弘安五年九月八日(1282)、病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ出立し、九月十八日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。
生涯最後の二十数日間の滞在中、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源という。
日蓮聖人の入滅後、この地の領主・池上宗仲公が法華経の字数(69,384字)に合わせて約7万坪の寺域を寄進し寺院の基礎が築かれた。
しかし、昭和二十年の空襲でそのほとんどを焼失、そのため、今ある建物は比較的新しい建物となっている。
池上本門寺は、日蓮聖人入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院の一つとされ、七大本山のひとつにも挙げられている。
寺名: 長栄山 大国院 本門寺
宗派: 日蓮宗本山
本尊: 三宝尊
開基: 池上宗仲
創建: 弘安五年(1282)
住所: 東京都大田区池上1-1-1
拝観: 無料
交通: 東急池上線「池上」駅より徒歩約15分
【履歴】
・2017/05/20(土): 05/17探訪。
総門 |
此経難持坂 |
元禄年間(17世紀末〜18世紀初め)の建立と伝える。「本門寺」と刻された扁額は本阿弥光悦の筆によるもので、現在掲げられている額は複製である。
オリジナルは霊宝殿に収蔵され常設展示されている。
総門を潜った先にある石段は、加藤清正の寄進によって造営されたと伝えられている。96段の石段は別称「此経難持坂(しきょうなんじざか)」と呼ばれている。
元禄の頃(1688〜1703)に改修されているが、造営当時の粗型を残しており、貴重な石造遺構である。
総門を潜り石段の此経難持坂を登った先に広がる雄大な境内の正面に建つ二重門が仁王門だ。 旧国宝の山門は、昭和二十年(1945)の空襲で焼失。仁王門として昭和五十二年(1977)に再建された。 門内には彫刻家圓鍔勝三が、アントニオ猪木をモデルに制作した仁王像が安置されたが、近年修理を機に本殿内に移設。 新たに仏師原田佳美作の仁王像が平成十三年十月(2001)に開眼供養が行われ奉られている。
「祖師」すなわち日蓮を祀ることから「祖師堂」ともいう。
旧大堂は、本門寺14世日詔の時代の慶長十一年(1606)加藤清正が母の七回忌追善供養のため建立したが、元和五年(1619)に焼失した。
その後、寛永六年(1628)本門寺復歴16世日樹の代に金1万両を用いてほぼ旧規模に再建されたが、宝永七年(1710)再び焼失した。
本門寺24世日等時代の享保八年(1723)8代将軍徳川吉宗の用材寄進により、規模を縮小の上再建された。
この3代目の大堂も、昭和二十年(1945)年四月の空襲により焼失し、昭和二十三年(1948)に仮祖師堂と宗祖奉安塔が建設された。
その後、本門寺79世伊藤日定が中心となり全国檀信徒の寄進を受け、昭和三十九年(1964)現在の大堂を再建した。
この際仮祖師堂は取り壊され、宗祖奉安塔は経蔵を北側へ移動させた上でその南側隣に移築された(現在の霊宝殿の位置)。
現在の大堂は、高さ27mの鉄筋コンクリート造り入母屋造の屋根の大建築である。
第二次大戦の空襲で焼失した旧堂には本阿弥光悦の筆になる「祖師堂」の扁額が掲げられていたがこれも同時に焼失してしまった。
再建後は本門寺80世金子日威が揮毫した「大堂」の扁額が掲げられている。
堂内中央の厨子には、日蓮聖人坐像、右には日輪聖人坐像、左には日朗聖人坐像が安置されている。
平成十八年四月(2006)には屋根瓦修復及び雨水漏水対策、耐震補強・火事対策等の工事が完了した。
本殿とは、本師(釈尊)のおわします殿堂との意味。
昭和四十四年(1969)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。
戦後に建てられた近代仏堂建築として評価が高い。旧釈迦堂は旧大堂(祖師堂)に隣接して建っていたが、再建にあたっては公道を隔てた大堂後方の北側へ移された。
