事事関心! 神社探訪
[ 神奈川県鎌倉市西部 ]
神奈川県鎌倉市西部            2019/12/05(木)更新
はじめに

 JR鎌倉駅の西側(鎌倉市西部)を数回に分けて訪ねて参拝した神社をまとめている。

【履歴】
・2019/12/05(木): 巽神社、八坂大神、刀稲荷を追加
・2013/02/XX(火): 更新
・2012/03/13(火): 更新

御成諏訪神社 鎌倉市御成町17-31

 JR鎌倉駅西口から市役所通りを西へと向かう。市役所と道を挟んだ御成トンネル手前右手にある。


鳥居


 この諏訪神社は諏訪盛重邸内にあった諏訪池と呼ばれる池の東側に置かれていた守護神(諏訪神社)が移されたものとのこと。祭神は建御名方神である。


巽神社(たつみじんじゃ) 鎌倉市扇ガ谷1-9-7

 JR「鎌倉」駅西口を出て真っすぐ行くと市役所前交差点で「今大路」道にぶつかる。 この路を右折し、しばらく行くと右手に鎮座している。




 巽神社は、延暦二十年(801)蝦夷征伐に向う途中の坂上田村麻呂が葛原岡に勧請、永承四年(1049)に源頼義が改築したと伝えられている。壽福寺の南東(巽)に位置することから壽福寺の鎮守として崇められ、「巽荒神」と呼ばれていたと云う。
 祭神は奥津日子神(カマドを司る神)他二神で、竈の神火の神として御神徳あらたかな神様だ。

八坂大神 鎌倉市扇ガ谷1-13-45

 寿福寺に隣接して建っている。




 八坂大神は、建久三年(1192)千葉常胤の子相馬次郎師常が自宅の守護神として勧請したと云われている。相馬天王とも通称されている。
 その後、浄光明寺裏山にある網引地蔵付近の岩窟へ、続いて寿福寺本堂脇への移転を経て、当地へ移転している。明治維新の神仏分離令により八坂大神と改称された。

刀稲荷(やきばいなり) 鎌倉市扇ガ谷1-13

 JR「鎌倉」駅西口から北へ徒歩10分弱。




 案内板には「正宗稲荷」とある。「刃稲荷」は、鎌倉時代の刀匠正宗(五郎入道正宗)の屋敷に祀られていた稲荷社だ。
 正宗は、五郎入道正宗、岡崎正宗、岡崎五郎入道ともいわれ、鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて鎌倉に住み、刀鍛冶として活躍した。父は藤三郎行光。相州伝を完成し、名刀鍛冶と言われた。その正宗が屋敷内に勧進したと伝えられる。
 石碑が立っており、「稲荷社 正宗屋敷 焼刃渡」とある。天明二年(1782)九月に、荒廃していたお稲荷様を江戸浅草伊豆屋が再建したものである。その台石には「当所雪下町 松尾瀧右衛門・・・」とある。この人は六地蔵のところに松尾芭蕉の句碑を建てた松尾百遊である。 昔、祠には正宗が鍛えた刀が納めてあったといわれているが今はない。

佐助稲荷神社 鎌倉市佐助2-22-12



佐助稲荷神社分かれ道(左へ折れる)

 御成トンネルを抜け、最初の交差点「佐助1丁目」で右折する。左手に佐助川を観ながら約300mほど進むと佐助稲荷神社と銭洗弁財天との分かれ道だ。 分かれ道の角に道標が2つ立っている。左手に「銭洗弁財天」、右手に「佐助稲荷神社」の石柱だ。しかし、道は左が佐助稲荷神社への参道と逆だ。確認して左折し、200mほど歩いていくと、突き当りに佐助稲荷神社があった。


