事事関心! 仏閣探訪:
[ 滋賀県大津市/三井寺(園城寺) ]
滋賀県大津市/三井寺(園城寺)        2021/02/25(木)更新
探訪案内 

 京阪電鉄石山坂本線「三井寺」駅で下車し、駅前の道を山側へ京都疏水沿いに進み、琵琶湖湖水の設備がある最初の交差点で右折し県道47号線「伊香立浜大津線」まで進み、ここで左折し山側へまっすぐ進むと突き当りに仁王門がある。
 天智六年(667)に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれた。 天武天皇元年(672)、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子・弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟・天武天皇)が皇位継承をめぐって争い、"壬申の乱"が勃発。 壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために 「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、 天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが「園城寺」の始まりとされている。
 「三井寺」と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に御産湯に用いられたという霊泉があり、「御井の寺」と呼ばれていたものを後に智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来する。
 三井寺(園城寺)は天台宗の総本山で古くから日本四箇大寺の一つに数えられている。

寺名: 長等山園城寺(通称: 三井寺)
宗派: 天台寺門宗 総本山
本尊: 弥勒菩薩
創建: 7世紀
住所: 滋賀県大津市園城寺町246
札所: 観音堂: 西国三十三所観音霊場・第十四番、近江西国観音霊場・第五番、数珠巡礼
       びわ湖百八霊場(湖西二十七名刹)
   本堂: 神仏霊場
   微妙寺:湖国十一面観音霊場・第一番
   水観寺:西国薬師霊場・第四十八番
拝観: 600円
アクセス: 京阪電鉄石山坂本線「三井寺」駅下車、山側へ徒歩10分。

【履歴】
・2021/02/25(木): 2020/10/25(日)再訪に伴い項目追加。
・2019/09/28(土): 09/26(木)拝観。

大門(仁王門) 【重文】

仁王門−正面

仁王門−内側

 入母屋造の楼門で、もと近江国の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった門を慶長六年(1601)、徳川家康が寄進したもの。 墨書銘等から室町時代の宝徳三年(1451)の建立と推定される。



金剛力士像(吽)

金剛力士像(阿)

 右側に阿形、左に吽形が安置されている。血走った玉眼、筋骨隆々の姿は室町時代の作品である。高さ約3mの巨体ながら、非常にバランスの良い体型をしている。


総門 

総門


 元来は三井寺南院の総門として建立された。 中世以降、三井寺は北院、中院、南院の三院に分かれ、多くの僧兵を擁したことから外周には濠を構え、石垣で枡形をつくり厳重な山門が設けられていた。現在の総門(元和七年(1621))もかつての名残をとどめる城門風の薬医門である。


金堂 【国宝】


 現在の金堂は、豊臣秀吉の正室北政所によって慶長四年(1599)に再建されたもの。 正面七間、側面七間、一重入母屋造、向拝一間、桧皮葺である。
 内部は外陣・中陣・後陣に別れ、 中陣は中心となる内陣の両側に脇陣を設けている。 内陣以外の床は全て板敷とするのに対して、内陣は土間のままとしており、伝統的な天台系本堂の形式をよく伝えている。
 本尊:弥勒菩薩(絶対秘仏!!)もここに安置されている。


不動明王立像

地蔵座像

宝冠釈迦如来坐像

円空仏7躯

 尊星王像、不動明王立像、不動明王坐像、宝冠釈迦如来坐像、円空仏7躯、など諸仏が堂内で拝観出来る。 円空仏は鉈による素朴で大胆な彫りが特徴だ。

三井晩鐘 【重文】

鐘楼

三井の晩鐘【重文】

天狗杉

 金堂に向かって右手前にあり、「三井の晩鐘」で知られる梵鐘が吊るされている。 この梵鐘は慶長七年(1602)の鋳造で、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘に数えられている。
 金堂前には目通し周囲約4mに及ぶ杉の巨木が聳えている。修行僧が一夜のうちに天狗になって飛び去ったとの伝説から「天狗杉」と呼ばれている。樹幹の先端部は落雷により枯れた状態となっているが、全体に枝葉が繁り端正な樹勢を保っている。

相模坊と天狗杉

 室町時代の初め、相模坊道了という僧が勧学院書院で密教の修行をしていたとき、 ある夜、突如として天狗となり書院の窓から飛び出し、この杉の上に止まり、 やがて朝になるや東の空に向かって飛び去った。
 道了ははるか小田原(神奈川県)まで飛び、降りたところが大雄山最乗寺であったと云う。
 道了は五百人力と称され、験徳著しく村人から慕われ、最乗寺の道了尊堂に祀られている。また、道了の修行していた勧学院には「天狗の間」があり、 いまも最乗寺では道了尊を偲び当寺に参詣されている。

