護国寺は、東京メトロ有楽町線「護国寺」駅でおりて1,2番出口からすぐの処にある。
天和元年二月(1681)、五代将軍徳川綱吉公が、その生母 桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜い、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。
寺名: 神齢山 悉地院 大聖護国寺(大本山 護国寺)
宗派: 真言宗豊山派
本尊: 琥珀如意輪観音(絶対秘仏)
創建: 天和元年(1681)
開山: 桂昌院
開基: 亮賢
札所: 御府内八十八箇所87番、江戸三十三箇所13番、東国花の寺百ヶ寺 東京3番
拝観: 境内は無料
住所: 東京都文京区大塚5-40-1
交通: 東京メトロ有楽町線「護国寺」駅すぐ。
【履歴】
・2021/03/12(水): 03/12探訪。
八脚門、切妻造りで丹塗。元禄期造堂の本堂、薬師堂や大師堂などから成る、徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。 建立は、元禄十年(1697)造営の観音堂(本堂)よりやや時代が後と考えられている。
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正面(南側)の両脇に金剛力士像。背面(北側)の両脇には二天像(右側は増長天・左側は広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。
不老門 |
扁額「不老」 |
不老門は、仁王門と本堂の中間に建立されており、京都・鞍馬寺にある由岐神社(ゆきじんじゃ=鞍馬寺の鎮守社)拝殿(豊臣秀頼建立の桃山建築)を模している。
昭和十三年(1938)4月建立、三尾邦三氏の寄進である。
施工は仰木、川面建築設計事務所、また額面「不老」の二字は徳川家達公の筆によるものである。
観音堂 |
不老門を抜けると20mほどの真っ直ぐな参道の先の石段の上に境内が広がり、真正面に観音堂(本堂)が建っている。
現在の観音堂(本堂)は、元禄十年(1697)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成し、同年8月落慶供養の式典が挙げられた。また元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えず、江戸の面影を今に伝え、訪れる人々に安らぎの場として親しまれている。
天和二年(1682)護国寺本堂が落成した際、桂昌院の念持仏である唐物天然琥珀の如意輪観世音菩薩が安置され、その後秘仏となり、現在安置されているのが、六臂如意輪観世音菩薩像である。
本堂の中は拝観が可能。中には多くの仏様が安置されており、大日如来座像、地蔵菩薩立像、不動明王像は文京区の文化財に指定されている。
内陣には、観音菩薩が33の姿に変化して救済の手を差し伸べるという三十三人身像が祀られている。
いずれも創建時に収められたもので、桂昌院が一体一体に自身の髪の毛を埋め込んだという謂れが残っている。
帝釈身、龍身などそれぞれに姿の異なる33体がずらりと鎮座するさまは、まさに壮観!。
内陣は一般には公開されていないが、本堂から三十三人身像を拝覧できる(ただし内陣の写真撮影は不可)。
昭和三年に大津市(近江)の三井寺の塔頭日光院の客殿を現在の場所に移築した。
桃山時代の建造で書院様式を伝えるものとして貴重な建物である。(国指定重要文化財)
元禄十四年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正十五年以降に大修理し現在の位置に移築して大師堂にしたものである。 装飾も少なく全体的に荘重、すっきりしている。 真言宗伽藍における大師堂の格式の高さと、中世的な伝統を重んじた貴重な建造物である。
元禄四年(1691)の建立。一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用したもので、大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えているなど、禅宗様建築の手法をとりいれていることで、小規模ながら元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物である。
境内に入ると左手に多宝塔が建っている。
昭和十三年の建立。塔は滋賀県・石山寺の多宝塔(国宝)の模写で、建築設計は仰木敬一郎氏である。
本尊は團芳子氏寄贈の大日如来像を安置、彫刻者は長谷川栄作氏、内部円柱の仙画金銀五彩の紋様は、田中親美氏設計監督により完成した。
不老門をくぐり右に曲がると大師堂があり、その左手脇に小さな地蔵堂がある。
名前の通り、一言だけの願いを叶えてくださる「一言地蔵」様だ。一言なので"願い事"は厳選だ。
扉が閉まっていますが、お参りの時は開けて構わないそうだ。
鐘楼 |
境内に入り右手奥のほうに鐘楼が建つ。
鐘楼の中では、伝統を重んじた格式の高い袴腰付重層入母屋造りの形式で江戸時代中期の建立である。
都内では同種のほとんどが失われている中で、貴重な文化財である。
また梵鐘は、天和二年(1682)に寄進されたもの。
銘文には五代将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられ、護国寺が幕府の厚い庇護を得ていたことを示す貴重な歴史資料である。
大仏 |
身代地蔵尊 |
地蔵尊 |
仁王像 |
大仏(釈迦如来坐像):
境内に入りすぐ右手には大仏が置かれている。高さ2.5mと、大仏様の中では比較的小ぶりだが立派な台座に鎮座する釈迦如来坐像で存在感がある。
身代地蔵尊:
身代地蔵尊は昭和戦後の造立。第二次大戦の戦犯は現在のサンシャイン60のある場所にあった巣鴨プリズン(巣鴨監獄)に囚われ、千名余りが戦犯として死刑になった。その霊を弔う目的で護国寺が造立したものである。
不老門手前右側には、頂上に富士浅間神社の小さな祠がある「音羽富士」がある。
都内には数多くある富士塚だが、寺院にあるのは珍しいそうだ。
江戸時代に全盛だった富士講(富士山信仰)を今に伝える富士塚である(一合目から十号目まで石碑が配されている)。
霊廟 |
「三条実美」墓 |
「大隈重信」墓 |
本堂の裏手には墓地が広がり、幕末から明治時代にかけて活躍した大隈重信、三条実美、山県有朋、旧岩崎邸や鹿鳴館の設計者ジョサイア・コンドルなど、数多くの著名人が眠っている。
本坊に通ずる所にあり、形式は社寺系のものでなく、大名屋敷の表門の形式で、柱や冠木(かぶき)なども太く、全体にどっしりした構えである。 五代将軍徳川綱吉公の祈願寺でもあり、将軍と桂昌院の御成りのための格式の高い門が造営された。
思いの外広大な境内は、付属の幼稚園の園児たちが一塊になって散策したり、木陰のベンチで休む会社員の姿などのんびりした境内だった。
本堂内には内陣に数多くの仏像が祀られており、薄暗さの中見づらくはあったがゆっくり拝まさせて頂けた。