事事関心! 神社探訪:
[ 京都市東山区 ]
京都市東山区                2020/10/31(土)更新
探訪案内

 京都でも東山区はアンケートによれば外国人が行ってみたい所No.1に選んだ「清水寺」があるところだ。 東山区には見所も多く一日での探訪は無理なので、数回に分けて巡ってみた。

NO.神社名住所拝観期日備考
 01 大将軍神社 東山区長光町640 2013/09/30 
 02 松風天満宮 東山区林下町3-406 2013/09/30 
 03 栗田神社 東山区粟田口鍛冶町1 2013/09/30 
 04 若宮八幡宮社 東山区五条橋東5-480 2013/09/30 
 05 京都霊山護国神社 東山区清閑寺霊山町1 2012/09/27 
 06 八坂神社 東山区祇園町北側625 2012/09/27 
 07 恵美須神社 東山区小松町125 2014/09/28 
 08 安井金比羅宮 東山区下弁天町70 2014/09/28 
 09 豊国神社 東山区大和大路正面茶屋町 2012/09/27 
 10 新熊野神社 東山区今熊野椥ノ森町42 2012/09/27 
 11 瀧尾神社 東山区本町11 2012/09/27 
 12 三嶋神社 東山区東大路通東入上馬町3 2020/10/28 
 13 山王神社 東山区清閑寺池田町33-3 2020/10/28 
 14 新日吉神宮 東山区妙法院前側町451-1 2020/10/28 
 15 山口稲荷神社 東山区妙法院前側町451-1 2020/10/28 
 16 剣神社 東山区今熊野剣宮町13 2020/10/28 
 17 地主神社 東山区清水1丁目317 2020/10/28 
 18 霊明神社 東山区清閑寺霊山町25 2020/10/28 
 19 観亀稲荷神社 東山区祇園町北側347ー101 2020/10/28 
 20 辰己神社 東山区新橋花見小路西入ル元吉町 2020/10/28 

【履歴】
・2012/09/30(日): 東山区を南側から北上
・2013/09/30(日): 東山区の北側を散策
・2014/09/28(日): 祇園の南側を探訪
・2020/10/31(土): 10/28新熊野を探訪

大将軍神社 東山区長光町640

 地下鉄東西線「東山」駅で降り、東山三条通りを西へ進み、東大路通を過ぎたら二つ目の左手小路へ折れ、少し行くと右手に鎮座している。


表鳥居

拝殿

 桓武天皇は延暦十三年(794)平安京の造営に際し、大内裏鎮護のため都の四隅に素戔嗚尊を祀り大将軍と称したと云う。 特にこの地は京に入る七口の一つである三条口の要地に当り、邪霊の浸入を防ぐ意を以って、当社は重要視されていた。
 文政十二年(1829)朝議大夫陸奥守千葉正胤によって再興された。
 素盞嗚尊を主神とし、相殿に関白藤原兼家を祀っている。

松風天満宮 東山区林下町3-406

白川上流から古門前橋を望む

知恩院古門

 大将軍神社から松風天満宮へ行く分かりやすい道筋は東大路通に出て、「知恩院前」交差点まで南下する。 続いて華頂道へ左折して白川に架かる古門前橋を渡り知恩院古門を潜るルートだろう。
 松風天満宮はこの古門を潜ったすぐ先左手にある。
 白川のこの場所はテレビドラマ「京都地検の女」の中でもしばしば登場していた場所だ。川縁を歩くとすぐ、「あっ!!あの場面だ!!」と歓喜。 川縁の柳の感じが何とも好い。今日はきれいな和服を着た娘さんの写真撮影が行われていた。 反射板を使ったりしていたので素人の撮影場面ではないようだ。


