事事関心!
[ 神社巡り(伊勢原市) ]
神社巡り: 伊勢原市  2013/11/05(火) 新規
コース案内

 伊勢原市は二十年ほど前に家族で大山阿夫利神社へ行っただけ。当然のことだが、阿夫利神社に関連する二つ三つの情景しか思い出せない。 そんなわけで、相模国府祭六社の一つ三之宮比々多神社と大山阿夫利神社とに参拝しようと、「丹沢・大山フリー切符A」で出かけた。
 今回のルートは、以下の行程だ。
■「伊勢原駅北口」バス停 →(バス14分)→ 「比々多神社」バス停 →(徒歩1分)→ 比々多神社
 →(徒歩15分)→ 「道灌塚前」バス停 →(バス18分)→ 「大山ケーブル」バス停 →
 →(徒歩15分、ケーブルカー6分)→ 阿夫利神社下社 →(ケーブルカー2分)→ 大山寺
 →(ケーブルカー2分、徒歩15分)→ 「大山ケーブル」バス停 →(バス)→ 「大神宮前」バス停 →
 →(徒歩0分)→ 伊勢原大神宮 →(徒歩10分)→ 十二柱神社 →(徒歩10分)→ ■伊勢原駅北口

NO.神社名住所拝観期日備考
 01 三之宮比々多神社 伊勢原市三ノ宮1472 2013/10/31
 02 大山阿夫利神社下社 伊勢原市大山355 2013/10/31
 03 伊勢原大神宮 伊勢原市伊勢原3-8-1 2013/10/31
 04 十二柱神社 伊勢原市伊勢原3-27-27 2013/10/31
 05

・2013/11/05(火): 10/31(木)探訪


三之宮 比々多神社 伊勢原市三ノ宮1472

 小田急線「伊勢原」駅下車。神奈中バス北口1番乗場より「栗原行」に乗り、「比々多神社前」バス停で下車(バス15分)すぐ。


鳥居

拝殿

神額

 神武天皇六年、国土創建の神を祀り国土安泰を祈ったのが創祀とされている。 崇神天皇の御代神地神戸を奉られ大化元年(645)社殿修復の際、木彫の狛犬一対(【市重要文化財】)を奉納、又此年に酒解神を合祀、うずら瓶(【県重要文化財】)を納められた。 天平十五年(743)大宮司に竹内宿禰の後孫紀朝臣益麿を迎えて初代宮司に任命勅して荘園を賜った。 鎌倉時代に入り将軍源頼朝が文治元年(1185)に国土安泰の御願書を奉納、建久三年(1192)には妻政子の安産を祈り神馬を奉納した。 南北朝室町時代に戦さに巻込まれ神領の大半を失い衰退したが、徳川時代当社が相模国の名社であることを知った家康公より新に社領を寄進された。


神輿1

神輿2

神輿3

古墳


『三之宮三号墳』
東名高速道路建設によって発掘調査され、後方左側にある敷石住居および環状列石(ストーンサークル)とともに移設・復元されたもの。


大山阿夫利神社下社 伊勢原市大山355

 比々多神社を後にし大山へ行くバス路線の「道灌塚前」バス停へ向かう。神社の南東側を望むと東名高速が奔っており、その高速道路に沿う一車線の道を東京方向へ歩く。  三つ目の東名高速下を横切る道まで歩いたら、左折して100mほど行くと阿夫利神社の二の鳥居が建っている。 「道灌塚前」バス停はさらに150mほど先だ。バス停から乗車し、終点の「大山ケーブル」バス停で下車する。
 こま参道(約500m)を経てケーブル駅からケーブルカーで「下社」駅まで行くとすぐだ。


一の鳥居(伊勢原駅北口)

二の鳥居(「道灌塚前」バス停手前)

 大山阿夫利神社の鳥居は、伊勢原駅北口に一の鳥居、山王原に二の鳥居、這子坂の先には三の鳥居があり、さらに下社境内入口には四の鳥居がある。
 藤沢宿からの大山詣りに通う、田村通り大山道の起点にある神奈川県藤沢市四ツ谷にも「一の鳥居」がある。伊勢原駅北口の一の鳥居は観光用に建てられたものだろう。
 二の鳥居は田村通り大山道に嘉永4年(1851)建立されたが、関東大震災で倒壊し昭和3年に再建、平成3年に現在の鳥居に再建されたとされている。
 這子坂の先にある三の鳥居は江戸火消し「せ組」により建立され、「せ組の鳥居」とも言われている。これより上が門前町で、この先の二つ橋には高札場があった。



