推古天皇36年3月18日(628)未明、今の隅田川に投網漁をしていた漁師の檜前浜成、竹成兄弟の網に一体の仏像が掛かった。
それを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り、深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、礼拝供養に勤めた。これが浅草寺の始まりと云われている。
大化元年(645)、勝海上人が観音堂を建立、また夢告により本尊を秘仏と定め、これより武蔵国の観音信仰の中心地となった。
現世利益の「浅草観音」として篤く信仰され、国内外から年間約3000万人もの参拝者が訪れる東京の名所となっている。
寺名: 金龍山 浅草寺
宗派: 聖観音宗(総本山)
本尊: 聖観世音菩薩(秘仏)
建立: 推古天皇36年(628)
開基: 勝海上人(生没年不詳)
札所:
住所: 台東区浅草2-3-1
アクセス: 東京メトロ銀座線「浅草」駅より徒歩5分
【履歴】
・2016/01/12(火) 作成。
雷門 |
大提灯 |
天慶五年(942)平公雅(たいらのきんまさ)によって創建され、その初めは駒形付近にあった。 現在の門は、慶応元年(1865)12月12日の田原町大火で炎上した門に替わり、昭和三十五年(1960)、95年ぶりに松下幸之助氏の寄進により復興再建され、浅草寺の総門として威容を誇っている。 また、浅草の顔としても全国的に有名である。
雷神像 |
風神像 |
天龍像 |
金龍像 |
風神・雷神像は鎌倉時代以降現在地に移築された際に初めて奉安されたと云われている。
当初は、伽藍守護のために、風水害または火災からの除難を目的としてこの二神が祭られた。
一種の護法善神と見るべきものであったが、さらには、風雨順時の天下泰平、五穀豊穣の祈願も込められるようになった。
龍神像(天龍、金龍)は、水をつかさどる龍神さまであり、浅草寺の護法善神である。
雷門の背面、風神・雷神と対称となるように奉安されている。
宝蔵門 |
仁王尊像(阿形) |
仁王尊像(吽形) |
『応永縁起』によると、安房守平公雅が武蔵守に補任された天慶五年(942)、その祈願成就の御礼として建立された。
以来、数度の火災により炎上するも、その都度再建された。
鎌倉時代から江戸初期にかけては、あまり変化はなかったが、その後、徳川家光により再度の寄進建立が行われ、本堂と仁王門が慶安二年(1649)に落慶、元禄五年(1692)に京都の曼殊院門跡・良尚法親王ご染筆の「浅草寺」の扁額がかけられた。
その後、昭和二十年三月十日(1945)の戦災にて焼失。
現在の門は浅草寺の山門として、内部三層のうち上部二層に近代的防災設備を施した収蔵室を設け、浅草寺の什宝物収蔵の宝蔵門として大谷米太郎氏の寄進により復興再建された。
本堂 |
外陣天井飾「青龍」 |
現本堂は、鉄筋コンクリート、本瓦葺であり、昭和20年3月10日(1945)に惜しくも戦災で焼失した旧本堂(三代将軍徳川家光建立)と同形態である。
堂は南に面し、350坪の堂内は畳敷の内陣、コンクリート敷の外陣とに分けられている。
内陣中央には御宮殿がある。
御宮殿内には、秘仏本尊聖観世音菩薩、慈覚大師作の前立御本尊(12月13日開扉)の他、徳川家康、徳川家光、公遵法親王などの護持仏であった観音像が奉安されている。
御宮殿の左右には梵天・帝釈天の二天が祭られ、また本尊の脇侍としては内陣右奥に不動明王、左奥には愛染明王がまつられている。
影向堂 |
扁額「影向堂」 |
影向堂は本堂の左手に道を隔てて建っている。
影向堂は、観音さまのお説法やご活躍に不断に協力している仏さま方を「影向衆(ようごうしゅう)」と呼び、これらの仏さまを祀る堂である。
旧影向堂は、現淡島堂で二天門の脇にあった。