 総本山知恩院が中興された寛永の頃、知恩院第三十二世松風霊巌大僧正が、歌人の西行法師が感得した天神尊像を大伽藍に安置祈願した。 その後、天神尊像はこの地へと移された。 そして、学文・技術の向上・家門繁栄・諸願成就の社として「松風天満宮・松宿院」と呼ばれるようになった。
 祠前の黄色い狛犬は、小寺慶昭氏の著書「京都狛犬巡り」で、"京都府一恐ろしい面構え"と紹介されている。
 残念ながら門は門柵で閉ざされており、境内に入っての拝観は出来なかった。

栗田神社 東山区粟田口鍛冶町一番地

 更に神宮道を少し北へ歩き、清蓮院先の右手脇道に入るとすぐ右手に鳥居が見える。


一の鳥居(三条通)

二の鳥居

拝殿

 平安時代の貞観十八年(876)に国家と民の安全を祈願する為に全国の諸神へ勅使が遣わされた。 その際、従五位上出羽守藤原興世は祇園社(現 八坂神社)にて七日七晩祈願した。 その満願の夜、興世の枕元に老翁の姿の大己貴命が神託を告げられた。 興世は神意なりと朝廷に秦上し、勅命により社を建てて御神霊を祀りしたのが当社の始まりとされている。
 また一説には、五代孝昭天皇の分かれである粟田氏が此地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも云われている。 創建以来、京都の東の出入り口である粟田口に鎮座し、街道を行き交う人々の信仰を集め、旅立ち守護(旅行安全)厄除の神様として知られている。


末社: 鍛冶神社

 粟田神社の参道石段の左手横に末社の鍛冶神社がある。 この神社は、三條小鍛冶宗近を祀っている。
 三條小鍛冶宗近は、京都三条に住む小鍛冶の宗近という意味で、一条天皇時代の実在の人物だが、その生涯はほとんど不明とのこと。 しかし、後世、謡曲「小鍛冶」により伝説的な刀鍛冶として有名になった。
 謡曲「小鍛冶」は、稲荷神の神助により「小狐丸」という名刀を作り上げるという物語で、残された刀剣の美しさと謡曲の影響で、後世に色々な伝説を生んでいる。

若宮八幡宮社 東山区五条橋東5-480

 五条通(国道一号線)に戻り、東山方向に進む。国道一号線が高架(五条バイパス)となるところを過ぎてそのまま五条通を行くと左手に若宮八幡宮がある。


一の鳥居

本殿

蓬莱石

 若宮八幡宮社は元々六条醒ヶ井にあり、源頼義(八幡太郎義家の父)が八幡の若宮として祀ったものと伝えられている。 当初は六条八幡、左女牛八幡(さめがいはちまん)とも呼ばれ、源氏一族や多くの武士からの信仰厚く、室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め隆盛を極めた。 しかし、応仁の乱により社殿は荒廃し、以後社地も転々とし、慶長十年(1605)にこの地に移った。 現在の社殿は承応三年(1654)に再建されたもので、本殿には仲愛天皇、応神天皇及び神功皇后を祀り、相殿には仲恭天皇を祀っている。
 本殿の脇に"蓬莱石"という霊石があり、これは、足利尊氏が病気にかかった際に病気平癒を祈願すると完治したことから、珍宝七種を献上されたものの一つと云われている。

■清水焼発祥の地

 清水焼は東山の清水坂・五条坂近辺で焼かれた陶磁器の総称である。 一説には宝徳期(1449〜52)に音羽屋九郎右衛門が清閑寺(東山区清閑寺山ノ内町)の近くに開窯した音羽焼が起源であるといわれている。 音羽焼は清閑寺の庇護を受け発展したが、慶長(1596〜1615)末に阿弥陀ヶ峰の豊国廟に煙がかかるため、命により清水寺近辺へと窯を移転した。 その後、この辺りには清水・五条・八坂焼なども開窯された。
 粟田焼が高級陶器中心だったのに対して、日常雑器類の生産を主として発展し、文政年間(1818〜30)以降、磁器の生産も始めた。 陶家として清水六兵衛・高橋道八家などが挙げられ、粟田焼が衰退して以降、京都で産する陶磁器の代表的な名称となった。