拝殿

神額

 大山は、またの名を「雨降(あふり)山」という。"あふり"の名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすのでこの名が起ったといわれる。 標高は、1251.7mで、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっている。
 阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心の拠り所となり、国御岳(国の護りの山)・神の山として崇められてきた。 山野の幸を司る水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいる。 山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代(紀元前約1000年頃)の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っている。
 社伝には崇神天皇の御代の創建とあり、延喜式では「阿夫利神社」と記載されている。 中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けていた。
 祭神は、大山祗大神(おおやまつみのかみ)、高淤加美神(たかおかみのかみ)、大雷神(おおいかづちのかみ)である。


浅間社

大山名水

登拝門(片開き)

常夜燈

 浅間社(摂社)には大山祗大神の娘神、木花咲耶姫命(サクヤヒメ命・妹)と磐長姫命(イワナガヒメ命・姉)が祀られている。
 拝殿地下に大山名水「神泉」がある。浄き明き直き象徴する神の恵の泉で湧き出る水は、山内只一ヶ所の貴重な水源より引水したものとのこと。
 大山は、古くより霊験あらたかな神体山として崇敬を集める山だったため、明治初年の神仏分離までは、この登拝門は夏の山開き大祭(7月27日〜8月17日)期間以外は固く閉ざされ、山頂への登拝は禁止されていた。 登拝門の鍵は遠く元禄時代より、280年に及ぶ長い間、大山三大講社の一つである東京日本橋のお花講が保管し、毎年7月27日の夏開きの際、お花講の手により扉を開く慣例となっていた。 登拝門は、現在では片扉のみ年間を通して開かれている。


伊勢原大神宮 伊勢原市伊勢原3-8-1

 大山からの帰りのバスを駅の二つ手前のバス停「大神宮前」で下車する。すぐ前が神社だ。


鳥居

外宮

内宮

 創建は、江戸時代初期の元和年間(1615-1624)のことであると伝えられている。 元和六年(1620)伊勢の国の山田曾右衛門と鎌倉の湯浅清左衛門は、大山参詣の途中、千手原という松原に一夜の宿を求めたところ、水音を聞いて開墾可能であることを悟り、当時このあたりを支配していた中原代官成瀬五左衛門の許可を得て、開墾に着手したと云う。 そこにだんだんと粕屋あたりより人が集まり、現在の伊勢原市街の基礎が形成された。 曾右衛門は、この新しい開拓地の鎮守として、故郷である伊勢の神宮の神様を勧請し、奉斎することにした。 こうして創建された社の御祭神に由来して当地は伊勢原と呼ばれるようになったと云う。
 伊勢の神宮では、天照大御神が内宮に、豊受姫大神が外宮に、それぞれ奉斎されている。当社もこれにならい両宮が別々に奉斎されている。全国でも珍しい社殿構造は、江戸時代に編纂された「新編相模風土記稿」にもみられ、創建以来の伝統として現在も受け継がれている。 境内には神宮遥拝所が設けられており、当地より伊勢神宮のお詣りができる。


十二柱(とうふたはしら)神社 伊勢原市伊勢原3-27-27

 大神宮を後にして南側脇口から出て国道246号線に向かう。国道に出たら東京方向に進むと国道沿いに消防署がある。署の先2つ目の脇道で右折し、しばらく行くと正面にある。


鳥居

社殿

鐘楼

 古来十二天宮、又鎮守十二柱と称し、特に武門武将の厚き崇敬を受けた神社で、徳川時代公儀より免田(十二天面、御供免)を寄進され、年々初穂米を献ぜられ武運長久を祈ったと云う。
 嘉永年間(1848〜1854)本殿以下拝殿幣殿の再建に当り、当地の地頭であった安藤・飯河の両所より御造営費を献じ武運長久を祈った。
 祭神は天御中主神・高皇産火神・神皇産火神・角織神・宇比地邇神・宇麻志葦彦神・大斗地神・面足神・天之底立神・国底立神・伊邪那岐神・伊邪那美神。


あとがき 

 今回、残念ながら時間の都合で「伊勢原駅−大山ケーブル」間に点在する幾つかの神社へは行けなかった。もともと一日で伊勢原市内の神社探訪は難しいようだ。

inserted by FC2 system