石舞台は「日本三舞台」の一つとされる(他2つは、住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台)。 この舞台では毎年四月二十二日の聖霊会(聖徳太子の命日法要)の日に雅楽が終日披露される。 四天王寺の雅楽は、宮中(京都)、南都(奈良)と共に三方楽所とされた「天王寺楽所」によって伝えられ、雅楽の最古の様式を持ち、現在は「雅亮会」が伝統の様式を継承している。

亀井不動堂 



 昭和三十年(1955)再建。創建は推古天皇元年(593)である。亀井不動尊を祀る。近畿三十六不動尊霊場第1番札所である。


南鐘堂(鯨鐘楼) 


 太子引導鐘堂ともいう。昭和三十年(1955)建立。


あとがき

 今回、宝物館が所蔵している国宝や重文等を含む宝物の数々の拝観をついうっかり失念していて出来なかった。 次回としよう。

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