京都霊山護国神社 東山区清閑寺霊山町1

 清水新道(茶碗坂)の途中から「産寧坂(三年坂)」に折れ、途中のカフェで一休み。その後再び石畳の小路を北上する。 和服を着た娘さんを数多く見かける。京の路地によく似合う。 産寧坂の先で「維新の道」の道案内があったので、夕時が迫って来ていたが坂本竜馬の墓がある京都霊山護国神社に寄り道をした。


鳥居

社殿

 幕末の志士らを祀り、明治元年(1868)にわが国初の官祭招魂社として創立され、昭和十四年(1939)に昭和の大典に使用した建物の一部が京都霊山護国神社となった。 境内には木戸孝允や坂本竜馬らの墓碑が並んでいる。

八坂神社 東山区祇園町北側625

 京都霊山護国神社から八坂神社へは市内最古の公園である円山公園から入るのが早道だ。
 一般的には、八坂神社は市街地中央部からは四条通りの東端、東大路通に突き当る祇園に位置しており、この東大路通に面した西楼門から入る。


西楼門

 祇園に鎮座する八坂神社は、全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祀る約2,300の神社の総本社である。 古くは"祇園感神院"、"祇園社"と呼ばれていたこともあり、花街として知られる祇園の名も、その門前街として栄えたことに由来している。
詳細は、神社探訪: 京都市/八坂神社 参照。


恵美須神社 東山区大和大路通四条下ル小松町125

 松原橋を渡り、東へ向かう。三筋目の辻で左折し50mほど少し北へ入った左手に鎮座している。 伺ったときは丁度「名刺感謝祭」の行事の最中で、境内はごった返ししていた。 これは、異動や昇進、転職で肩書が変わり、いらなくなった名刺を焚上供養するものだ。
 暫し、供養の祝詞が終わるのを参列者に混じって待つ...。




 建仁二年(1202)の建立。栄西禅師が建仁寺建立にあたり鎮守として創建した。
 七福神の一つ‘ゑびす神’(八代言代主大神)を祀っている。 商売繁盛、家運隆盛で大衆の信仰を集めており、‘十日ゑびす(初ゑびす)大祭’(1月8日〜12日)は参詣者で大にぎわいとなる。 又、旅行安全でも知られている。
 恵美須神社(京都ゑびす神社)は、兵庫県・西宮神社、大阪府・今宮戎神社と並んで「日本三大えびす」と称され、「京のえべっさん」の名で親しまれている。


天満宮

白多夫社



八幡神社、猿田彦神社

安井金比羅宮 東山区東大路松原上ル下弁天町70

 建仁寺のほぼ東側にあるが、表参道口は東大路通に面してある。今回は、建仁寺を北口から出たので、安井北門通を東へ進み、途中で北門通へ右折して参った。
 後で気づくことになるが、この判断は大正解!だった。なんと、表参道口はうら若き女子の大行列が参道を埋め尽くしていたのだ!!


北門の鳥居

拝殿

「久志塚」碑

 安井金比羅宮は1695年、太秦安井にあった蓮華光院がこの地に移建された。 その鎮守として崇徳天皇に加え、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから「安井金比羅さん」の名で知れるようになった。 境内にある石牌は縁切り、縁結び石といわれ、中央の穴を右から左にくぐると縁切り、又、逆は縁結びといわれており、多くの人々が訪れる。
 昭和36年9月に境内北側に久志塚(櫛塚)が建立されてより、女性の命である髪の美しさを引き立てる櫛をお祀りし、女性の美容美顔美髪にご利益があるという。 今年も、9月22日に「櫛まつり」が催され、各時代の櫛をかざした女人時代風俗の行列が行われたとのこと。

豊国神社 東山区大和大路正面茶屋町

 京阪電鉄本線「七条」駅で下車、「七条通」を東へ向かい「大和大路七条」交差点で左折し「大和大路通」を北へと進む。 右手は京都国立博物館だ。豊国神社はその先に鎮座している。


鳥居

唐門(【国宝】)

