相模原市にある神社に参拝した記録です。
NO. | 神社名 | 住所 | 参拝期日 | 備考 |
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01 | 村富神社 | 中央区矢部2-7-15 | 2015/10/28 | JR横浜線「矢部」駅 |
02 | 御嶽神社 | 中央区上矢部2-23-1 | 2015/10/28 | JR横浜線「矢部」駅 |
03 | 椿稲荷神社 | 中央区淵野辺本町1-8 | 2015/10/28 | JR横浜線「矢部」駅 |
04 | 日枝神社 | 中央区淵野辺本町1-36-16 | 2015/10/28 | JR横浜線「淵野辺」駅 |
05 | 皇武神社 | 中央区淵野辺本町4-20-11 | 2015/10/28 | JR横浜線「淵野辺」駅 |
06 | 鹿嶋神社 | 南区古淵1-34-23 | 2015/10/28 | JR横浜線「古淵」駅 |
07 | 鹿嶋神社 | 南区上鶴間本町3-7-11 | 2014/03/29 | JR横浜線「町田」駅 |
08 | 下溝御嶽神社 | 南区下溝3415 | 2020/06/10 | JR相模線「下溝」駅 |
09 | 下溝八幡宮 | 南区下溝1479 | 2020/06/10 | JR相模線「下溝」駅 |
10 | 榎稲荷神社 | 南区下溝1451-3 | 2020/06/10 | JR相模線「下溝」駅 |
11 | 厳島神社 | 南区磯部1388 | 2020/06/10 | JR相模線「下溝」駅 |
12 | 磯部八幡宮 | 南区磯部1388 | 2020/06/10 | JR相模線「下溝」駅 |
13 | 石楯尾神社 | 南区磯部2137 | 2020/06/10 | JR相模線「相武台下」駅 |
14 | 有賀神社奥宮 | 南区磯部1776 | 2020/06/10 | JR相模線「相武台下」駅 |
15 | 山王日枝神社 | 南区磯部1114 | 2020/06/10 | JR相模線「相武台下」駅 |
16 | 山王大権現 | 南区磯部1938 | 2020/06/10 | JR相模線「相武台下」駅 |
17 | 新戸日枝神社 | 南区新戸2459 | 2020/06/10 | JR相模線「相武台下」駅 |
18 | 白山姫神社 | 南区新戸2075 | 2020/06/10 | JR相模線「相武台下」駅 |
19 | 報徳二宮神社 | 南区相模大野6-11-25 | 2020/07/27 | 小田急線「相模大野」駅 |
20 | 谷口山野稲荷神社 | 南区相模大野2-21 | 2020/07/27 | 小田急線「相模大野」駅 |
21 | 山王神社 | 南区上鶴間本町1-2 | 2020/07/27 | 小田急線「相模大野」駅 |
22 | 日枝神社 | 南区鵜野森2-29-1 | 2020/07/27 | 小田急線「相模大野」駅 |
23 | 大久保稲荷神社 | 南区鵜野森1-33 | 2020/07/27 | 小田急線「相模大野」駅 |
24 | 鹿島神社元宮 | 南区上鶴間本町2-11 | 2020/07/27 | 小田急線「相模大野」駅 |
25 | 茨山稲荷神社 | 南区上鶴間本町6-21-8 | 2020/07/27 | 小田急線「相模大野」駅 |
26 | 長嶋神社 | 南区上鶴間本町9-17 | 2020/06/24 | JR横浜線「相原」駅 |
27 | 相原八幡宮 | 緑区相原6-5-26 |
【履歴】
・2020/07/78(火): 07/27(月)相模大野駅周辺散策。 ・2020/06/11(木): 06/10(水)巡拝。
・2020/06/25(木): 06/24(水)巡拝。 ・2015/10/30(金): 10/28探訪
