事事関心! 仏閣探訪:
[ 東京都港区/芝増上寺 ]
東京都港区/芝増上寺            2019/05/12(日)更新
探訪案内

 芝増上寺は、JR山手線「浜松町」駅から西方へ約10分、都営地下鉄三田線「御成門」駅/「芝公園」駅からだと徒歩3分と近い東京タワー足元の芝公園にある。
 芝増上寺は浄土宗の七大本山の一つ。増上寺は酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって江戸貝塚(麹町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建された。 その後、文明二年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大いに寄与した。 天正十八年(1590)には関東の地を治めていた徳川家の菩提寺に選ばれ、慶長三年(1598)麹町から現在の芝の地に移転した。 江戸幕府の成立後には徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆した。
 太平洋戦争時の戦災により徳川将軍家霊廟は焼失し、焼失を免れた三門・経蔵・黒門などを含む境内は、昭和四十九年(1974)完成の大本堂とともに、近代的に整備され現在に至っている。

寺名: 三縁山 広度院 増上寺
宗派: 浄土宗 総本山
本尊: 阿弥陀如来・南無阿弥陀仏
創建: 明徳四年(1393)
開基: 酉誉聖聡上人
住所: 港区芝公園4-7-35
アクセス: JR山手線「浜松町」駅下車、北口より駅前の道を西へ500m。

【履歴】
・2019/05/12(日): 黒門、安国殿、増上寺会館、千躰子育地蔵尊の記述追加
・2012/12/24(月): 作成

浄土宗の総本山と七大本山
総本山:  知恩院(京都市東山区)
七大本山: 増上寺(東京都港区芝公園)        金戒光明寺(京都市左京区黒谷町)
     知恩寺(京都市左京区田中門前町)     清浄華院(京都市上京区寺町)
     善導寺(福岡県久留米市善導寺町)     光明寺(鎌倉市材木座)
     善光寺(長野県大字長野字元善町)
三門(三解脱門) 【重要文化財】

 JR山手線「浜松町」駅北口から西側へ向かって歩くと、直に国道15号線にでる。国道を横断し進むと大門があり、さらに進むとこの三門に突き当たる。


三門

釈迦三尊像と十六羅漢像

 増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、寺の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を「三解脱門」と云う。 徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和八年(1622)に再建された。 増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。
 三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。 建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。 唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せている。 二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。

黒門 

 日比谷通りに面した三門の南側にある。


黒門

 慶安年間(1648〜1652)三代将軍家光公の寄進・建立とされている。 御成門交差点付近の芝公園・みなと図書館・御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の表門だった旧方丈門である。 明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となった折り、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和五十五年(1980)に当山通用門として日比谷通り沿いに移築した。


大殿(本堂) 

 三門を潜ると広い境内が広がっており、約50mほど先正面に壮大な本堂が建っている。


大殿

扁額「増上寺」

阿弥陀如来坐像

 増上寺本堂は、廃仏毀釈の嵐が治まらない明治十年(1877)に放火されて焼け落ちた。 その後再建されたが、昭和二十年の空襲で再び焼損した。 今の鉄筋コンクリート製の大殿(本堂)は昭和四十九年(1974)に浄土宗開宗八百年の記念事業として再建された。

安国殿 


安国殿

阿弥陀如来立像

 戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、昭和四十九年(1974)、新大殿完成の折りに境内北側に移転し、御堂「安国殿」とした。 老朽化のため、平成二十三年(2011)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として徳川家康公が成し遂げた"天下泰平の世(安らかな国づくり)"を願い、新しい安国殿が建立された。 本堂中央に本尊である、恵心僧都の作と伝えられる秘仏「黒本尊」(御開帳・黒本尊祈願会、正月・5月・9月の15日)は、家康公が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け、戦の勝利を得たという霊験あらたかな阿弥陀如来像で、勝運・厄除けの仏様として江戸時代以来、広く人々の尊崇をあつめている。 また、御前立の阿弥陀如来立像、脇陣には家康公肖像画、徳川家御歴代並びに御一門の尊霊の御位牌、皇女和宮さまの等身大の御像等が祀られており、安国殿は当山の祈願所として親しまれている。

増上寺会館(寺務所) 



 昭和三十六年(1961)に竣工した増上寺会館の老朽化に伴い、法然上人八百年御忌に向けた境内整備事業の一環として、平成十一年(1999)に建立された。
 東棟・中棟・西棟の3棟からなる会館で、寺務所機能のほか、大食堂等がある。