拝殿

 豊臣秀吉を祀り、一般に「ホウコクさん」の呼称で親しまれている神社である。 慶長三年(1598)に六十三歳で亡くなった秀吉は、後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、遺骸は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られた。 また、その麓には廟社が造営され、豊国祭礼図屏風(重要文化財)の描画から壮観を極めていたようだ。 しかし、豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により取り壊され、秀吉の御礼は新日吉神社に移された。 その後、明治十三年(1880)当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、廟についても阿弥陀ヶ峰の頂上に再建された。

■耳塚(豊国神社の西側「正面通り」沿い)
 耳塚は、16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮派兵「文禄の役」,「慶長の役」で首の代わりに持ち帰られた戦功品の耳や鼻を埋めて供養した塚である。

新熊野(いまくまの)神社 東山区今熊野椥ノ森町42

 京阪電鉄本線「東福寺」駅で降り東へ向かうと東山大路に出る。大路を北へ向かうと商店街が切れるところに新熊野神社が鎮座している。


新熊野神社

影向の大樟

 平安時代後期頃、上流社会の間では熊野詣が盛んだった。中でも後白河上皇は篤い信奉者で、たびたび熊野へ参詣されたが、当時京都から熊野に参詣することは大変なことだった。 そのため、法住寺殿の造営に合わせて、その鎮守として永暦元年(1160)、法住寺殿南殿の南側へ紀州(和歌山県)の熊野三山の神を勧請して祀られたのが新熊野神社である。 これが新熊野神社の始まりで、熊野の新宮・別宮として長らく京の熊野信仰の中心地として栄えた。 「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、昔の熊野に対する今の熊野というのが、その由来だ。 神社の造営には熊野の土砂を社域に築き、熊野の木材で社殿を作り、神域には那智浜の小石を敷き詰め熊野権現本宮を再現したという。以来、天皇や公家も参詣され繁栄したという。
 社頭の「大樟」は当社創建の折、紀州熊野より運ばれた「上皇手植えの樟」と伝えられており、樹齢は推定900年とされている。(京都市指定天然記念物)


熊野本宮/八咫烏

熊野本宮/曼荼羅

今熊野猿楽復元図

 神社裏手には「京の熊野古道」が残っており、熊野権現本宮にまつわる品々が展示されている。

瀧尾神社 東山区本町11

 京阪電鉄本線「東福寺」駅前を奔る「本町通り」を北へ向かうと数分で瀧尾神社に到着する。


一の鳥居

本殿

絵馬舎の絵馬

 瀧尾神社は、江戸中期に行商から大呉服商になり、今の大丸百貨店の礎を築いた下村彦右衛門が熱心に参ったのが縁で、下村家の援助で修復を重ねてきた。 今の社殿は江戸後期の天保年間に完成したもの。豊富な資金を背景にした再建で、拝殿の天井に極彩色の木彫りの竜が据えつけられている。


三島神社-陰陽石

 瀧尾神社奥に三島神社の祈願所が設けられている。 三島神社本宮は、東大路通東入に鎮座しているが、かつては三嶋神社の近くに瀧尾神社があったという縁からここに祈願所が設けられているそうだ。
 三島神社は、平滋子が、摂津(大阪府高槻市)の三嶋大明神に祈願したところ、子宝を授かったとのことから京都に三嶋大明神を勧請したのが始まりで、現在も皇室との繋がりがあり、秋篠宮殿下が2度参拝されるなど皇室の子宝祈願にも一役かっているとのこと。
 祈願所右手に子宝が恵まれると云う陰陽石が置いてあった。

