小田急「喜多見」駅にて下車、南口より線路を横断する道に出て南方向へ進むと世田谷通りの「喜多見駅入口」交差点に出る。
世田谷通りを横断し、更に100mほど東京方向に進み南へ奔る路に折れると道路右手に「慶元寺/氷川神社」案内板がある。
この案内板の表示「200m先突き当り左折」の通り進む。左折後はさらに道なりに進み、ASA新聞配達店を通り過ぎたら次の右手脇道に折れ、道なりに進むと右手にある。
徒歩約18分(1.5km)
慶元寺は、江戸太郎重長が江戸城紅葉山の辺に天台宗岩戸山大沢院東福寺として文治二年(1186)に創建、康正二年(1451)祖先累代の墓碑とともに成城(元喜多見)へ移転、応仁二年(1468)当地へ移転した。
天文十九年(1540)19世真蓮社空誉上人が中興開山となり、天台宗から浄土宗へ改宗の上山華林院慶元寺と改号、寛永十三年(1636)十一月九日徳川家光より寺領十石の御朱印状を拝領、近隣に末寺六ヵ寺を擁する小本寺格の寺院だった。
慶元寺は、多摩川三十三ヶ所観音霊場4番、玉川六阿弥陀2番の札所でもある。
寺名: 永劫山 花林院 慶元寺
宗派: 浄土宗
本尊: 阿弥陀如来座像
創建: 文治二年(1186)
参観: 無料
住所: 世田谷区喜多見4-17-1
交通: 小田急「喜多見」駅より徒歩約20分
【履歴】
・2015/12/16(水): 12/16(水)参拝。
・2019/03/23(土): 一部修正。
入口 |
参道 |
山門 |
参道の正面には立派な山門がある。宝暦五年(1755)に建立されたもので、昭和五十年に改修されている。 頭上には「永劫山」の扁額が掲げられている。
本堂 |
扁額「慶元寺」 |
現本堂は享保元年(1716)に再建されたもので、現存する世田谷区内寺院の本堂では最古の建造物であるといわれている。
関東大震災や風害によって破損したが、昭和二十七年に修築され、その際草葺から瓦葺きに改築された。
扁額「慶元寺」は増上寺の法主椎尾弁匡による書である。
墓地の正面には一際目立つ三重の塔が建っている。塔のてっぺんの相輪が金ぴかに光っているのが印象的である。
この塔は平成五年(1993)に建立された新しいものである。
鐘楼堂は宝暦九年(1759)に建立されたものを戦後改修したものである。
観音像(追善塔) |
慈母観音像 |
六地蔵 |
戦没者犠牲者追善塔の観音立像、慈母観音立像、六地蔵などが祭られている。
江戸重長像(参道脇) |
昭和六十年(1985)十一月三日に慶元寺の開山800年を顕彰して建てられた銅像だ。
この江戸重長が皇居の紅葉山辺りに建立したのが、慶元寺の前身の東福寺で、江戸(喜多見氏)の氏寺である。
ここは、徳川綱吉の頃、喜多見藩2万石があり、喜多見氏が治めていたところだ。
江戸を中心に、武蔵国南部、相模国はほとんどが天領となっており、ここのように藩があるのは珍しいことだった。
この藩は、喜多見重政が綱吉の側用人となって出世し、2万石の大名に取り立てられたことからはじまる。
しかし、立藩してまもなく一族(重政の叔父)が起こした刃傷事件より、伊勢に配流されお家を断絶されてしまった。
で、この喜多見氏は、元は現在の江戸城の地を治めていた江戸氏で、太田道灌に江戸の地を追われて、この地に移って来た。その後、江戸勝忠は徳川家康に使え、そのときに江戸氏から喜多見氏へ名を変えている。
参拝する人も無く、静かに散策できた。