JR横浜線「矢部」駅で下車、南口より駅前の道を相模原駅方向に進み、最初の左手脇道に折れる。 100mほど進むと二車線道路に出る。横断歩道を渡り右折し相模原方向へ250m程進むと左手に脇道があるので入ると100mほど先右手に鎮座している。
一の鳥居(明神鳥居) |
二の鳥居(靖国鳥居) |
東南東を向いて一の鳥居が建ち、表参道が真っ直ぐに拝殿まで伸びている。
拝殿 |
神額「村富稲荷神社」 |
江戸の商人・相模屋助右衛門が当地周辺の上矢部新田村を開発するにあたり村の鎮守として寛文年間(1661-1672)稲荷社として創建した。
明治六年には村社に列格したと云う。昭和二十七年(1952)"村富稲荷"から"村富神社"に改称した。
祭神は倉稲魂命。
祖神社 |
山の神 |
「名跡鎌倉街道見透之松」碑 |
JR横浜線「矢部」駅で下車、北口より駅前の斜めに奔る道を北へ進む。 「上矢部」交差点まで進んだらもうすぐだ。 次の100mほど先にある交差点で左折、150mほど先右手に鎮座している。
鳥居(明神鳥居) |
拝殿 |
矢部義兼がこの地に居館を構え、豪族となり武運長久・子孫繁栄のため 一社を設ける。この地域の鎮守。
境内には鐘楼・狛犬・御神燈・八坂社・弁財天社・第六天社等のほか拝殿面両脇に「文政十年国と名主安藤銀蔵」の小石柱がある。
例祭は9月笹湯の湯立神事が行われる。湯立(湯花)神事は四隅に青竹を立て縄を張り中央に三叉を組み、それに大釜を乗せ湯を沸かす。
例祭神事式典終了後に全員が結界の外に集まり、神主は釜湯の前で祝詞を述べ、初湯を神前に捧げたのち、釜の湯に笹葉を浸し周囲の人々の頭上に振りかける。
この神事が厄除け、家内安全、氏子繁栄にご利益があるといわれている。
日本武尊を祀っている。
鐘楼 |
日枝神社 |
八坂神社 |
JR横浜線「矢部」駅で下車、北口より駅前の斜めに奔る道を北へ進む。 左手の「相模総合補給廠」が途切れるところにある五叉路交差点まで進む。 交差点で右手にある少し細い道に折れ、真っ直ぐ約450mほど突き当りまでひたすら歩く。 丁字路にぶつかったら右折、50mほど先左手にある。
金子一族の守護神として祀られた。境内には御神木の大きな椿が植わっている。
JR横浜線「淵野辺」駅で下車、北口より駅前正面の道をまっすぐ進む。800mほど先「山王自治会館前」交差点に着いたら左折するとすぐ左手に神社の鳥居が立っている。
日枝神社は、徳冶二年(1307)の建立。天文十一年(1542)8月に北条氏康の関東平定のための祈願所とした。
社殿は度々修復しており、現在の社殿は昭和四十二年に再建。
祭神は大山咋神。
JR横浜線「淵野辺」駅で下車、北口より徒歩17分。
御嶽大権現と称し元和年間(1615 - 1623)の再建記録がある。
延宝年中に武相境川縁「字嶽ノ内」に遷座し、明治五年(1872)に村内協議の上、字中村嶽之内の現在地に遷座した。
村社「皇武神社」と改称。明治五年に神社裏に淵博学舎が創立された。
養蚕にまつわる「おきぬさま」伝承がある。
祭神は日本武尊。
JR横浜線「古淵」駅で下車、駅前の道を左手に進み「古淵駅北」交差点で右折、次の「古淵駅東」交差点で左折する。 300mほど進むと「堺川橋西」交差点に至る。ここで左手の脇道に入り進むと100mほど先右手に鎮座している。
鳥居(両部鳥居) |
拝殿 |
創建時期は不明。新田義貞が鎌倉攻めの折り祈願し建立したとの伝えがある。
古文書によると文禄二年(1593)奉再建鹿嶋大明神一社一宮御修復とあり、その後、慶安三年、寛永二年、文政二年に再建した記録がある。
近年では、明治三十四年に焼失し、二年後の三十六年に再建され現在に至っている。
祭神は武甕槌命である。
鐘楼 |
稲荷社 |
JR横浜線「町田」駅で下車、南口より駅前右手の道路を道なりに進むと400mほど先右手に鎮座している。
鳥居(両部鳥居) |
拝殿 |
神額「鹿嶋神社」 |
創建年代は不詳。建久年間(1190 - 1199)に源頼朝が鶴舞の里(鶴間)に鶴舞神社(今の浅間神社)を創建したと伝えられる頃に相前後して創建されたと推定されている。
