「座間って米軍基地がある処...」だけの印象しかなくこれまで訪れることはなかった。
しかし、神奈川県全域の神社を巡ってみようかなーと考え出した手前、行ったことがない処こそ、先に行くべきだろうと出かけることにした。
まず第一回目の探索は小田急本線「相武台前」駅からスタート。米軍基地沿いに西へ向かい座間神社を手始めに座間駅北側を巡り、駅東側の食堂でランチ休憩の後は東へ向かい栗原地区を経て相鉄本線「かしわ台」駅までとした。(約10km約5時間)
NO. | 神社名 | 住所 | 拝観期日 | 備考 |
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01 | 座間神社 | 座間市座間1-3437 | 2014/03/28 | |
02 | 大六天神社 | 座間市座間1 | 2014/03/28 | |
03 | 天照皇大神宮 | 座間市座間2-2707 | 2014/03/28 | |
04 | 三峰神社 | 座間市入谷3-5994 | 2014/03/28 | |
05 | 鈴鹿明神社 | 座間市入谷1-3500 | 2014/03/28 | |
06 | 入谷諏訪明神社 | 座間市入谷1-1568 | 2014/03/28 | |
07 | 高原大六天神社 | 座間市入谷4 | 2014/03/28 | |
08 | 栗原神社 | 座間市栗原中央4-4-4 | 2014/03/28 | |
09 | 栗原天神社 | 座間市栗原中央3-21 | 2014/03/28 | |
10 | 龍蔵神社 | 座間市南栗原4-1-19 | 2014/03/28 | |
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【履歴】
・2014/04/15(火): 03/29探訪。
小田急本線「相武台前」駅から徒歩でアクセス。 県道51号町田厚木線を真っ直ぐ西へ向かい座間キャンプを過ぎた先の「座間神社入口」交差点で右折する。 右手にキャンプ境の岡を観ながら進むと150mほど先右手にある。(徒歩約1.5km)
一の鳥居 |
二の鳥居 |
三の鳥居 |
創建年代は不詳。なお、正和二年(1313)に飯綱権現社として創建したと伝えられている(欽明天皇の代に流行した悪疫を平癒した湧水を崇敬したことに始まるという伝説あり)。
明治二年(1869)に"飯綱神社"、更に九年(1876)に村社に列格されるに際し祭神を日本武尊に改め"座間神社"と改称している。
明治四十二年に天神社、浅間社、明王社、山王社、道祖神を境内へ奉遷、更に昭和三年に蚕神社を境内へ奉遷している。
日本武尊を祀る。
拝殿 |
神額「座間神社」 |
手水舎 |
鐘楼 |
神水 |
欽明天皇のころ(539〜)、座間の里に悪疫が流行し村人たちは大変苦しんだ。 その時白衣の老人(飯綱権現の化身)が現れ、山裾から湧き出る清水を使うようにと告げた。 村人がそのお告げに従い湧き出る水を汲み飲水としたところ、悪疫が治まった。 感激し村人は飯綱権現を祀ったのが座間神社のはじまりと伝えられている。 この御神水は、座間神社下の神社会館「水明」の右側空き地の奥にある。
座間神社からは参道をまっすぐ西へ進むと二の鳥居、一の鳥居と続き、ここで県道46号相模原茅ヶ崎線に出る。 すぐ南の交叉点「相武台下駅入口」で右折して県道509号相武台下停車場線を相模線「相武台下」駅へと向かう。 200mほど先の左手路地に入り南側へ進むと児童広場の中に建っている。
南側の道に出て東へ進むと県道46号線と県道51号町田厚木線が出会う「座間上宿」交点に出る。 ここを右折して南へ向かう。 「座間小前」交叉点に至ったら、右折し道なりに進むと相模線の横断踏切がある。 線路を越すと右手水田の中に小さな祠が建っている。
古くは西の宮大神宮と呼ばれ旧社殿の棟札によれば創建は慶長十九年(皇紀2247年 西暦1614年)九月十一日である。
おそらくこの河原宿を初めて開拓した祖先たちによりここに奉祀されたものと考えられる。
それ以来氏子守護の神として崇敬を受け「大神(だいじん)さま」と呼ばれて親しまれてきた。
明治時代に各地で小神社の統合が行われたが孤立して残り現在に至っている。
現社殿は昭和三十三年十月九日に再建されたものである。
小田急本線「座間」駅で下車。東口に出て、線路沿いの道を北上する。 300mほど進むと県道42号藤沢座間厚木線に出る。道路向かいの岡側に三峰神社の幟が立ち階段状の参道がある。 この道を120mほど登ると神社だ。
