事事関心! 仏閣探訪:
[ 東京都港区/泉岳寺 ]
東京都港区/泉岳寺             2022/03/27(日)新規
探訪案内 

 都営浅草線「泉岳寺」駅にて下車、駅前の伊皿子坂(いさらござか)の緩やかな坂道を少し上ると正面にある。
 泉岳寺は、慶長十七年(1612)徳川家康が外桜田(桜田門周辺)の地に門庵宗関を招いて創建したお寺で、愛宕の青松寺、板橋の総泉寺と並んで曹洞宗江戸三ヶ寺の一つに数えられる由緒ある寺である。
 外桜田の泉岳寺は寛永十八年(1641)の"寛永の大火"で焼失したが、徳川家光の命を受け毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地に再建された。
 赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られ、国の史跡に指定されている。現在も多くの参拝客が訪れている。

寺名: 萬松山 泉岳寺
宗派: 曹洞宗
本尊: 釈迦如来
創建: 慶長十七年(1612)
開基: 門庵宗関
拝観: 境内無料
住所: 東京都港区高輪2-11-1
交通: 都営浅草線「泉岳寺」駅A2出口から徒歩約1分。

【履歴】
・2022/03/27(日): 2/20(日)参拝。

中門 

中門

大石内蔵助良雄銅像

 元来、泉岳寺には三門と言って三つの門(総門・中門・山門)があったが、現在は中門と山門のみが残っている。
 現在の中門は天保七年(1836)に35世大?梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和七年に大修理が施された。
 大石内蔵助良雄銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもの。 所有が転々としていたが、泉岳寺に寄進され、大正十年十二月十四日に除幕したものだ。 内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっと睨んでいる姿を表している。

山門 

山門

扁額「泉岳寺」

 この山門は天保三年(1832)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建された。 二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれている。 「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書とのこと。

本堂 

本堂

扁額「獅子吼」

 旧本堂は第二次世界大戦で空襲に遭い消失。現本堂は昭和二十八年に落成した鎌倉様式の建築である。
 本尊は釈迦牟尼仏、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められている。 正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指す。

鐘楼堂 


 大正二年、41世普天霊明(ふてんれいみょう)和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞かれる。 また、江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されている。


赤穂義士墓所 

義士墓入口の門

 

 この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築された。
 赤穂義士は元禄十六年(1703)二月四日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬された。 ただし間新六の遺体は遺族が引き取られた。また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑤泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のちに江戸に戻って自首したが赦され、麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うした。 現在も曹渓寺に眠っている。 泉岳寺にある間新六の供養墓は他の義士の墓と一緒に建立されたが、寺坂の墓は慶応四年(明治元年(1868))六月に供養のために建てられたもの。 また、いわゆる四十七士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓がある(明和四年(1767)九月建立)。 したがって泉岳寺の墓碑は48墓ある。

首洗い井戸、他 

首洗い井戸

主税梅

首洗い井戸:
 義士が本懐成就後、浅野長矩の仇として武林隆重に討たれた吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれている。
主税梅:
 大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅とのこと。 三田の松平壱岐守邸は、赤穂浪士のひとり・大石主税(ちから)が切腹したスポットとされている。

あとがき

 ほぼ半世紀ぶりに訪れた。前回赤穂義士墓所を訪れた際は若く感受性が豊かだったせいか一種の異様な気配を感じ早々に立ち去ったが、今回は何も感じずお参りできた。
 泉岳寺の近くに豆大福で有名な松島屋があるのでついでに立ち寄ってみるのもありだ。


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