釈迦堂 【重文】

釈迦堂

本尊:釈迦如来立像

 仁王門を入り直ぐ右手にある。 天正年間(1573年 - 1593年)造営の御所清涼殿を下賜され移築したものと伝えられる。
 本尊は、いわゆる清凉寺式の釈迦如来立像である。胸のあたりの袈裟の着方が特徴で頭髪・衣文がきわめて異国的。


閼伽井屋 【重文】

閼伽井屋

龍の彫刻(左甚五郎作)

 閼伽井屋は、金堂に向かって左奥手に接して建つ小堂で、慶長五年(1600)、金堂と同じく高台院によって建立された。 また、左甚五郎作という龍の彫刻が施されている。
 堂内には三井寺の名の起こりとなった霊泉が湧出している。 この霊泉は、天智天皇(中大兄皇子)、天武天皇(大海人皇子)、持統天皇(女帝)が誕生の際に産湯に用いたという伝説が伝わる。

弁慶の引摺鐘 【重文】

霊鐘堂

弁慶の引摺鐘【重文】

 霊鐘「弁慶の引摺鐘」(重文)を安置している。
 比叡山と三井寺が争った際に、武蔵坊弁慶が三井寺から梵鐘を奪い、比叡山まで引き摺り上げたという。 しかし、その鐘を撞いてみると「イノーイノー(帰りたい)」という音が響き、腹を立てた弁慶が谷底へ投げ捨てたとのこと。
 また三井寺に凶事が迫った時には、前兆として鐘の表面に汗をかき、叩いても音を出さなかったので、三井寺の"霊鐘"として大切にされているそうだ。

一切経堂 【重文】

一切経堂

八角輪蔵

 室町時代の建築。毛利輝元の寄進により、慶長七年(1602)、山口市の国清寺の経蔵を移築したもの。


唐院 【重文】

参道

四脚門【重文】

 宝殿ともいう大師堂(重文)、大師堂の拝殿として作られた灌頂堂(重文)、唐門(重文)、四脚門(重文)、後水尾天皇の寄進で建立された長日護摩堂(県指定文化財)などがある。 智証大師円珍が唐から帰国後、請来した経巻法具などを納めたところとされる。
 現在は、宗祖円珍の廟所ならびに灌頂(密教の儀式)の道場として寺内で最も重視されている区域である。


長日護摩堂【県文】

潅頂堂【重文】

三重塔【重文】

長日護摩堂:
 唐院の灌頂堂の南に東面してならぶ3間四方、各面5.91mの小堂で、正側面に縁をつけ、背面には灌頂堂へ通じる伝廊が付属している。 寺伝では後水尾天皇(在位1611〜29)の本願により建立されたとするが、あきらかな資料はまだ発見されていない。 面取方柱に台輪をのせ、出三斗組で、中備(なかぞなえ)は正面中央間に蟇股(かえるまた)、その他の間は間斗束、軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)で、屋根は宝形造本瓦葺、頂上に露盤、宝珠をおく。 隅の鬼瓦には寛文六年(1666)の箆書(へらがき)銘がある。 正面中央間は桟唐戸(さんからど)、両脇は連子窓(れんじまど)、両側面の前寄2間は横舞良戸(よこらまいど)引違い、南側面の後端間は片引戸、その他の間は板壁、床は板張りで背面通りに3間通しの須弥壇をもうけている。
潅頂堂:
 大師堂と四脚門にはさまれて建ち、大師堂の拝殿としての役割を備える。 内部は前室と後室に分けられ、伝法潅頂を行うプランを備えている。 仁寿殿下賜の伝えそのままに、縁を廻らせ、蔀戸などをしつらえており、装飾の少ない堂である。
三重塔:
 南北朝時代に奈良にある比曾寺(現在の世尊寺:奈良県吉野郡大淀町)の東塔として建てられたものを豊臣秀吉が伏見城に移築し、さらに慶長六年(1601)に徳川家康によって現在地に移築された。 三間三重、本瓦葺、宝形屋根、高さ24.7mの塔婆で、内部には釈迦、文殊、普賢三尊が安置されている。 この三重塔は鎌倉時代の様式を踏襲した大和地方の塔婆建築の遺構として大変貴重な存在で明治三十九年(1906)に国指定重要文化財に指定されている。

毘沙門堂 【重文】


 もともとは元和二年(1616)、園城寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に建立されたもの。 明治四十二年、南院円宗谷の上三尾社の下に移築され、さらに昭和三十一年に観音堂北側の山腹に移築、修復された。 横幅2.88mの方形の建物は、禅宗様でありながら、各部に極彩色を用いており、桃山建築の雰囲気が色濃く残っている。 仏壇上厨子に木造毘沙門天像を安置するので、毘沙門堂の名がある。