下社

上社

本社

 銭洗弁財天同様に、佐助稲荷神社も源頼朝が夢の中で見たお告げに由来する。
 源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島にいる時、夢の中で神霊である翁(宇迦御魂命)が頼朝に旗揚げを薦めた。 源頼朝はそれに従い冶永四年(1180)8月17日に挙兵し、平家討伐を果たした。 頼朝は幕府を開き、お礼として畠山重忠に命じ建久年間(1190-1198)に、ここを霊地と定めて稲荷の社殿を造営させた。 幼少のころ「左殿」と呼ばれていた頼朝を助けたため「佐助」と名付けられたと云う。

葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ) 鎌倉市山ノ内1157

 銭洗弁財天の東参道から七曲り坂を上り源氏山公園へ。尾根伝いに左手に行くと神社だ。


鳥居

社殿

日野俊基の墓

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基(ひのとしもと)卿を祀っている。 俊基卿自身は、その目で『建武の中興』を見ることなく、悲劇のご最期を遂げたが、明治天皇は俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、明治十七年勅旨をもって従三位を追贈され、同二十年に最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって社殿を造営された。

銭洗弁財天宇賀福神社 鎌倉市佐助2-25-16

 御成トンネルを抜け、最初の交差点「佐助1丁目」で右折する。 左手に佐助川を観ながら約300mほど進むと佐助稲荷神社と銭洗弁財天との分かれ道だ。 真っ直ぐに進むと200m程で銭洗弁財天だ。


参道入り口

本宮

洞窟内(奥宮)

洞窟内(ヘビ像)

 源頼朝が、文治元年(1185)巳の年、巳の月、巳の日、夢の中に宇賀福神が現われ、『この水を汲み神仏を供養すれば天下は平和に栄えるであろう』とお告げを受けたので、早速この地に祀ったと云われている。その後、北条時頼がこの霊水で銭を洗い、一家繁栄を祈ったのが今日の銭洗信仰の始まりだそうだ。
 宇賀福神は、蛇の体に人の頭を持つ水の神(穀物の神、福の神とも云われる)で、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来する。その後、仏教の弁才天と習合したため宇賀弁才天とも云う。 なお、ここの湧き水(銭洗水)は、鎌倉五名水の一つに数えられている。


境内社: 上之水神社

境内社: 下之水神社

境内社: 七福神社

 社務所右手奥に豊富な推量の出る湧水のある上之水神社がある。 そしてその右手下には、水量が豊かな滝と池とがあり、池の中央に架けられた朱塗りの橋の先の崖下に下之水神社が祭られている。 上之水神社の祭神は水波売神(みずはのめのかみ)で、古来水の所縁のある処に祭られている。宇賀福神社神泉の水口(みなくち)の守護神である。
 さらに池の右側には七福神社がある。 祭神は古来代表的な福神として広く親しまれている大黒天・恵比寿・毘沙門・弁才天・布袋・福禄寿・老人の七福を祭る。神仏混淆時代の形を留めているが福徳円満商売繁盛のご利益があるそうだ。

浅間神社 鎌倉市長谷5-11

 JR鎌倉駅西口から市役所通りを西へと向かう。 御成トンネルを抜け、更に「長谷大谷戸」交差点まで進み、ここで左折し南へ向かう。100mほど進むと右手に参道がある。(徒歩約20分)
 境内左手の山道は裏大仏ハイキングコースへと続いている。


鳥居

社殿

 淺間神社は天保年間の創立で、大佛坂上附近の祭神である。近年長らく荒廃ていたが大正四年に新たに現在地に再建された。


甘縄神明神社 鎌倉市長谷1-12-1

 江ノ島電鉄「長谷」駅にて下車、大仏通りを北上し「長谷観音前」交差点で右折する。 150mほど先左手の参道に入ると150mほど先正面山裾に鎮座している。


鳥居

拝殿

神額

 甘縄神明神社は、和銅三年(710)僧行基の草創で、由比の長者と呼ばれた染屋時忠が神明宮と神輿山円徳寺を建立したのがその始まりと伝えられ、鎌倉最古の神社と云われている。
 源頼義が祈願して子の八幡太郎義家を授かったと伝えられる源氏と縁の深い神社でもある。 頼義や義家は、社殿を修復したと伝えられ、源頼朝も社殿を修理し、荒垣や鳥居を建てたと伝わっている。
源実朝、北条政子も参詣した。
 『新編相模国風土記稿』に、「神明宮」は「甘縄明神」と唱えられ、臨済宗甘縄院が別当を勤めていたとある。


