事事関心! 神社探訪:
[ 京都市中京区 ]
神社探訪: 京都市中京区           2020/10/31(土)更新
探訪案内

 2回目は京都御所を参観した後、二条城へ向かうため地下鉄東西線の駅を求めて商店街が続く寺町通を丸太町通から御池通までぶらつき、通りにある下御霊神社に参拝した。
 3回目となる今回(2019/09/24(火))は神護寺参拝の帰りに時間の余裕があったので御金神社に参拝した。 続いて4回目となる2020/10/25(日)には再び御所八幡宮を訪れ、更に足を延ばし白山神社・岬神社に参拝。

NO.神社名住所拝観期日備考
 01 錦天満宮 中京区新京極通四条上中之町537 2012/09/28 
 02 御所八幡宮 中京区御池通高倉東入亀甲屋町594-1 2020/10/25 
 03 下御霊神社 中京区寺町通丸太町下ル 2013/10/01 
 04 御金神社 中京区押西洞院町618 2019/09/24 
 05 式内隼神社 中京区壬生梛ノ宮町18-2 2019/09/24 
 06 梛神社(元祇園社) 中京区壬生梛ノ宮町18-2 2019/09/24 
 07 白山神社 中京区麩屋町通御池上上白山町243 2020/10/25 
 08 岬神社 中京区蛸薬師通河原町東入備前島町317-2 2020/10/25 

【履歴】
・2020/10/31(土): 10/25(日)御所八幡宮・白山神社・岬神社に参拝
・2019/09/28(土): 09/24(火)御金神社、式内隼神社、梛神社参拝
・2012/10/10(木): 10/01(火)探訪。

錦天満宮 中京区中之町537

 阪急京都線「四条河原町」駅3番出入口より新京極商店街を北へ120mほどのところにある。




 長保年間(999〜1004)、菅原道真公の旧邸菅原院の旧殿を、源融公の六条河原院跡地に移し、歓喜寺とした。 その際道真公の霊を祀って鎮守社とし、正安一年(1299)には時宗善導寺を迎え、寺は歓喜光寺とした。 天正年間(1573〜92)には、豊臣秀吉の都市計画のため、現在の所(錦小路東端、社名の由来となった)に移った。 明治の神仏分離令により歓喜光寺別当寺(神護寺)と分離、寺は東山に移り、神社のみが残った。
 錦天満宮境内地には源融公を祭神とする塩竃社、床浦社・日ノ出稲荷社、白太夫社などが祀られている。

御所八幡宮 中京区御池通高倉東入亀甲屋町594-1   [2020/10/25(日)更新]

 地下鉄「烏丸御池」駅出口3より御池通を東へ徒歩約1分(約150m)。




 もと御池堺町西南角御所八幡町にあったが、太平洋戦争中、御池通の強制疎開によってこの地に移転した。
 この八幡社を「御所八幡宮」と呼ぶのは、足利尊氏が邸内の守護神として勧請したと伝えられる由緒による。 尊氏の法名によって「等持寺八幡」とも、また「高倉八幡」とも呼ばれて親しまれてきた。
 祭神として応神天皇、神功皇后、比売(ひめ)神の三神を祀る。


高良社

初音稲荷

猿田彦社・大宮比賣社・金毘羅社

天満宮社

 高良社は、2012年に伺った時には境内正面奥に他社と並んでいたが、今回伺ったら本殿脇に鎮座していた。

下御霊神社 中京区寺町通丸太町下ル

 地下鉄「丸太町」駅で降り、3番出口から烏丸通を丸太町通との交差点まで北上し、丸太町通へ右折する。 丸太町通を東へ進み、寺町通との交差点に達したら右折して寺町通に入るとすぐ左手にある。
 伺ったときは、境内のベンチに外人の娘さんが一人座り休んでいた以外人気はなかった。


鳥居と表門

舞殿

社殿

 社伝によると、大同二年(809)不運の内に亡くなった伊予親王(桓武天皇の皇子)とその母の藤原吉子の霊を慰めるため承和六年(839)に仁明天皇によって創建されたという。 もとは、京極の東にあった下出雲寺の鎮守として祀られ、後に、新町近衛に移された。 天正十八年(1590)豊臣秀吉の寺社整理に伴い現在地へ転地した。
 本殿は寛政期に仮皇居の内侍所(賢所)を、表門は仮御所の建礼門をそれぞれ移築したものとのこと。
 御所の鎮守として御霊八所神を祀っている。

