事事関心! 神社探訪:
[ 京都市上京区 ]
京都市上京区                2022/11/02(水)更新
探訪神社一覧

 京都市上京区にて探訪参拝した神社をまとめた。

NO.神社名住所拝観期日備考
 01 猿田彦神社 上京区上御霊前町489 2014/10/23 
 02 上御霊神社 上京区上御霊竪町495 2014/10/23 
 03 白雲神社 上京区京都御苑内 2013/10/01 
 04 宗像神社 上京区京都御苑内 2013/10/01 
 05 厳島神社 上京区京都御苑内 2013/10/01 
 06 晴明神社 上京区堀川通一条上ル806 2013/10/01 
 07 護王神社 上京区桜鶴円町 2013/10/01 
 08 菅原院天満宮神社 上京区堀松町408 2013/10/01 
 09 首途八幡宮 上京区桜井町102-1 2013/10/01 
 10 北野天満宮 上京区馬喰町 2013/10/01 
 11 大将軍八神社 上京区西町3-48 2013/10/01 
 12 霊光殿天満宮 上京区徳大寺殿町365 2015/09/29 
 13 福長神社 上京区福長町538 2015/09/29 
 14 岩上神社 上京区大黒町689 2019/09/23 
 15 水火天満宮 上京区扇町722-10 2019/09/23 
 16 白峯神宮 上京区飛鳥井町261 2019/09/23 
 17 幸神社 上京区幸神町303 2019/09/23 
 18 梨木神社 上京区寺町通広小路上ル染殿680 2019/09/23 
 19 安楽寺天満宮 上京区御前通西裏上ノ下立売上ル北町 2022/11/02 
 20 玉房稲荷大明神 上京区行衛町,天神道下立売通上ル西側 2022/11/02 

【履歴】
・ 2022/11/02(水): 11/02 円町駅〜大将軍六神社を探訪  ・ 2015/10/01(木): 09/29 「今出川」駅付近を探訪
・ 2019/09/28(土): 09/23 千本今出川から東へ探訪    ・ 2014/10/23(木): 猿田彦神社、上御霊神社を参拝
                             ・ 2013/10/05(日): 作成

猿田彦神社 上京区上御霊前町489

 地下鉄烏丸線「鞍馬口」駅で下車、1番出口から出て烏丸通を南へ向かう。40mほど先左手の上御霊前通りへ折れると、15mほど先右手に神社がある。


鳥居

社殿

 猿田彦神社は、今では小社だが、かつては広大な境内で、将軍家より神事料として小山郷柏木田が寄進されていた。 応仁の乱以後も度々火災に遭い、現在の地に移されたのは寛政五年(1793)のことである。
 桓武天皇はこの神の託宣によって平安遷都を決意され、延暦十二年(793)勅願によって社殿を造営されたと伝わっている。 永徳三年(1383)の造営には勅使が差遣され,足利将軍義満も奉幣し,御神楽が奉納された。
 祭神は猿田彦大神と天孫降臨の途上相対して霊力を競いあった天鈿女命(あめのうずめのみこと)の2座で、皇居造営に当たっては、この社の土でもって地鎮の神事を執り行われていた。

上御霊神社 上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495

 猿田彦神社の先70mほどの処に鎮座している。


鳥居

四脚門

本殿

 平安遷都にあたり延暦十三年(794)桓武天皇が平安京の守り神として崇道天皇(早良親王)の御神霊を祭ったのが当神社の起こりである。 其後仁天皇、清和天皇の時代に、井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫の神霊を合祀している。 その後更に火雷神と吉備聖霊とを併祭し、俗に「八所御霊」又は「八所御霊大明神」と称された。
 本殿は、享保十八年(1733)寄進の内裏賢所御殿の由緒ある遺構を昭和45年に復原したもの。
 四脚門(南門)は伏見城の四脚門を移築されたものと伝えられている。