埼玉県秩父にある三峰神社の末社。 明治時代には鈴鹿明神社に寄せ宮として祀られていたが、昭和三年星の谷大谷に大火があり観音堂の仁王像を始め付近の民家十軒が焼けた。そこで三峰神社を年星の谷大谷(現在地)に移設し火難に遭わないようにと祈願した。
小田急本線「座間」駅で下車。東口に出て、線路沿いの道を北上する。300mほど進むと県道42号藤沢座間厚木線に出る。 小田急線の踏切を渡り県道42号藤沢座間厚木線を西へと進む。250mほど先の「星の谷観音坂下」交差点を過ぎとあと120m先右手にある。
創建年代は不詳であるが、欽明天皇の御代に創建されたと伝わっている。
当地は天平年間に鈴鹿王の所領であったことから社号がついたといい、江戸期には座間宿・座間入谷の総鎮守に、明治2年よりは座間郷(座間市、相模原市と大和市、海老名市の一部)の郷社に列格していた。
伊邪那岐命、素戔鳴尊を祀る。
小田急本線「座間」駅で下車。西口に出て、駅南側を線路を横切り走っている道を西へ向かう。 250mほど坂を下り旧鎌倉道を過ぎた先の右手にある。
創建年代は不詳。社の裏手の道は"鎌倉街道"で、古くは此方に面していたようだ。
小田急本線「座間」駅で下車。東口に出て、駅南側を線路を横切り走っている道を東へ向かう。 150mほど先、パチンコ店手前の空き地奥にある。
高原組の個人の神社だったようだが、会社はすでに廃業し、神社のみ残されているようだ。
小田急本線「座間」駅で下車。東口に出て、駅南側を線路を横切り走っている道を東へ向かう。 道なりに1kmほど進むと「立野台」交差点で県道42号線にぶつかる。右折し県道42号線を南下する。少し行くとガソリンスタントの先で二股に分かれるので左側の側道側に折れる。 100mほど先で再び県道42号線にぶつかるのでそのまま東へ向かう。70mほど先に跨道橋がある。この十字路交差点で左折して脇道に入ると突き当りにある。
当社に伝わる「栗原寺社村鏡」の写しによると、「相模の弥市」といわれた中栗原の豪農大矢家の先祖が天正元年(一五七三)に王子大権現を勧請して祀ったのが起りと伝えている。
宝永三年(1706)再建の記録があることや、昭和四十二年に伐採された杉の御神木が樹齢七百数十年といわれていることを考え合わせると、当社はかなり古い年代に建立されたようだ。
永い歳月王子権現社は中栗原の守り神として、人々の心の支えとなり崇められてきた。
明治時代になり、時の政府が各小字にあるお宮を合祀するように勧めたので、明治六年(1873)栗原地域内に祀られていた絹張社(小池)・握財社(上栗原)・山王社(芹沢)・若宮社・龍蔵社(下栗原)はこの王子権現社に合祀され当時の栗原の総鎮守となり社名も栗原神社となった。
社殿の左奥のシラカシの木は目通り周囲が三.六メートル、樹高二十メートルの大木で樹齢五百年前後といわれ昭和五十三年市の天然記念物に指定されている。
祭神は豊受大神・天御柱命・国御柱命・道反大神・稚日留女命である。
栗原神社の境内を出て左手の川側へ向かい、橋を渡った先の丁字路で右折する。 道なりに約100m程進むと公園の先にある。
これは、2012年10月に栗原中央出身の大矢東氏が栗原神社に奉納した500坪の土地を多目的広場として整備し、その公園の一角に神社を祭った。
菅原道真を祀る。
相鉄「かしわ台」駅で降り、駅前の道を右のほうへ向かう。かしわ台跨線橋を渡り切った先にある右手の脇道を下る。道なりに進んでいくと柏ヶ谷中学校の手前で丁字路にぶつかる。 ここで左折し、中学校の縁を巡るように進み、川縁の道に出たら更に川の上流に向かって進む。龍蔵神社は600mほど先にある。
創立年代は不詳であるが、龍蔵大権現社と稱して巡礼坂上にあった。その後双葉団地へ登る坂の中段(栗原4083番地)に安置されていた。享保十五年戌十一月十四日付の龍蔵大権現社に関わる古文書があり、また新編相模国風土記稿には「元文三年再建の棟札あり、鐘楼 天明七年鑄造の鐘を掛ける」と記されている。
明治六年に栗原神社に合祀されたが、明治三十三年当地に疫病が流行したとき、稲荷社・徳生大権現が祀っていた栗原下谷3422番地に遷座した。
目久尻川改修に伴い昭和五十九年三月三十日、長い歳月郷土の守護神として篤く崇敬し奉ってきた神社だったので「龍蔵神社」と改称のうえ、新築稲荷社・徳生大権現とも現在地に移転・遷宮した。
祭神は龍蔵大神、御柱命、国御柱命である。