当初境川付近に在ったが、享和元年(1801)当地へ遷座、昭和八年には村社に列格。
祭神は武甕槌命である。
手水舎 |
大日如来堂 |
JR相模線「下溝」駅下車、線路沿いを50mほど海老名方向に行くと線路を横切る道があるので左折して線路を横断し進むと鶴川に至る。 ここで左折し上流方向に進むと一つ目の橋の先100mほどの処で道が二股に分かている。 ここを左側に進むと30mほど先左手に鎮座している。(徒歩約10分)
JR相模線「下溝」駅下車、線路沿いを50mほど海老名方向に行くと線路を横切る道があるので左折して線路を横断し進むと鶴川に至る。 ここで左折し上流方向に進み一つ目の橋を渡り進むと200mほどで丁字路に出る。 ここを左折すると50mほど先に鎮座している。(徒歩約10分)
溝郷が上溝と下溝の両村に分かれた天文年間(1532〜55)に上溝村の亀ヶ池八幡宮より分霊を受けて建立したと伝えられている。
祭神は応神天皇。
社殿は平成二十四年(2012)四月焼失、平成二十九年(2017)に再建されたものだ。
不動堂 |
不動明王坐像 |
参道右手にある祠の中には市指定重要文化財の不動明王坐像が安置されている。 この尊像は八幡宮の別当寺であった大光院という寺院の本尊だったもので、像の胎内銘によると享保九年(1724)に大光院の常照が、鎌倉扇ヶ谷に住んでいた仏師後藤左近藤原義貴に製作を依頼した。 しかし、犬光院は明治初期に神仏分離令によっで廃止され、この本尊は社務所などに安置されていたが、たび重なる大火に襲われ、そのたびに転々とその場所を移動していた。現在ではやっと安住の地を得、きれいに修復されて保存されていると云う。
JR相模線「下溝」駅下車、線路沿いを50mほど海老名方向に行くと線路を横切る道があるので左折して線路を横断し進むと鶴川に至る。 ここで大盛橋を渡り、50mほど先左手石階段を上った処に鎮座している。(徒歩約7分)
JR相模線「下溝」駅下車、駅前の道を真っ直ぐ行くと県道46号線に出る。左折し海老名方向に進む。 「磯部」交差点で横断歩道を渡ると線路を横断した先は下り坂となっており途中右手に鎮座している。(徒歩約15分)
磯部八幡宮の境外摂社である。
JR相模線「下溝」駅下車、駅前の道を真っ直ぐ行くと県道46号線に出る。左折し海老名方向に進む。 「磯部」交差点で横断歩道を渡ると線路を横断した先は下り坂となっており下りきった左手に鎮座している。(徒歩約15分)
磯部八幡宮は、鎌倉から来訪した山伏祐圓(延文二年(1537)年没)が佛像院磯幡山神宮寺を開創した際に、村鎮守として八幡宮を祀ったとされ、江戸時代初期には火渡りの護摩や相撲で非常に賑わったと云う。
明治六年村社に指定、昭和十年には新磯村の総鎮守として指定村社となっていた。
石段の右手に江戸初期に製作された木造の不動明王坐像(市指定重要文化財)を安置する護摩堂がある。 このことがこの神社が修験道場であったことをわずかに物語っている。
県道46号線の「新磯小学校入口」交差点から東側の道に入り進み、丁字路にぶつかったら左折し更に進むと旧中村家住宅の先右手に「石楯尾神社→」の案内板がある。
鳥居 |
内参道 |
社殿 |
創建年代等は不詳ながら、勝坂集落の旧家が守り神としてその鬼門の方角に建てたものではないかといわれ、「羽黒権現社」と称していたと云う。
明治維新後「石楯尾神社」に改称した。
祭神は大己貴命。
相鉄線「下溝」駅から南に約1.5km、国指定史跡「勝坂遺跡公園」西側、勝坂遺跡D区の一角にあり、有鹿比女命が鎮座する。
創立年月日は不詳であるが、延文元年(1356)以前より下磯部東地区の村の鎮守として、御神徳を追念するもの多く、江戸時代は別名山王大権現と称した。 文久元年(1861)八月三十一日に社殿を再建し、慶応元年(1865)九月、社殿の再建をし、幟等も新しく調えた。 境内地には樹木も多く、延長約二十メートルの石段は、幕末に氏子の人々が馬にて運んで築いたものである。 明治三十年九月、社殿を新改築、更に昭和二年三月十六日に社殿を再び改築した。 昭和十四年四月三十日、鳥居を新築したが、昭和五十三年十二月に破損により再建。 老朽化していた社殿は昭和五十五年四月二十日に新しい社殿が完成している。