三嶋神社 東山区東大路通東入上馬町3

 市バス「馬町」バス停で下車、徒歩10分。渋谷通を東に行くと、坂の途中にある。




 平安時代末期、後白河天皇の中宮(皇后)である平滋子建春門院は子宝に恵まれないことを嘆き悲しんでいた。 そんな時、後白河天皇は摂津国嶋下郡三島江村(現:大阪府高槻市)に子授けにご利益がある三嶋大明神という神様がいることを知り、参拝に訪れる。 数日後、夢の中に白髪の翁が現れ、「あなたに男児が授かるでしょう。その代わり、私を京の巽(南東)の方角に祭りなさい。」と告げた。 中宮は、翁のお告げ通り子を授かり、高倉天皇を出産。 喜んだ後白河天皇は社殿を永暦元年(1160)に平重盛公に命じ、三嶋大明神を奉った社殿を造営(京都市内で唯一の平氏ゆかりの神社)、京の巽の方角の守護神として祭った云う。
 祭神に大山祇大神(おをやまづみのおおかみ)・天津日高彦火瓊々杵尊(あまつひだかひこほのににぎのみこと)・木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が祀られている。

揺向石

 平安時代/承安四年(1174)源義経公が当神社に参籠した時、夢の中に白髪の翁が現れ、すぐに奥州に下るようご神託を受けた。 目を覚ました義経公は再拝し翁が立っていたところを見ると、あったのがこの石と云う。
 以来、この石は「揺向石」と呼ばれ、妊婦が当社を参拝し男子の授かりを祈願しこの石に手を触れ、その触れた手でお腹を撫でると牛若丸のような立派な男子が授かると謂れている。


山王神社 東山区清閑寺池田町33-3

 市バス「馬町」バス停で下車、徒歩10分。三嶋神社と同じ渋谷通を東に行くと、坂の真ん中あたりに石垣上に白壁を設えた山王神社がある。
 社頭に冠木門、傍に石標が立っている。冠木門をくぐると、すぐに石鳥居。さらにすぐに玉垣を巡らし、二の鳥居がある。 拝所がその奥にあり、さらにその奥に本殿が鎮座する。




 この付近、清閑寺村の産土神。もとは清閑寺の鎮守社として境内にあった。1901年、現在地に移転した。
 祭神は大山咋神、大名牟遅神、田心姫神、大山荒魂、白山姫神、鴨玉依姫神、鴨玉依姫神荒魂。

新日吉神宮 東山区妙法院前側町451-1

 市バス「東山七条」バス停で下車し、豊国廟太閤垣への道を東へ徒歩約7分の処にある。








 永暦元年(1160)後白河法皇が、その御所法住寺内に比叡山東坂本の日吉山王七社(日吉大社)を勧請されたのが当社のはじまりである。
 創立当初の社地は今の市立美術大学付近の地で、その後元和元年(1615)豊国廟社の破毀とともに旧廟前に移り、さらに明治三十年(1897)この地に移った。
 祭神は後白河法皇の他、大山昨命など山王七柱を主神とし、相殿に素戔鳴尊、大年神を祀っている。

山口稲荷神社 東山区妙法院前側町451-1

 市バス「東山七条」バス停で下車し、豊国廟太閤垣への道を東へ徒歩約7分の処にある。




 江戸時代の末に新日吉神宮境内の山口に祀られた稲荷神社で、氏子中の繁昌安泰の守護神として信仰されている。


剣神社 東山区今熊野剣宮町13

 市バス「泉涌寺道」バス停で下車し、少し北方向にある信号機のある交差点進み、ここで横断し緩やかな剣道(つるぎみち)を登ると今熊野の剣神社がある。(徒歩約6分)


正参道口鳥居

拝殿

本殿

 剣神社の創祀について、平安時代・延暦十三年(794)の平安京遷都の頃、王城鎮護のために、都の巽(東南)の地に宝剣を埋め、神殿を造営したためという。  また、加賀白山の僧徒が神輿を担いで宮中に強訴したが聞き入れられず、神輿を放棄して帰山した。 その際の神輿を祀ったことに始まるともいう。
 祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、邇邇藝命(ににぎのみこと)、白山姫命(しらやまひめのみこと)、末社・朝日神明宮 に天照大神(あまてらすおおかみ)などを祀る。
 夜泣き封じ、疳虫封じ、神経痛封じ、諸病平癒、厄除などの信仰がある。