教侍堂 

教侍堂

 教侍堂は案内板によると「教侍和尚の像を安置する。 寺門伝記によると教侍和尚は、智証大師が当寺御入寺以前、この聖地を護持していた不思議な老僧で貞観元年、大師の御入山を迎えるとともに、この草庵に入り姿が見えなくなったという。 この堂は慶長4年に建てられたもの。」と説明されている。
 教侍堂は安土桃山時代の慶長四年(1599)に造営されたもので、木造平屋建て、寄棟、本瓦葺き、平入、桁行2間、外壁は真壁造り板張り、華美な意匠が無い質素な御堂である。


微妙寺 

微妙寺

本尊:十一面観音立像【重文】

 現在の本堂は安永五年(1776)に再建されたものである。昭和五十四年(1979)に創建以来の地から現在地である園城寺中院に移転してきた。
 堂内に上がりお参りできる。
 本尊の十一面観音立像は、園城寺別所の尾蔵寺の旧本尊と伝えられ、参拝人が多数押しかけて 人々の笠が破れたことから俗に「笠ぬげの観音」と呼ばれて信仰された。 現在は、湖国十一面観音霊場第一番札所の本尊として、微妙寺に安置されている。

観音堂 【県文】

観音堂

御前立

 寺域の南側、琵琶湖を望む高台に位置する南院札所伽藍の中心堂宇である。 西国三十三所観音霊場の第14番札所として知られる。
 後三条天皇の病気平癒を祈願して延久4年(1072年)に西方の山上、華ノ谷に創建された。 当初は聖願寺や正法寺という名前であったが、文明十三年(1481)に現在地に移された。 貞享三年(1686)に焼失。現在の観音堂は元禄二年(1689)に再建されたもの。


百体観音堂【市文】

観月舞台【市文】

鐘楼【市文】

百体観音堂:
 百体観音堂は宝暦三年(1753)に建てられたもので宝形造、桟瓦葺、正面1間が吹き放しになっている。 江戸時代中期に建てられた寺院建築の遺構として貴重なことから滋賀県指定文化財に指定されている。 西国坂東秩父百観音の札所である。
観月舞台:
 三井寺南院の伽藍の一翼を担い、嘉永三年(1849)に造営された建物で、木造平屋建て、入母屋、檜皮葺き、妻入り、桁行1間、張間1間、外壁は柱のみの吹き放し、周囲には高欄が廻っている。 謡曲「三井寺」で母親と行方知れずになった我が子が中秋の名月で感動の再会を果たした場所とされ、舞台から眺める名月は絶好の月見になるそうだ。 観月舞台は江戸時代後期に建てられた舞台建築の遺構として貴重な事から滋賀県指定文化財に指定されている。

地蔵堂 【市文】

地蔵堂


 地蔵堂は文政二年(1819)に建てられたもので木造平屋建て、宝形造、桟瓦葺、桁行2間、張間2間、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、内部には子授け、安産祈願に御利益があるとして信仰の対象となっている中坂世継地蔵が祀られている。
 江戸時代後期に建てられた寺院建築の遺構として貴重な事から大津市指定文化財に指定されている。


護法善神堂 【市文】



 本尊は護法善神として鬼子母神を祀る。 鬼子母神は従来人間の児を奪い食する悪鬼だったが、 釈尊がこれを聞き、母神の子を鉢で隠したところ、 狂髪・啼哭して悲しんだ。 釈尊が慈愛を垂れたところ、仏教に帰依し、以後善女神になったといわれている。
 江戸時代・享保十二年(1727)建立。

財林坊 【市文】

表門

本地堂

 財林坊は三井寺の守護神である護法善神(鬼子母神)が祭られている護法社の管理する僧侶の住まいである預坊として創建された。
 表門は江戸時代中期の享保十二年(1727)に建立されたもので切妻、本瓦葺き、一間一戸、薬医門形式。
 表門に隣接する門番所は、表門と同じく享保十二年(1727)に建立されたもので木造平屋建て、寄棟、桟瓦葺、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。
 本地堂は江戸時代初期の慶安四年(1651)に建立されたもので木造平屋建て、宝形造、檜皮葺、桁行2間、梁間2間、外壁は真壁造り板張り(外壁上部は白漆喰仕上げ)。
 表門、門番所、本地堂は江戸時代の寺院建築の遺構として貴重な事から大津市指定文化財に指定されている。

あとがき

 参拝者は本当に疎らにしかいなかった。一人旅だったので堂内に入っていいものか否か?と悩むことも多かった。 でも、お蔭で金堂では貸し切り状態で堂内の諸仏をゆっくりと拝観できた。


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