本尊の釈迦如来像の胎内には、インドのネルー首相が寄贈した釈迦の舎利骨が納められている。
他に、四菩薩立像(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)を安置している。
徳川二代将軍秀忠の乳母、岡部局の発願で慶長十二年(1607)に完成した。関東に現存する幕末以前の五重塔としては最古となる。 特徴としては、初層のみを和様(二重平行垂木・十二支彫刻付蟇股など)とし、二層以上を唐様(扇垂木・高欄付廻縁など)とする点、上層への逓減率が少ない点、相輪長が短い点、心柱が初層天井の梁上に立つ点等があげられ、極めて貴重な塔建築である。 宝塔は、上下層とも円形の平面をもつ木造の仏塔で、屋根は宝形造、銅板葺で、その上に露盤と相輪を載せている。 宗祖の550 回遠忌おんきに際し、信徒の本願により、文政十一年(1828)に上棟した。 桃山期の五重塔は全国で1基だけであり、文化遺産としての価値は極めて高いものである。
空襲による焼失をまぬがれた建物の1つ。 輪蔵形式の内部には回転する八角形の書架があり、天海版一切経が収められていた。現在は別途保管されている。 天明四年(1784)に建立。第二次大戦後、大堂再建に伴う旧宗祖奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地に移された。
鐘楼 |
新梵鐘 |
旧梵鐘 |
現在の鐘楼は、昭和三十三年(1958)の再建。 旧梵鐘は、正保四年(1647)加藤清正の娘で、徳川頼宣の室となった瑤林院が寄進したもので、旧鐘楼が空襲で焼失した際破損したため、現在は再建された鐘楼の脇に保存されている。
日蓮像 |
仁王門手前の参道石段の右手脇に立っている。昭和五十八年(1983)日蓮の700回忌に建立されたアルミニウム製の像で、彫刻家・北村西望の作品である。
ここにはもと、明治時代の政治家の星亨の銅像があったが、戦時中の金属供出により撤去された。
戦後になり星の遺族らが台座を寄付して日蓮像が建立された。
此経難持坂の頂きの脇に立っている「そうじ小僧」像は児玉誉士夫氏が安都古夫人の追善供養のために建立したもの。
お経や仏様の事を中々覚えきれない珍念という小僧がいて、看かねた和尚が「『ほうき持ったらば、お掃除、お掃除!』とだけ覚えなさい」と諭したが、小僧は暫くして「唱え続けていたけど掃除をした方がいいや!」と、庭を掃き始めたという話があるそうだ。
池上本門寺宝塔 |
宗祖日蓮大聖人の御尊骸を荼毘に付した霊蹟に建つ供養塔である。
建立は宗祖五百五十遠忌を期して行われ、江戸芝口講中の本願により、文政十一年(1828)に上棟、同十三年(天保元年)に開堂供養を修している。
石造の方形基壇に築いた円形蓮華座の上に建つ木像宝塔形式の建物で、内外ともに漆や彩色によって華やかな装飾が施されている。
塔内中央には金箔や彩色で装飾された華麗な木像宝塔を安置し、日蓮大聖人御所持の水晶念珠を泰安している。
宝塔形式の木像塔婆は極めて現存例が少なく、当山多宝塔はその中でも最大規模を誇る本格的な宝塔として、極めて貴重な建物である。
なお、「多宝塔」の名称は建立当初から呼称されているものであり、文化財としての名称は「池上本門寺宝塔」である。
池上本門寺境内を歩いていると「←力道山の墓所はあちらです」という立て札がいくつも立っている。
興味を掻き立てられたので、立札の矢印方向へ向かう僧侶が案内するグループについて見に行ってみた。
力道山は、昭和十五年(1940)朝鮮半島より日本に渡り大相撲の二所ノ関部屋に入門した。
その後、関取まで出世したが未知のプロレスに転向、昭和三十年代のテレビ普及に貢献、日本中にプロレスブームを作った。
なお、昭和三十年、大田区馬込に広大な屋敷を購入して昭和三十五年頃まで住んでいた。
境内は参拝者がポツポツとしかおらず静かに参拝できた。力道山のお墓があるというので探していたら、うまいこと僧侶が案内する参拝者の一団が五重塔の次の見学が力道山のお墓のようだったので後について行き、無事墓参り出来た、ラッキー。