本殿

秋葉社

五社明神

 明治の神仏分離により甘縄院は廃絶し、その後五社明神社が合祀され、昭和に入って"甘縄神明神社"と改称された。



手水舎

北条時宗産湯の井


 宝物に源義家坐像があり、八代執権北条時宗の「産湯ノ井」が残されている。


御霊神社 鎌倉市坂の下1-4

 江ノ島電鉄「長谷」駅で下車、江ノ電の線路を越え大仏通りを海へ向かい、丁字路にぶつかったら右折し極楽寺方向へ進む。 200mほど先右手に「力餅屋」があるので、その手前の路地に入ると150mほど先、江ノ電線路を隔てて鎮座している。(徒歩5分)


表参道鳥居(明神鳥居型)

社殿

裏参道鳥居(靖国鳥居型)

 創建は平安時代後期。
 当初は関東平氏の祖霊(大葉、梶原、長尾、村岡、鎌倉の五家)を奉祀していたが、鎌倉権五郎景政の武勇が名高く、景政の一柱だけを祀るようになり、"権五郎様"と俗称され、"五霊"から"御霊"に改められた。
 景政公は桓武天皇の末裔。平氏の一門で当時の鎌倉権之寺。景政公が15歳の初陣で挙げた勇名と開拓領主の志はその後800年続く武家社会にあって武士の鑑と尊ばれた。


境内社: 金毘羅社

境内社: 石上神社

鎌倉七福神/

 境内社として、稲荷神社、秋葉神社、祖霊社、第六天社、地神社、石上神社、御嶽神社、金毘羅社がある。



袂石、手玉石

御霊神社-神輿

石上神社-神輿

 袂石、手玉石は、鎌倉権五郎景政が手玉に取り、袂に入れていたと伝えられている。


熊野新宮 鎌倉市極楽寺2-7-18

 江ノ島電鉄「極楽寺」駅で下車、駅を出て駅前の道を左手・長谷方向へ進み、丁字路で線路を超えて導地蔵堂の前を通り少し歩くと右手の最初の脇道があり、角に熊野神社の標石が建っている。 此処で右折し進むと、150mほど先、道の正面に鎮座している。




小動神社 鎌倉市腰越2ー9ー12

 江ノ島電鉄「腰越」駅にて下車、海の方向へ進み国道134号線に出て、道路の反対側へ渡り鎌倉方向へ向かう。 50mほど進むと右手に鎮座している。


一の鳥居

二の鳥居

 文治年中(1185)、佐々木盛綱の創建と伝えられる。
 吾妻鏡によれば、盛綱は寿永三年十二月(1184)、源範頼の軍に従い平家追討の際、備前の国児島において霊験を得て僅か六騎にて平行盛を追伐し無事鎌倉に凱旋した。 盛綱は神恩報賽のため守護神である父祖伝来の領国、近江の八王子宮を新たに勧請すべくその地を探がしもとめていたが、ある日江ノ島弁財天に参詣の途次、小動山に登り大いにその風光を賞せられ勧請の地と定められた。 相模風土記によれば八王子宮縁起をひき、「文治年中佐々木盛綱当山に詣で、老松の辺りに到るに、この松平日風なきに枝葉靡き動く、その妙音琴瑟の如し、天女遊戯の霊木なり。」とあり、この霊地を神域として八王子宮を勧請したのが始まりと云う。


