今回(2014/10/29)は京急の「三浦半島1DAY切符」を使って三崎港と城ケ島を探訪した。 三浦市は三浦半島の先端にあり、鉄道の駅は京急の終点「三崎口」駅と「三浦海岸」駅のみだ。 そのため、市内の移動ではバスの利用が欠かせないので、乗り降り自由の一日パスは大変有用だった。
NO. | 神社名 | 住所 | 拝観期日 | 備考 |
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01 | 海南神社 | 三浦市三崎4ー12ー11 | 2014/10/29 | 「三崎港」バス停 |
02 | 本宮神社 | 三浦市三崎3 | 2014/10/29 | 「三崎港」バス停 |
03 | 諏訪神社 | 三浦市向ヶ崎町3-1 | 2014/10/29 | 「北条」バス停 |
04 | 山王日枝神社 | 三浦市晴海町 | 2014/10/29 | 「城ケ島大橋」バス停 |
05 | 海南神社 | 三浦市三崎町城ケ島408 | 2014/10/29 | 「白秋碑前」バス停 |
【履歴】
・2014/11/02(日): 10/29(水)に三崎港周辺、城ケ島を探訪
京急「三崎口」駅から「城ケ島行」のバスに乗り、「三崎港」バス停で降りる。「三崎口駅行」バス待合所の前を通り、突き当り右手の北方向に延びる路に入り進むと100mほど先突き当りに鎮座している。
鳥居 |
拝殿(権現造) |
神額「海南神社」 |
清和天皇の治世、皇位継承争いに絡んで讒訴を蒙り左遷された藤原資盈が貞観六年(864)、任地の筑紫国へ赴く途中で暴風によって三浦半島に漂着、当地の長に推戴された。
その後資盈は房総の海賊を平定し、また福祉に努めたため地元民から崇敬され、貞観八年(866)に資盈が没すると、地元民は祠を建てて祀った。
天元五年(982)になると、現在の地に社殿が建立され、三浦郡の総社となった。
藤原資盈(ふじわらのすけみつ)、資盈の后である盈渡姫、及び地主大神を祀る。
手水舎 |
神楽殿 |
御神木 |
御神木 |
神楽殿では毎年1月15日の小正月にチャッキラコの踊りが奉納される。チャッキラコは、豊漁・豊作や商売繁盛などの祝福芸として、女性のみで踊られる江戸時代から続く民俗芸能の一つである。
御神木は幕府を開いた記念に頼朝が植えたと伝えられる2本の公孫樹の古木である。
相州海南高家神社 |
福徳稲荷神社 |
金比羅宮 |
京急「三崎口」駅から「城ケ島行」のバスに乗り、「三崎港」バス停で降りる。バスの進行方向最初の左手路地に入り、二つ目の辻に鎮座している。
鳥居 |
社祠 |
ここでもチャッキラコの踊りが奉納される。
京急「三崎口」駅から「城ケ島行」のバスに乗り、「北条」バス停で降りる。バス進行方向へ50mほど進むと左手の崖縁に鎮座している。
鳥居 |
社殿 |
神額「諏訪神社」 |
創建は天元五年十二月(982)である。『三崎町史』によると明治六年に村社となっている。
『三浦古尋録』では、「信州上ノ諏訪ヲ勧請スト云」とあるので、祭神は建御名方神と八坂刀売神の夫婦神である。
また、大山咋命(おおやまくいのみこと)も祀っている。
建御名方神は大国主神と高志(越)の沼河姫(ぬなかわひめ)との間にできた御子神だ。
始めは農耕にかかわる神としての信仰や狩猟の神の信仰もあったが、三浦では海にかかわる神としての信仰で、ミナカタは「水潟」であると言わるところである。
権現造りの社殿で、家紋は「三つ柏」で、拝殿の屋根瓦はみるべきものがある。
京急「三崎口」駅から「城ケ島行」のバスに乗り、「城ケ島大橋」バス停で降りる。少し戻り右手の道に折れ、20mほど先にある。
鳥居 |
社祠 |
鳥居に明治十年の銘が入っていた。
京急「三崎口」駅から「城ケ島行」のバスに乗り、「城ケ島漁港前」バス停で降りる。 バス進行方向へ20mほど進み、山側へ折れると二辻目の左手に鎮座している。
鳥居 |
社殿 |
神額「海南神社」 |
三崎にある海南神社の祭神を分霊している。以前は游ヶ崎海岸に鎮座していたが、暴風雨にて破損したため明治十一年に現在地へ遷座した。
祭神は藤原資盈(ふじわらのすけみつ)、源頼朝、楫三郎(かじのさぶろう)である。