事事関心! 仏閣探訪:
[ 東京都台東区/寛永寺 ]
東京都台東区/寛永寺           2019/11/10(日)新規
探訪案内 

 上野寛永寺(天台宗東叡山寛永寺)は、天海僧正(慈眼大師)が幕府より江戸忍岡の地を与えられ、寛永二年(1625)に開創、武蔵国川越の東叡山喜多院から東叡山の名を移し、創建年号にちなみ「寛永寺」と号された。 その後、徳川家康を祭神とする東照宮、京都清水寺の観音堂を模した清水観音堂などが建立され、幕府の保護のもとに隆盛を極めた。 一帯は物見遊山の場としても栄え、桜の名所でもあった。
 明治維新の際の上野戦争にて慶應四年(1868)彰義隊と官軍との戦場となり、伽藍の大部分が灰燼に帰した。 その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約3万坪、江戸時代の1/10ほど)、多くの部分は上野公園となっている。

寺院: 東叡山 寛永寺 円頓院
宗派: 天台宗山門派
本尊: 薬師瑠璃光如来像(伝教大師、最澄の手彫り)
創建: 寛永二年(1625)
住所: 台東区上野桜木1-14-11
参観: 無料
交通: JR山手線「鶯谷」駅南口より徒歩約7分

【履歴】
・2019/11/10(日): 新規作成。

山門 

表山門

寺号門

 寛永寺は西向きに表山門と寺号門が並び、東側に駐車場に繋がる裏門がある。
 JR「鶯谷」駅からアクセスすると表山門が一番近い門となっている。


根本中堂(本堂) 

根本中堂

扁額「瑠璃殿」

 旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応四年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。 そのため明治九年(1876)から十二年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂を移築し、本堂とした。 寛永十五年(1638)の建造といわれる。
 間口・奥行ともに7間(17.4m)、前面に3間の向拝と5段の木階、背面には1間の向拝がある。 周囲には勾欄付廻縁をめぐらせおり、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。
 内陣には外陣と同じ高さの須弥壇が設けられており、須弥壇の上に秘仏の本尊薬師三尊像、その他の仏像が安置されている。

鐘楼 


 本堂に向かい手前右手に建ち、南側から鐘を衝く配置となっている。
 吊るされている銅鐘は台東区有形文化財に指定されており、厳有院殿の一周忌にあたる延宝九年厳有院殿廊前の鐘楼に奉献されたもの。


厳有院殿(徳川家綱)霊廟勅額門 【重文】

厳有院殿(家綱)霊廟勅額門

 厳有院霊廟は、延宝九年(1681)に5代将軍綱吉により石造宝塔墓で建立されたが、4年後の貞享二年(1685)に再び綱吉により、現存する唐銅宝塔墓に再建されたという。厳有院霊廟勅額門の形式は、四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺で、延宝九年(1681)に建立され、水盤舎と共に昭和五年(1930)に重要文化財に指定された。 なお、厳有院霊廟建立に当り、根本中堂建立(元禄十一年(1698))まで、寛永寺の実質的総本堂の役割を果たしていたといわれる東叡山寛永寺護国院(釈迦堂)が、5代将軍綱吉(常憲院)霊廟の位置辺りに移転し、さらに、宝永六年(1709)現在地(芝公園10-18)に移ったという。

常憲院霊廟勅額門及び水盤舎(徳川綱吉) 【重文】

常憲院霊廟勅額門

 綱吉の霊廟は、宝永六年の十一月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみても、もっとも整ったものの一つであった。 ただ、その一部は維新後に解体されたり、第2次世界大戦で焼失した。
 この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。 勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、胴瓦葺である。


徳川綱吉
 五代将軍綱吉は、延宝八年(1680)五月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永六年(1709)一月十日に63才で没した。 法名を常憲院という。綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。
旧寛永寺五重塔(境外: 上野動物園内) 【重文】