御金神社(みかねじんじゃ) 中京区押西洞院町618

 市営地下鉄烏丸線「烏丸御池」駅で下車し、御池通を西へ進み、西洞院通に右折すると、約50mほど先左手に鎮座している。




 全国唯一の"お金の神様"である。
 伊邪那岐、伊邪那美、御二柱神の皇子にして、金山毘古命を奉る五元陽交(天の位)の第一位の神で金乃神、金乃類を司り給う神で、神は民家にあって密かに祭祀せられていたが、明治十六年(1883)今の名を附して社殿を建立し、がんらい金神様の愛称で親しまれ、氏子と崇敬者で祀られるようになった。
 鉱山、鉱物の神として人間の営みの中で用いられる全ての金属類、昔は鏡や刀剣類の武具、農耕器具としての鍬等、現在では鉱工業、農産業の大型機械から家庭の道具類や金属類、全てに亘り、特に通貨として用いられる金、銀、銅の御金を護り給う事から、近年は資産運用の神として証券類や不動産、造作、転宅、方位、厄除け、また旅行中の無事安全をも護り給う大神として、広く崇められている。

式内隼神社 中京区壬生梛ノ宮町18-2

 四条通と坊城通の交わるところ、市バスのバス停前に鎮座している。




 隼神社は、式内社・隼神社に比定されている古社で、貞観二年六月十五日、従五位下の神階を授けられ貞観七年、貞観十年、貞観十六年と級階を累進して従四位上となった神社。 延喜の制においては大社に列し、四度官幣を受けたという。大正七年(1918)、蛸薬師坊城からこの地に移祀された。

梛神社(元祇園社) 中京区壬生梛ノ宮町18-2

 四条通と坊城通の交わるところ、市バスのバス停前に鎮座している。




 貞観十一年(876)京都に疫病が流行したとき、牛頭天王(素戔嗚尊)の神霊を播磨国広峰から勧請して鎮疫祭を行ったが、このときその神輿を梛の林中に置いて祀ったことがこの神社の始まりであるという。
 後に神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀したとき当地の住人は花を飾った風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送った。これがのちの祇園会の起 源といわれる。 また、当社は八坂神社の古址にあたるので元祇園社と呼ばれる。 維新の頃は田圃の中の一小祠であったが、明治七年(1874)と昭和四年(1929)の復興を経て現在に至った。
 素戔嗚尊を主神とし、宇賀御魂命、伊弉冉命、誉田別尊などを配祀する。

白山神社 中京区麩屋町通御池上上白山町243

 地下鉄東西線「京都市役所前」駅より御池通りを西へ麩屋町通まで行き、ここで北へ折れると少し先右手に鎮座している。




 創建は平安時代末期、乱暴狼藉を働らいた平家の武将に怒った僧兵が神輿を担いで内裏に乗り込んで際に捨てられた神輿を近所の人たちが祀ったのが白山神社の起こりだと云う。
 祭神には菊理比売(きくりひめ)を祀つる。



 江戸時代の後桜町天皇が歯痛で悩んでいたところ、女官が白山神社から持ち帰った神橋で神塩を歯に付けたところ治癒したという。縁結びと歯痛治癒のご利益あり。
 猿田彦大神、白菊大神、天満宮がそれぞれ境内末社として祀られている。


岬神社 中京区蛸薬師通河原町東入備前島町317-2

 阪急電鉄京都線「京都河原町」駅で下車し3A出口から河原町通りを北へ300m進み、蛸薬師通りへ右折して東へ100mほど進むと左手に鎮座している。(徒歩約7分)




 貞和四年(1348)に鴨川西通りの中洲の岬に祠を建てて祀られたのが始まり。 その後江戸初期になり備前島町に建てられた土佐藩京屋敷内に遷座の際、倉稲魂命・石栄神の二座を祭神としたため、通称「土佐稲荷・岬神社」と称された。
 先に先斗町・木屋町の町衆などからは、近隣の産土神として崇敬されたが、明治維新になり土佐藩京屋敷が売却される際、一時、下大阪町に奉遷。 その後、神社の衰微を憂い、備前島町の近江屋(初代・井口新助)が元土佐藩用人邸を買い取り、明治二十年遷座したのが現在地である。
 祭神は倉稻魂神、猿太彦命、大宮乃賣命、配祀として石榮神社を祀る。



 岬神社は、もともと京都の土佐藩邸にあったことより土佐藩士からの信仰も厚かったと伝えられている。 土佐藩御用達醤油商近江屋の二代目主人「井口新助」は坂本龍馬が近江屋に寄宿した時の主人にあたる。 井口新助は、土佐藩士と繋がりが深く、部屋や金銭などを支援していた。 近江屋は、坂本龍馬と中岡慎太郎が賊に襲われた場所だ。 襲撃は、井口家が1階の部屋で食事中だった時に行われた。
 なお岬神社の境内には文久三年(1863)坂本龍馬が脱藩の罪により7日間謹慎した際、常に凭れていたいう居室の柱の遺構もあった。


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