朝日神明宮

稲荷社

裏参道口(西口)鳥居

地主神社 【重文】 東山区清水1丁目317

 地主神社は清水寺の鎮守社で本殿左奥、清水の舞台を出るとすぐ左手に鎮座している。




 創建年代は遠く神代に遡り、本殿前の「恋占いの石」は縄文時代から伝わると言われている。 現在ある社殿は寛永十年(1633)三代将軍徳川家光によって再建された。 奈良時代の双堂という最古の建築様式を残す本殿は拝殿、総門、境内地と共に国の重要文化財に指定されている。
 縁むすびの神さま大国主命を主祭神として、その父母神、素戔嗚命・奇稲田姫命、さらに奇稲田姫命の父母神、足摩乳命(あしなずちのみこと)・手摩乳命(てなずちのみこと)を正殿に祭祀され、三代続きの神々をお祀りしていることから、子授け安産の信仰も集めている。


祓戸社

大田大神と撫で大国

 祓戸社: 厄や悪運を除き、活力のある明るい心へと導いてくださる神様。 厄除大神さまがお持ちの水晶玉に軽く指を触れ、開運を祈るとよいとされている。
 撫で大国: 大国様のお体を撫でると、その箇所に応じてご利益が頂けるそうだ。


霊明神社 東山区清閑寺霊山町25

 維新の道を登り京都霊山護国神社の先まで足を延ばすと坂道の頂上に道路を跨ぐ大きな鳥居が建っている。 鳥居をくぐった先左手に霊明神社がある。




 霊明社は文化六年(1809)初代・村上都ト(くにやす)が正法寺塔頭・清林庵所有の山林1000坪を買い受け建立された。 徳川政権下で神道による葬式、神葬祭を断行した。
 当地は、招魂社・招魂祭の起源の地であり、維新後、東京招魂社・靖国神社へと引き継がれた。
 祭神は本社に、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、熊野三柱大神として、菊理媛尊(くくりひめのみこ)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(こととけおのみこと)。  相殿に天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、經津主命(ふつぬしのみこと)。  末社に、猿田彦御神石を祀る。

観亀稲荷神社 東山区祇園町北側347ー101

 京都駅前のバスターミナルD2乗場から[100:清水寺・銀閣寺行]に乗り、「祇園」バス停で下車。 そのまま東大路通を北上し祇園会館先で左折し進むと少し先右手に鎮座している。




 江戸時代、この地には膳所藩京屋敷があり、現在の境内付近にはその中庭があったという。
享保三年(1718)、本多康慶の子・康命(膳所藩五代藩主)は父の遺言により、御所火の番の藩内で火を出しては恐れ多いとして、火伏せの神・遠州秋葉山の秋葉権現を膳所茶臼山に勧請した。 さらにその分霊を当地に遷祀した。 創建当初、付近一帯は竹薮であり、伐り開く際に亀が出て歓んだとされ、「観亀、歓亀、歓喜神社」とも呼ばれたという。
 祭神は、加具都智命(かぐつちのみこと)、宇賀御魂命(うかのみたまのみこと)を祀る。
 火伏せ(防火)の信仰を集めており、花街・祇園東界隈の氏神として「観亀(かんき)さん」と呼ばれ親しまれている。

辰己神社 東山区新橋花見小路西入ル元吉町

 新橋通りと白川南通りの交差する白川に架かる巽橋の傍に鎮座している。




 辰巳神社は、その名のとおり、御所の辰巳の方角の守護神として祀られた。
 祭神は辰巳大明神(たつみ だいみょうじん)を祀る。
 「祇園のお稲荷さん」「辰巳大明神」「辰巳稲荷」などとも呼ばれている。芸能の稲荷になる。


辰己神社創建の言い伝え

 辰巳大明神の横の巽橋には狸が住んでいて、橋を渡る人を騙して川の中を渡らせるという悪戯をしていたため、困った人々が狸を祀る祠を建てたところ悪戯が収まったのだという。


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