拝殿

神額「小動神社」

扁額「三神社」

 元弘三年五月(1333)、新田義貞は北条氏討伐のため鎌倉攻めの際、当社に戦勝祈願をされ、後に報賽として剣一振に黄金を添えて寄進され社殿が新たに再興された。 八王子宮縁起によれば、新田義貞を中興の祖と称している。
 江戸時代、小田原城主大久保忠真公(11万3千石)は「三神社」の扁額を揮毫し奉納された。 三神社とは三柱の祭神を尊称したものである。 明治維新にあたり社名を小動神社と改称し、明治六年十二月、村社に列格された。 明治四十二年、当所字神戸の鎮守であった諏訪社を合祀し、昭和十三年七月、神饌幣帛料供進神社に昇格した。 昭和二十八年十一月、宗教法人に登録され、神社本庁に所属し現在に至る。


手水舎



諏訪社(諏訪仮宮) 鎌倉市腰越2-17-3


鳥居

社殿

 諏訪社は明治時代までは神戸の鎮守であった。明治四十二年(1909)小動神社に合祀された。 なお、現在の社殿は皇太子殿下成婚祝賀で平成六年(1994)に建てられた。祭神は建御名方神である。 かつては東漸寺境内に鎮座していたようだ。


龍口明神社元宮 鎌倉市津1

 江ノ島電鉄「江ノ島」駅で下車。東へ進み県道467号線に出て更に東へ50mほど進むと交差点の左手にある。


鳥居

社殿

 創建は欽明天皇十三年(552)と伝えられている。 昔、深沢と云う湖水に五つの頭を持つ悪龍が住んでおり人々を苦しめていたが、欽明天皇十三年雲上から天女が現れ、海中からはたちまち島が出現しこの島に降り立った。 悪龍はこの天女の教化を受け改心し悪行を止め天女と夫婦となったと云う。 龍口明神社はこの五頭の龍を祀ったのが始まりと伝えられている。
 龍口明神社は津・腰越の鎮守であるが、この地は藤沢市片瀬にある鎌倉市津の飛地のため昭和五十三年に腰越1548-4に遷された。

子守神社 鎌倉市笛田5-34-6

 JR横須賀線「鎌倉」駅下車、東口正面のバス発着所6番乗場から江ノ島行に乗り、約10分ほどの「火ノ見下」バス停で降りる。 少し先の左手脇道に入り道なりに山側へ150mほど進むと山際に鎮座している。




 苗田打越地区の鎮守。 古くより現在地に鎮座し、俗称「山の神」又は「産土」「子守神」として崇敬されてきた"蔵王権現社"が祀られ、仏行寺によって管理されていた。昭和二十一年に「子守神社」に改称された。
 祭神は子守之大神、玉依姫命。


常盤八雲神社 鎌倉市常盤534

 JR横須賀線「鎌倉」駅下車、東口正面のバス発着所6番乗場から江ノ島行に乗り、約10分ほどの「火ノ見下」バス停で降りる。 少し先の右手の脇道に入り市役所通りにでると道路向かい側の山際に鎮座している。




 平安時代後期、この地は源頼朝の鎌倉創成に多大な貢献を果たし梶原景時が治めていた。 八雲神社はちょうど源頼朝の挙兵、治承・寿永の乱の頃に創建された。
 また、伝説としてこのような起こりも由緒とされている。
 「昔、梶原にあった加護社のご祭神が大雨で流された。 それを見つけた農民が山に祀り麦飯を供えたのが起こりというものである。 参拝の時、“常盤の天王麦天王竹の子ひしゃくで水かけろ”と唱えるしきたりがあるのはこの伝説による」
 慶長年間(1596−1617)、この村の矢澤与左衛門光広が熊野社を勧請して八雲神社に合祀した。 明治時代になり、御嶽神社、諏訪神社の両社も合祀されたと云う。
 祭神は素盞嗚命、速玉之男命、伊弉冉命である。

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