舞殿

絵馬所


 絵馬所は宝暦年中(江戸時代中期)寄進された内裏賢所権殿を絵馬所につくり改めたものである。 皆川淇園(みながわきえん)・小林雪山等著名画師の作品が掲げられている。


白雲神社 上京区京都御苑内



 地下鉄烏丸線「丸太町」駅下車、徒歩9分。
 琵琶を家職とする西園寺家の公経が別荘北山第(のち、同地に金閣寺が建立される)を造営する際、妙音堂を建てる。 その後、何度かの変遷を経て、明和六年(1769) 現在の地である西園寺邸内に再興され、禁裏御祈祷所になったという。
 明治時代、公望が開いた私塾「立命館」もこの地にあり、その名は立命館大学に継がれた。

宗像神社 上京区京都御苑内



 地下鉄烏丸線「丸太町」駅下車、徒歩9分。
 延暦十四年(795) 太政大臣藤原冬嗣が小一条院の邸宅に筑前の宗像神社を勧請したもの。
 南側正面の鳥居をくぐると、右手に花山稲荷社、左手に京都観光神社がある。 さらに参道を進むと正面に拝殿と本殿が、その左手に摂社が順に少将井社、繁栄稲荷社、琴平神社と並ランでいる。

厳島神社 上京区京都御苑内

厳島神社

九條池と拾翠亭

 九條池と拾翠亭は、五摂家の一つであった九條家の屋敷内に設けられた庭園の遺構だ。 拾翠亭の前面に広がる池は九條池と呼ばれており、安永七年(1778)頃、東山を借景とし、拾翠亭からの眺めを第一につくられたといわれている。
 厳島神社は九条池に祀られ,池の弁天さんの名でも知られている。 平清盛が母祇園女御のために,兵庫の築島に安芸の厳島神社を勧請したのが始まりと伝えられており,それが室町時代の後期に足利義晴将軍によって,細川高国の邸内に移され,さらに明和八年(1771)九条道前が,その邸内に移した。 祭神は宗像三女神と祇園女御である。笠木を唐破風形にした石鳥居は,京都三珍鳥居の一つで,重要美術品に認定されており,清盛が厳島に建立したとの説もあるが,室町時代の作のようだ。

晴明神社 上京区堀川通一条上ル806

 地下鉄烏丸線「今出川」駅下車、今出川通を西へ750mほど先へ向かうと堀川今出川交差点に出る。この交差点を左折して堀川通りを南下すると200mほど先にある。


一の鳥居

一条戻り橋(モニュメント)

二の鳥居

 晴明神社は晴明公の屋敷跡であり、天文陰陽博士として活躍していた拠点でもあった。 晴明公が亡き後、一条天皇は晴明公の遺業を尊み、そして晴明公は稲荷大神の生まれ変わりであるということで寛弘四年(1007)その御霊を鎮めるために晴明神社を創建した。 古い資料によれば東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売という広大な地域が神社の土地であったとされている。 ところが、応仁の乱の後豊臣秀吉の都造り、度々の戦火によってその規模は縮少。そして、古書、宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続く。 そこで、地元の氏子が中心となり各式年祭、つまり嘉永六年、明治十一年、明治三十六年、昭和三年に整備改修が行われた。
 一ノ鳥居を潜ってすぐ左手に「旧一条戻り橋」がある。実際に使われていた欄干を使って橋が再現されている。


本殿

安倍晴明像

厄除桃

 本殿前には「厄除桃」、「安倍晴明」の像がある。なお、桃は古来より魔除けの果物だったそうだ。


護王神社 上京区烏丸通下長者町下る桜鶴円町

 地下鉄烏丸線「丸太町」駅下車、徒歩7分。烏丸下長者町交差点を挟んで護王神社がある。




 護王神社は京都御所の西側、烏丸通に沿いに鎮座する神社で、平安京の建都に貢献された和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を祀っている。 確かな創建年は伝承されておらず、もとは洛西の高雄山神護寺の境内に清麻呂公の霊社として祀られ、古くから「護法善神」と称されていた。 江戸時代末の嘉永四年(1851) 孝明天皇が清麻呂公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けれ、明治七年(1874)には「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられた。 明治十九年(1866) 明治天皇の勅命により、華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門(はまぐりごもん)前の現在地に社殿を造営し、神護寺境内から遷座。後に姉君の和気広虫姫も主祭神として合わせ祀っている。