現在の堂は、平成六年(1994)、浅草寺中興開山慈覚大師円仁の生誕千二百年を記念して建立された。
鉄筋コンクリート寄棟造り、錣(しころ)屋根本瓦葺である。
内陣須弥壇中央に聖観世音菩薩、その左右に生れ年(干支)ごとの守り本尊八躰を祀る。
堂内には「浅草名所七福神」の内の大黒天も祀られ、また浅草寺の御朱印所も併設されている。
宝蔵門を潜った境内左手に聳えている。
五重塔 |
天慶五年(942)平公雅が本堂と共に建立したのを初めとして、その後数度倒壊、炎上に遭ったが、その都度再建された。
徳川三代将軍家光により本堂・仁王門などと共に建立された国宝五重塔は、太平洋戦争の戦火により、昭和二十年三月十日(1945)他の伽藍とともに焼失した。
戦後、本堂、雷門、宝蔵門と伽藍復興が行われ、五重塔院も牌殿・書院・他付属施設を備えた新様式にて再建された。
二天門 |
増長天像(左) |
持国天像(右) |
二天門は、元和四年(1618)浅草寺境内に造営された東照宮の随身門として建立された。豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)・櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)の二神を祭り、俗に「矢大神門」とも云われた。
寛永十九年(1642)東照宮は焼失し、その後の再建は許されずに「石橋(しゃっきょう)」(影向堂前)とこの門だけが残った。
明治時代の神仏分離の際、二神を廃し、鎌倉鶴岡八幡宮の経蔵にあった二天を奉安して「二天門」と改称したが、両像は戦時中、修理先で焼失。現在の二天像は、上野・寛永寺の巌有院(第4代将軍徳川家綱)霊廟より拝領したもの。
現在の門は、その形式と技法より、慶安二年(1649)頃に建立されたと云われている。
創建以来、補修・改築が加えられていたが、平成二十二年(2010)の落慶にあたって創建当初の形式に戻された。
日限地蔵堂(六角堂) |
日限地蔵堂(六角堂)は、木造単層・六角型瓦葺き造りの小堂(室町時代)だ。
浅草寺最古の建築物で、日限を定めて祈願すれば必ず霊験があるという本尊の「日限地蔵尊」を安置している。
1618年に建立された。室町時代の建造物というのは大変珍しく、都内23区の中でも現存する唯一のものである。
1994年、境内整備を理由に現在地へ移されるまでは、現在の影向堂辺りに位置していた。
それを示すように、今でも南基壇上には元位置の明記がある。
建物は木造の単層六角造り瓦葺き形式で、基礎は六角形状に廻した土台を布石の基礎で支え、下部には十一段の石積みをした井戸状の穴が掘られている。
また、戦災、震災にもあっていないという非常に貴重な建造物である。
浅草寺境内にある秩父三峯神社の末社。浅草寺内に勧請された事情は不詳。
江戸時代には火事が多かったため、江戸市中には火防祈願のための三峯講が多くあった。
こうした三峯信仰の信者が、秩父まで赴かなくても御参りが出来るようにするため、浅草寺境内に末社を勧請したものと思われる。
三峯神社の末社は、江戸市中あちこちにあったようだ。
魔除け・盗賊除け・火防・家内安全などの御利益があるという。
昭和三十九年(1964)再建の堂内に、四角い石塔の上に石の六地蔵尊をまつる。
享保年間(1716 - 1735)摂津国有馬郡の山口某の妻が、庭先で「寛永通宝」が詰まった壺を掘り当てたが、これに頼って働かずにいては家が滅びると思い、土中に埋め戻した。
この心掛けによって一家は繁栄したので、その壺の上に地蔵尊を祭ったという。
銭塚地蔵尊は、そのご分身を勧請したもので、商売繁昌を祈願する人が多い。
石塔の下には「寛永通宝」が埋められていると云われ、「銭塚」の名の由来となっている。
浅草寺は何時出向いても人が溢れており参道の仲見世通りの混雑は嫌になるほどだ。そんな訳で相変わらず本堂での参拝は忙しなく済ませてしまった。