 上野動物園の中にある。東照宮の参道からも観られるが、塔の基礎部分まで観るためには入場料を払い動物園に立ち入る必要がある。


塔正面/動物園内から

塔裏面/東照宮側から

 寛永八年(1631)建立の初代の塔が寛永十六年(1639)に焼失、同年ただちに下総・古河城主 土井利勝により再建された。 なお、塔に安置されていた釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来の四仏は、東京国立博物館に寄託されている。
 高さ約32m(地上から屋根上まで)、相輪までは約36m。三間五重塔姿、本瓦葺(五層のみ銅板瓦葺)である。 江戸時代の塔としては珍しく全層が和風様式となっている。 また建物内部には心柱が塔の土台の上にしっかりと建てられ、塔の頂上にある青銅製の相輪まで貫いている構造になっている。 心柱が釣られた懸垂式と呼ばれる建築構造が江戸時代の五重塔には多く見られる一方でこの塔は、土台にしっかりと建てられた桃山時代によくみられた建築構造である。 屋根は本瓦葺(第5層のみ銅瓦葺)を使用している。 塔をよく見ると、初層上方の建物の桁を受ける支持材の蟇股に十二支が装飾され、各層の軒下角隅部には4頭ずつ龍の彫刻が配されている。

清水観音堂(境外: 上野公園内) 【重文】

 清水観音堂は上野公園内、西郷隆盛銅像の近くにある。



 寛永八年(1631)の建築で、千手観音を祀る。規模は小さいが京都の清水寺本堂と同様の懸造建築である。
 江戸三十三箇所観音霊場の第6番札所である。
 寛永二年(1625)に 比叡山に倣って東叡山寛永寺を開いた慈眼大師天海大僧正は、京都清水寺より奉安された千手観音菩薩を本尊として、清水寺を模した「清水観音堂」を寛永8年(1631)に建立した。 創建当初は、現在地より北方約100mのところにあったが、根本中堂建立のため、元禄七年(1694)に現在地に移築された。
 堂は、桁行5間、梁間4間、単層入母屋造り、本瓦葺で、不忍池に臨む正面の舞台は、江戸時代より浮世絵に描かれるほどの景観を誇り、上野の山では創建年時の明確な最古の建造物となっている。 なお、境内には、人形供養碑、秋色桜と碑などがある。

時鐘堂(境外: 上野公園内) 

 時鐘堂は上野公園内の精養軒の近くにある。



 寛文九年(1669)に設けられたこの鐘は、現在も正午と朝夕六時の計三回、毎日時を告げている。 (現在の鐘は天明七年(1787)に改鋳されたもの。)
"花の雲 鐘は上野か 浅草か" (芭蕉)
 時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永三年(1626)になって、日本橋石町3丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。 元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・目白不動・目黒円通寺・四谷天竜寺などにも置かれた。 初代の鐘は、寛文六年(1666)の鋳造。銘に「願主柏木好古」とあったという。 その後、天明七年(1787)に、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳直されたものが、現存の鐘である。 正面に「東叡山大銅鐘」、反対側には「天明七丁未歳八月」、下に「如来常住、無有変易、一切衆生、悉有仏性」と刻まれている。 現在も鐘楼を守る人によって、朝夕6時と正午の3回、昔ながらの音色を響かせている。 なお、平成八年六月、環境庁の、残したい「日本の音風景100選」に選ばれた。

不忍池弁天堂(境外: 上野公園内) 


 不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島(ちくぶしま)に因んで常陸(現茨城県)下館城主水谷(みずのや)勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)の大弁財天を勧請し弁天堂を建立した。 当初、弁天島へは小舟で渡っていたが、寛文年間(1661〜1672)に石橋が架けられて自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。 弁天堂は昭和二十年の空襲で焼失し、昭和三十三年九月に再建された。
 弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂(はつぴ)の大弁財天、脇侍は毘沙門天、大黒天である。 本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。 また、本堂前、手水鉢の天井に、天保三年(1832)と銘のある谷文晁による「水墨の竜」を見ることができる。

あとがき

 上野寛永寺は元は上野の山一帯を境内としていたが、現在は寛永寺、の他に上野公園内に点在するので全体像が分かりにくい。


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