 ここには狛犬のかわりに猪が置かれている。 これは和気清麻呂公が宇佐へ配流の祭に、道鏡から差し向けられた刺客に襲われた時に、どこからともなく300頭の猪が現れ難を逃れたという説と、 皇統をお守り出来たお礼に宇佐八幡へのお礼参りに向う際に、どこからともなく300頭の猪が現れ、八幡宮までの十里の道を案内したという説がある。 このことから、公を救った猪を霊猪と称え拝殿前に雌雄一対の猪が対峙しているほか、境内には猪に因むものが多くあり、いのしし神社とも呼ばれている。

菅原院天満宮神社 上京区烏丸通下立売下る堀松町408

 護王神社の次は300mほど先にある菅原院天満宮神社だ。烏丸通を更に南へ向かう。烏丸下立売交差点には聖アグネス教会がある。そしてその先が菅原院天満宮神社だ。




 菅原氏の邸宅「菅原院」があったところで、菅原道真、その父祖が祀られる。 菅原道真の父是善ら祖父以来三代が居住し、道真生誕の地と伝えられる。 道真没後、その菩提を弔うために菅原院の地に歓喜光寺が建立され、境内には道真と父祖の小祠が祀られた。 歓喜光寺はその後六条河原院へ移るが、その小祠は残されて現在に至っている。 太宰府天満宮への遺蹟伝承地を結ぶ菅公聖蹟二十五拝の第1番になっている。 また、境内には菅公産湯の井戸等ゆかりの遺物がある。

首途八幡宮 上京区智恵光院通今出川上る桜井町102-1

 地下鉄烏丸線「今出川」駅下車、今出川通を西へ1kmほど先へ向かうと「今出川智恵光院」交差点に至る。 ここで右折すると50mほど先左手に鳥居が見える。


参道口/一の鳥居

二の鳥居

社殿

 大内裏の北東に位置するため王城鎮護の神とされ、元の名を「内野八幡宮」という。
 宇佐八幡宮を勧請したのが始まり伝えられ、誉田別尊(応神天皇)・比賣大神・息長帯姫命(神功皇后)を祀る。
 かつてこの地に金売吉次の屋敷があったと伝えられ、源義経が奥州平泉に赴くに際し、道中の安全を祈願して出立したといわれる。「首途(かどで)」とは、「出発」の意味で、以来この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。この故事により、特に旅立ち、旅行の安全の信仰を集める。

北野天満宮 上京区馬喰町

 地下鉄烏丸線「今出川」駅にて下車。ここから市バス51・102・203系統に乗車し、「北野天満宮前」バス停で降りるとすぐだ。


一の鳥居

楼門

三光門(中門)【重要文化財】

 「北野の天神さん」と親しまれている北野天満宮は、天暦元年(947)に創建され、平安時代に学者・政治家として活躍した菅原道真公をお祀りする全国に約一万社御鎮座する天神社・天満宮の宗祀の神社である。 菅公が殊のほか愛でられた梅と紅葉の名所でもある。
 中門は後西天皇御宸筆『天満宮』の勅額を掲げており、豊富な彫刻の中に日月星があるから「三光門」の名がある。


拝殿【国宝】

地主社

 本殿(【国宝】)は慶長十二年(1607)に豊臣秀頼が造営したもの。入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して1棟とする権現造社殿で八棟造と称され絢爛豪華な桃山建築である。
 地主社は北野の創建以前からの地主の神で、境内でもっとも古い社である。


東門【重要文化財】

北門

 東門は切妻造、銅葺の四脚門である。


大将軍八神社 京都市上京区一条通御前通西入3丁目西町48

 北野天満宮からは今出川通を渡り御前通に入り一つ目の一条通まで南下。右折して西へ200mほどのところ右手にある。


参道口

社殿

 大将軍八神社は平安京造営の際、陰陽道に依り大内裏(御所)の北西角の天門に星神「大将軍堂」を建て 方位の厄災を解除する社として創建された。
 創建当初は陰陽道のお堂として建てられた為「大将軍堂」と称し、江戸時代に入り大将軍村の鎮守社として祀られる様になった。 又、その頃からそれまでの北斗妙見信仰から太白精の信仰に移り暦神と習合して「大将軍八神宮」とも称した。
 祭神は古来の日本の神ではなく大将軍一神を祀っていたが、明治時代に「神仏分離令」によって神道を国教とし現在の形「素盞鳴尊、その御子五男三女神、並びに桓武天皇を合祀」となり、御子八神と暦神の八神が習合して以後社名は「大将軍八神社」という。