JR相模線「相武台下」駅下車、駅前広場左手正面の道を真っ直ぐ行くと県道46号線の「新磯」交差点に出る。 交差点向かい側右手に鎮座している。
海老名方向から県道46号線を北上し「新戸」交差点で左折する。緩やかな坂道を下り鶴川に至ったら手前川沿いの道を上流方向へ進むと右手に鎮座している。
鳥居 |
社殿 |
神額「日枝神社」 |
神社の前には鳩川が流れ、参道は昭和24年に改修され「日枝神橋」を渡って続いている。
その先の石段を上がると社殿があり、中を覗くと丸石を納めた小さな祠がまつられている。
『風土記稿』からは、江戸時代この神社は「山王社」と呼ばれていたと云う。
また、同じく新戸村の白山姫神社とともに「氷祭の神事」が行われていた。
社殿の左手に第六天社の石祠が建っている。
第六天社は災害除けの神で、新戸村では字「第六天原」と呼ばれる丘の上に祀られていた。
ところが戦時中にそこが陸軍士官学校の敷地となり、境内地・社殿は接収され、戦後も米軍キャンプ地内となったため、再建することもままならずにいた。
そこで地域の人々が協力し、日枝神社境内に新たに遷座し直すこととして、戦後30数年を経て再びここに祀られるようになったものだ。
JR相模線「相武台下」駅下車、駅前広場左手正面の道を進み、左側二つ目の分帰路に入り100mほど行くと緩やかな坂道の途中に鎮座している。
鳥居 |
拝殿(覆社) |
本殿 |
参道石段を上がり鳥居を潜ると正面に拝殿が建っている。この拝殿は覆社となっており中に本殿が祀られている。
古くは「白山大権現」と呼ばれていた。創建年代は不詳であるが享保八年(1723)の棟札が残されており、新戸村の鎮守として勧請が考えられ、当地にあった関東総奉行内藤清成の陣屋に祀られたか或いは陣屋廃絶後に祀られたかのどちらかと推定される。その証として「陣屋稲荷」という小さな稲荷社が境内にある。
祭神は伊佐那岐命、伊佐那美命、菊理比売命である。
小田急線「相模大野」駅下車、北口に出てペデストリアンデッキ「サンデッキ」で結ばれた「Bono相模原」の北棟と南棟の間を通る連絡通路「ボーノウォーク」を通りぬけエスカレータで地上へ降りる。 エスカレータから右へ回り込んで北方向に奔る道を50mほど進み左手の路地(郵便局手前)に折れると突き当りに鎮座している。
鳥居 |
社殿 |
神額「報徳二宮神社」 |
報徳二宮神社は、太平洋戦争終戦後に当地が発展を始めたころに小田原市の報徳二宮神社の分霊を仮宮に奉祀、30年程の後となる昭和五十年に社殿を新築した。
祭神は二宮尊徳。
小田急線「相模大野」駅北口から駅前広場右手のモアーズ前を通り北へ進み県道51号「町田厚木線」にでる。 右折し町田方向へ進むと200mほど先に東京環状線の高架があるがその手前左手に鎮座している。(徒歩約5分)
鳥居 |
拝殿 |
神額「稲荷社」 |
「蚕守稲荷神社」とも呼ばれている。 昔は「谷口郷霊現閣」と称し、安永三年(1774)の徳川10代将軍家治の時代にはすでに祀られていた。 嘉永七年(1854)に京都の伏見稲荷大社より「蚕守」と記されている御霊を頂いている。 当時このあたりの主要産業の養蚕の神として信仰を集めた。
小田急線「相模大野」駅北口から駅前広場右手のモアーズ前を通り北へ進み県道51号「町田厚木線」にでる。 右折し町田方向へ進むと200mほど先に東京環状線(国道16号)が奔っている。 この「矢口陸橋下」交差点で左折し「相模大野二丁目」交差点まで進み右折して横断歩道を渡り路地にはいる。 丁字路で左折し進むと100Mほど先左手に鎮座している。(徒歩約15分)
鳥居 |
社祠 |
石塔 |
