神奈川県厚木市にある神社を探訪した。
NO. | 神社名 | 住所 | 拝観期日 | 備考 |
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01 | 船喜多神社 | 厚木市松枝1-13〜19 | 2016/08/25 | |
02 | 大鷲神社 | 厚木市中町1-8-17 | 2016/08/25 | |
03 | 厚木神社 | 厚木市厚木町3-8 | 2016/08/25 | |
04 | 熊野神社 | 厚木市旭町3-14 | 2016/08/25 | |
05 | 智音神社 | 厚木市旭町2 | 2016/08/25 | |
06 | 金刀比羅宮 | 厚木市旭町3-9 | 2016/08/25 | |
07 | 三嶋神社 | 厚木市岡田1390 | 2016/08/25 |
・2016/08/27(土): 掲載。
小田急本線「本厚木」駅で下車。北口より駅前の交叉点を渡り大通りを北西に一街区進み、「中町3丁目」交差点で右手に折れ北上する。 途中左手に中央公園を見ながら進むと丁字路にぶつかるが、ぶつかった道路の向かい側左手に鎮座している。
鳥居(八幡鳥居) |
社殿 |
神額「船喜多大明神」 |
古代、この地方を船喜田郷(後に船田郷)と称された頃郷中の鎮守社として「船喜田明神社」は勧請された。
以来、この地方が厚木郷と称されるようになった後も郷民崇敬厚く八百余年の歴史を伝承している。
江戸時代に入ると牛頭天王社・熊の大権現と共に厚木村の鎮守となり「船喜田明神社」はその総鎮守社であった。
当社の本地仏は薬師如来にして別当(厚木山)東光寺の支配下にあった。
明治六年、明治政府の神仏分離例により厚木町の三社を合祀して郷社「厚木神社」が創建されると当「船喜田明神社」は廃社となった。
その後、明治二十三年九月に厚木町より神奈川県知事へ神社復旧願いが提出され、明治二十五年になり本殿が再建・新築された。
祭神は大己貴命。
小田急本線「本厚木」駅で下車。東口より線路沿いの道を新宿方向へ250mほど進み、線路下を潜る十字路で左折し北へ150mほど進むと左手に鎮座している。
鳥居(明神鳥居) |
神額「」 |
社殿 |
当初は屋敷神だったこの社は、近隣からの参拝客が次第に増え、明治中期に浅草にならって始まった。
開運、商売繁盛のご利益があるといわれている。
「今昔あつぎの花街」(飯田 孝著)によると、「大正五年(1916)11月の天王裏町(現中町1丁目)大鷲神社酉の市は、好景気の余波を受けて夜の12時まで「非常の雑踏」を極めた。
酉の市で売る縁起物の熊手は、客も金もかき取るといわれて花柳界で人気があった。」そうだ。
社殿は昭和二十八年の再建と云う。
小田急本線「本厚木」駅で下車。東口より線路沿いの道を新宿方向へ350mほど進み、大きな道路に突き当たったら左折し北へ150mほど進むと右手に鎮座している。
鳥居(明神鳥居) |
社殿 |
神額「」 |
牛頭天王社は厚木村の鎮守で、明治六年熊野神社(旭町)、船喜多神社(松枝)を合祀し厚木神社となった。
牛頭天王社の創始は不詳(天延年間(973〜)に摂政職藤原伊尹(これただ)により怨霊を慰撫するために勧請されたと伝わる。)。
祭神は、健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、五十猛命(いたけるのみこと)、奇稲田比売命 (くしいなだひめのみこと)、
予母津事解男命(よもつことさかのおのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、大名牟遅命(おおなむじのみこと)。
厚木稲荷神社は、安永六年(1777)伏見稲荷大社の分社を勧請したが場所は不詳。昭和八年に再建。
小田急本線「本厚木」駅で下車。南口より正面左手の道を東へ向かう。丁字路にぶつかったら右折し南へ200mほど進むと右手に鎮座している。
鳥居(靖国鳥居) |
社殿 |
御神木(公孫樹) |
かつては下厚木村の鎮守だったが、明治六年(1873)に「舟喜田社」と共に「牛頭天王社」に合祀され「厚木神社」となり廃社となった。しかしその後、明治中期頃に旭町の地に疫病が流行した時に再び今の社地に勧請された。
神社境内は明治から大正の頃には広大にして鬱蒼と大木が繁り「熊野森」と呼ばれていたが、大正末年に御神木の銀杏を一本残し全べて伐採されてしまった。この銀杏の木は推定樹齢500年で厚木市指定天然記念物に指定されている。
神社のある処は旧矢倉沢往還沿いで、昔は厚木宿の中心地であった。
そのため、天保二年(1831)に渡辺崋山も訪れた記録が残っている。
木造流れ造りの向拝殿付社殿(間口2間、奥行2間)は昭和四十二年(1967)に再建され、その後屋根は昭和五十年(1975)の夏に銅板葺に改修された。
小田急本線「本厚木」駅で下車。南口より正面左手の道を東へ向かう。丁字路にぶつかったら右折し南へ300mほど進み、右手の路地に入ると正面100mほど奥に鎮座している。
境内入口 |
社殿 |
神額「智音神社」 |
那須与一のお墓があると伝えられる。屋島の合戦の後、鎌倉に引き上げてから与一が目の病にかかった時、 厚木の天王森に祭られた薬師如来が眼病に効くと伝え聞き、祈願を行うと完治した。 その礼として智音寺を建立したとされる。
小田急本線「本厚木」駅で下車。南口より正面左手の道を東へ向かう。丁字路にぶつかったら右折し南へ100mほど進み、右手に最勝寺を望む道路左手の路地に折れ進むと約50mほど先に鎮座している。
鳥居() |
社殿 |
神額「金刀比羅宮」 |
小田急本線「本厚木」駅で下車。南口より正面左手の道を東へ向かう。丁字路にぶつかったら右折し南へ600mほど進み、ソニー厚木テクノロジーセンタ前で左手に分かれる道に折れる。 ここから更に1kmほど進むと東名高速にぶつかるがその手前30mほど手前の左手脇道に折れるとすぐ左手に鎮座している。
鳥居(明神鳥居) |
社殿 |
神額「三嶋神社」 |
元禄四年(1691)の銘のある鐘があったが大東亜戦争で供出、その鐘には伊豆の三島神社を勧請したとかかれていたと云う。
岡田村の総鎮守。村社。社殿は、大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊したため、その後に今の社殿が造つくられた。
祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)。
神額「三嶋神社」は文政四年(1821)烏山藩主大久保佐渡守忠の成書と云う。
天神社 |
水神社 |
坊西稲荷 |
道祖神 |
境内社に、水神社、坊西稲荷、弁財天、他がある。
坊西稲荷は、享和三年に岡田坊西地区に建立され、昭和二年に岡田境田百二番地に通称「坊西稲荷」として保存され、地域の人々に信仰されていたもの。
昭和六十年に区画整理事業により三嶋神社境地に老朽化のため再建したものとのこと。