霊光殿天満宮 上京区新町通今出川下る徳大寺殿町365

 地下鉄烏丸線「今出川」駅にて下車。今出川通を西へ三辻、ここで左折し新町通を100mほど下ると右手に鎮座している。


参道口

拝殿

社殿

 寛仁二年(1018)菅原道真六世の孫、菅原定義が、九州配流の途中の道真が立ち寄った河内国若江の旧跡地に、創始したのが始まりと伝えられている。 その後、道真左遷の時に、天から一条の光が下ったという当地に移され、そのことから霊光殿と称するようになった。 若江家が代々の祠官として奉仕したが、応仁の乱で東寺に御神体を移した。 江戸時代になって絶えていた若江家が再興されると塔之段の若江家に再遷、さらに宝暦十一年(1761)現在地に移転した。 徳川家康が若江家再興に尽力したことから、寛永十三年(1636)当社に合祀されている。

福長神社 上京区室町通武者小路下ル福長町538

 地下鉄烏丸線「今出川」駅下車。今出川通を西へ一辻、室町通へ左折し下ると2ブロック目すぐの左手にある。


神社全景

社殿

 社名は、福井、綱長井の二神を合祀することによるが、稲荷神も合祀することから「福長稲荷」とも呼ばれていた。
 福井(さくいの)神、綱長井(つながいの)神、稲荷神を祭神として祀る。 福井神と綱長井神は,平安京大内裏内の神祇官西院(現在の大宮竹屋町辺)に祀られていた延喜式内社、宮中神の座摩巫祭神五座(生井神、福井神、綱長井神、波比伎神、阿須波神)のうちの二座である。
 現在の地に遷された経緯については、社伝によると天正年間、豊臣秀吉の聚楽第造営、あるいは廃城の際と伝えられている。 他方、天正二年(1574)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられる洛中洛外図屏風(狩野永徳筆)には、すでに現在地に福長神社が描かれている。
 天明の大火(1788)で焼失した後は小さな祠となったが、明治時代以降も水の神(屋敷内の井戸や泉の神)として地元の人々から篤く信仰されている。

岩上神社 上京区大黒町689

 「烏丸今出川」バス停より市営201甲などの市バスに乗り「今出川浄福寺」バス停へ。ここから浄福寺通を北へ約4分の処にある。




 伝えによれば、二条堀川付近にあった霊石が岩上通六角辺りに遷され、更に中和門院の屋敷の池の畔に遷されると、怪奇な現象が度々起きたと言われている。 子供に化けたという伝説にちなび、「禿童石」と呼ばれたこともあった。 困り果てた女官たちが、僧に相談し、現在の地に遷された。その際に「有乳山 岩上寺」と称されて以降、授乳、子育ての信仰を集めている。

水火天満宮 上京区扇町722-10

 京都地下鉄烏丸線「今出川」駅で下車し、今出川通を西へ約600m進み、堀川今出川交差点で右折し北へ約750mの処にある。


鳥居

社殿

 社伝によれば,延長元年(923)6月25日に神詫があって菅原道真の神霊を祀ったと云う。水火天満宮は水難火難除けの神として知られる。
 昭和二十七年、堀川通の拡張によって現在の地へ移った。



稲荷社他

登天石(とうてんせき)

 登天石は,菅公の薨後,雷火の災が重なったために法性坊尊意が宮中へ祈祷に向かう途中,鴨川が急に増水して渡れなかった。 そこで神剣を捧げて祈願をこめると,水面が二つに割れて石の上から菅公が昇天し,雷雨も止んだという。 その一片がこの石だと云う。

白峯神宮 上京区飛鳥井町261

 京都地下鉄烏丸線「今出川」駅で下車し、今出川通を西へ500mの処にある。




 明治天皇は、孝明天皇の遺志を継ぎ保元の乱により讃岐国へ配流になった崇徳天皇の慰霊のため、明治元年(1868)、讃岐の白峰陵より神霊を迎えて創建された。 明治六年(1873)には奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争いにより、淡路島に配流の淳仁天皇の神霊を迎えて合祀された。
 この地は蹴鞠、和歌の宗家飛鳥井家の邸跡で同家の守護神「まり精大明神」が祀られており、このため、球技愛好者に崇敬されている。
 祭神は崇徳天皇、淳仁天皇。