上鶴間谷口山王神社は、延宝三年(1675)に石塔として建立、境内の椿の古木の根元に祀られていた。 大正初期に社殿を建ててその中に祀った。ちなみにこの石塔には「南無妙法蓮華経」、「口供義山王権現」などが刻まれている。
小田急線「相模大野」駅北口から駅前広場右手のモアーズ前を通り北へ進み県道51号「町田厚木線」にでる。 右折し町田方向へ進むと200mほど先に東京環状線(国道16号)が奔っている。 この「矢口陸橋下」交差点で左折し「若松二丁目」交差点まで進み右折して横断歩道を渡り路地にはいる。 真っ直ぐ道なりに進むと300Mほど先で道がY字分岐しているので右手の道に進む。 250mほど先左手に鎮座している。(徒歩約25分)
鳥居 |
本殿 |
神額「日枝神社」 |
日枝神社の創建年代は不詳。 古くから鵜野森に山王社、神明社、鹿島社、八幡社の4社があり、山王社が明治四年「日枝大神」と改称、さらに明治六年に「日枝神社」と改称の上、村社に列格した。 大正十一年には神明社、鹿島社、八幡社を合祀している。
小田急線「町田」駅下車、南口の町田バスセンターから「町08: グリーンハイツ循環」に乗り「鵜野森団地入口」バス停で下車する。 バス進行方向100mほど先の陸橋へ階段を登り上がる。神社は陸橋の10mほど先右手に鎮座している。
鳥居 |
社祠 |
JR横浜線「町田」駅中央南口よりヨドバシカメラ側へ進み境川を渡り「町田駅南」交差点へ。 ここで右折し更に350mほど行くと右手に鎮座している。
鳥居 |
社祠 |
鹿島神社(上鶴間本町)が享和元年(1801)現在地に遷座した際、旧地に元鹿島・古宮と称して石祠を祀った。
昭和六十年境川整備の区画整理に伴い当地へ遷座した。祠には平成十年十二月再建と記されている。
祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)。
小田急線「相模大野」駅東口(南出口)出口から徒歩約12分。 茨山稲荷神社は国道16号線の生協(ハーモス相模大野)前の交差点を町田側に約200m進み、右側2つ目の小道を町田ハイツ方向に約250m行った右側にある。
鳥居 |
社殿 |
茨山稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、安永七年(1778)には既に祀られていた。京都伏見稲荷大社本宮を勧請したもの。
社殿は昭和十四年に屋根替えと修理がされ、昭和四十二年に屋根の葺替えが行われた。
祭神は大宮能売命、宇迦之御魂神。
小田急線「相模大野」駅で下車、南口より「大13: 中和田循環相模大野駅南口行」に乗り「上鶴間高校入口」バス停で下車する。 バスが来た方向(南)へ80mほど戻り「長嶋神社入口」交差点で左折すると100mほど先右手に鎮座している。
鳥居 |
社殿 |
神額「長嶋神社」 |
創立は鎌倉時代頃。江戸期には上鶴間村小名中和田の鎮守社だった。 当社に残される元禄十六年名の棟札は、相模原市内の神社では最古の棟札。 昭和三十九年には付近に鎮座していた山神社、天満宮、大山不動、秋葉社、神倭伊波札毘古命、地神塔、石神井社、大六天社、道祖神、伊勢山社、山王社、神明社を合祀した。
八坂神社 |
石上社 |
白瀧弁天宮 |
北向庚神社 |
JR横浜線「相原」駅下車、西口より町田街道に出て西方向へ進み、諏訪神社入口、相原小学校を過ぎ長福寺の少し先左手に別れるとすぐ橋が架かる川が流れている道に折れる。 200mほど行くと右手丁字路があるので此処を右折し100mほど先右側に鎮座している。
鳥居 |
本殿 |
神額「八幡宮」 |
稲荷社 |
御神木 |
創建年代は不詳だが、平安時代の中期(約1000年前)小野妹子を遠祖とする小野孝泰が武蔵国の国司として下向の折、京の都より石清水八幡宮を迎え祀ったと云われている。
祭神は、誉田別尊(応神天皇)ならびに牛頭天王(素戔鳴尊)ニ柱で「地域の安泰、繁盛、厄除け」など多大な御神徳を拝受している。