鐘楼堂と釣鐘 

 三門を潜り本堂を正面にして右手に鐘楼堂が建っている。


鐘楼堂

梵鐘/鋳造年延宝元年(1673)

 「鐘楼堂」の鐘は江戸時代の川柳に「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」と謳われた江戸三大名鐘の一つ。 朝と夕方、二回の鐘の音は時を告げるだけでなく、人を惑わす百八の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く六度の誘いもあるそうだ。
 この鐘は四代将軍家綱の命により江戸で始めて鋳造した関東一の梵鐘で、遠く千葉の木更津まで響いたと云われ江戸庶民に親しまれていたそうだ。 

圓光大師堂 

景光殿表門

圓光大師堂

景光殿表門:
 桟瓦葺の屋根を持つ一間一戸の四脚門(平唐門形式)。一時期、明治42年(1909)の火災により移転した護国殿の中雀門として、三解脱門を入った左手に立地していた。現在地には昭和53年(1978)に移築された。 正面の蟇股には表裏両面に三葉葵紋、側面の蟇股には内側のみに葵紋が彫られ、外側は板状となっている。 また、鬼瓦と留蓋瓦にも葵紋が付されている。 虹梁絵様の形は十七世紀末から十八世紀前記の特徴を示し、増上寺水盤舎(清揚院霊廟から移築)のものに類似している。
圓光大師堂:
 宗祖法然上人八百年御忌を記念し平成18年11月25日(2006)智恩院より法然上人の御廟の御浄砂を拝領。成田台下はこの御浄砂を御身柄と命名、この法縁を承け奉安する御堂の建立を発願し平成21年9月に竣工した。身体と心を養う念仏道場として公開されている。

舎利殿(大納骨堂) 

 徳川将軍家墓所の左手の石階段を上るとその奥に舎利殿が佇んでいる。


狛犬(吽)

舎利殿

狛犬(阿)

 大納骨堂は昭和八年(1933)に建立され、戦災の難を逃れた数少ない建造物の一つ。 本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像とのこと。 昭和五十五年(1980)に現在地に遷座、開眼供養が厳修された。 寺に有縁無縁の本骨、分骨が収められ、永久に祀られている。


徳川将軍家墓所 

 本堂の裏手に回ると徳川将軍家墓所がある。


 

四菩薩

 現在の霊廟入り口の鋳抜門は、六代将軍家宣の宝塔の直前にあった門と云われている。 青銅製のため、戦災で焼け残った。
 本寺に埋葬されているのは、2代秀忠、5代将軍兄弟の綱重、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍の他、女性では将軍正室として2代秀忠夫人崇源院、6代家宣夫人天英院、11代家斉夫人広大院、13代家定夫人天親院、14代家茂夫人静寛院の5人、将軍の側室としては3代家光の桂昌院、6代家宣の月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人とのこと。
 徳川家墓所の前には右から「普賢菩薩」、「地蔵菩薩」、「虚空蔵菩薩」、「文殊菩薩」の四菩薩像が佇んでいる。 もとはこの場所の西北、地蔵山に安置されていた鎌倉時代の正嘉二年(1285)に作られた由緒ある仏像とのこと。

貞恭庵と清浄観世音菩薩像 

 徳川将軍家墓所から左手に進むと貞恭庵が佇んでいる。


貞恭庵(和宮茶室)

清浄観世音菩薩

 貞恭庵は幕末の皇武合体の犠牲者として有名な十四代徳川家茂正室皇女「和宮」ゆかりの茶室(昭和五十五年(1980)現在地に移築改修)で、宮様の遺品であるご愛用の琴、手紙、漢詩の書作品などが残されている。
 貞恭庵の脇には清浄観世音菩薩像がある。


熊野(ゆや)神社 

 熊野神社は鐘楼堂のさらに右手に鎮座している。


鳥居

社殿

 元和十年(1624) 当寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したもの。 『熊野』は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称があるが、この神社は「ユヤ」権現として親しまれている。


千躰子育地蔵尊 


 子供の健康と成長を願って祀られてるお地蔵さん、赤いニット帽と風車が色鮮やか。
 「千躰子育地蔵尊」とのことだが、その数はゆうに千体を超えているとのことだ。


その他

 増上寺の周りは芝公園になっており、東京タワー、芝東照宮など見所も多い。子院や別院なども多く散在しているので巡ってみるのもいいだろう。


関連コンテンツ

inserted by FC2 system