オガタマノキ(市・天然記念物)


幸神社 上京区幸神町303

 京都御所北東側にある。




 平安京創建時に桓武天皇により東北の鬼門除け守護神として御造営されたという。
 主祭神は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を祀る。


猿田彦神石

「猿田彦大神」石柱

 祭殿の右奥の見上げる位置に御幣をかついだお猿さんが北東のほうをじぃっと睨んでいる。


梨木神社 上京区寺町通広小路上ル染殿680

 京都御苑東側にある。





 明治十八年に創建された梨木神社は明治維新の功労者、三条実萬、実美、父子を祀り三条家の旧邸が梨木町にあったことにちなんで名付けられた。 実萬公は文化九年(1812)以来47年間、三代の天皇に仕え皇室の中興に尽くしたため幕府と対立し、その圧迫により一乗寺に幽居したが、翌年の文化十年(1859)に逝去した。 実美公は明治維新後に太政大臣に任ぜられたが、明治二十四年に逝去し正一位を贈られ大正四年に父を祀る梨木神社に合祀された。
 祭神は三條實萬、三條實美。

安楽寺天満宮 上京区御前通西裏上ノ下立売上ル北町

 JR嵯峨野線「円町」駅下車、駅北側の丸太町通を東へ進むと西大路通と交差する「円町」交差点に出る。西大路通を真っ直ぐ横切り、更に東へ進む。 次の信号のある天神通との交差点に至ったら左折し、天神通を北へ進み左手に北町集会所がある所まで進む。 安楽寺天満宮は集会所の北側の道に入った処にある。




 延喜五年、菅原道真の死後その従者が大宰府から帰京し、従者の出自であった右京一条二坊一保八町に道真御自作の木像を祀った。 延喜十九年には醍醐天皇の勅命により安楽寺境内に太宰府天満宮が造営された。 しかしながら明治の廃仏毀釈により安楽寺は廃寺になり、明治六年に北野天満宮内に遷座し、宝物や社殿を移した。 さらに近年、旧跡地に現在の安楽寺天満宮が再建された。現在では太宰府天満宮だけが残る。
 北野天満宮の神域には、七つの「保」と呼ばれる地域があり、"一之保"から"七之保"まで七つの天満宮が鎮座していた。 各保には、北野神人という神事に奉仕する人々が居住し、神饌を供えていた。 安楽寺天満宮は「一之保」にあたり、その境内には「一之保天満宮旧蹟」を示す石標がある。
 「安楽寺天満宮」という名称は、延喜三年、道真が大宰府で死去した際、「私の亡骸は牛の車に乗せて、人に引かせずに、牛が自分で行くところで止めよ。」と遺言し、その通り牛が止まったところを安楽寺として道真を葬ったことに由来する。
 祭神は菅原道真を祀る。




 摂社・末社として熊鷹稲荷社、金咲稲荷社、一之保天満宮、不動石がある。


玉房(たまふさ)稲荷大明神 上京区行衛町,天神道下立売通上ル西側

 JR嵯峨野線「円町」駅下車、駅北側の丸太町通を東へ進むと西大路通と交差する「円町」交差点に出る。西大路通を真っ直ぐ横切り、更に東へ進む。 次の信号のある天神通との交差点に至ったら左折し、天神通を北へ進み下立売通を過ぎるとすぐ左手にある。



 玉房稲荷大明神の地には、かつて神仏習合の五ノ保社(満願寺)があった。
 祭神は、相殿の五ノ保天満宮に菅原道真、玉房稲荷社に倉稲魂命を祀る。
 平安時代の延喜三年(903)、太宰府にて菅原道真が亡くなり、その後、道真に同行し、後に帰京した人々が道真を祀る七保という7つの御供所(北野御供所)を創った。 一ノ保社(安楽寺)、二ノ保社、三ノ保社(長宝寺)、四ノ保社(新長谷寺)、五ノ保社(満願寺)、六ノ保社(阿弥陀寺)、七ノ保社があり、右京一条から三条界隈に設けられた。


関連コンテンツ

inserted by FC2 system