「京都」は学生時代に一人旅をしたのが最初で最後なので、金閣寺・銀閣寺程度しか記憶に残っていない。
そんなわけで、ジックリ楽しみたいと思い久しぶりに再訪した。
二回目(2014/09/28-30)は宿を五条に変えたので、近場にある前回訪れきれなかった市比売神社、京都大神宮を訪ねた。
三回目は(2015/09/27)地下鉄「四条」駅から「五条」駅までの西側を巡った。
四回目は(2022/11/02)JR京都駅を起点に西大寺通周辺を散策し若一神社を参拝した。
NO. | 神社名 | 住所 | 拝観期日 | 備考 |
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01 | 道祖神社 | 下京区南不動堂町 | 2012/09/30 | |
02 | 文子天満宮 | 下京区天神町400 | 2012/09/30 | |
03 | 市比賣神社 | 下京区西入塩竃町593 | 2014/09/29 | |
04 | 火除天満宮 | 下京区貞安前之町613 | 2014/09/29 | |
05 | 京都大神宮 | 下京区貞安則之町622 | 2014/09/29 | |
06 | 日吉神社 | 下京区山王町534 | 2015/09/27 | |
07 | 繁昌神社 | 下京区繁昌町308 | 2015/09/27 | |
08 | 大原神社 | 下京区西善長寺町1355 | 2015/09/27 | |
09 | 火尊天満宮 | 下京区風早町559-1 | 2015/09/27 | |
10 | 北菅大臣神社 | 下京区菅大臣町190 | 2015/09/27 | |
11 | 菅大臣神社 | 下京区菅大臣町189 | 2015/09/27 | |
12 | 住吉神社 | 下京区住吉町481 | 2015/09/27 | |
13 | 五条天神社 | 下京区天神前町351 | 2015/09/27 | |
14 | 松原道祖神社 | 下京区藪下町34 | 2015/09/27 | |
15 | 亀山稲荷神社 | 下京区中野之町 | 2015/09/27 | |
16 | 新玉津嶋神社 | 下京区玉津島町309 | 2015/09/27 | |
17 | 若宮八幡宮 | 下京区若宮町 | 2012/09/30 | |
18 | 若一神社 | 下京区七条御所ノ内本町98 | 2022/11/02 | |
19 |
【履歴】
・ 2022/11/02(水): 西大寺通周辺を散策し若一神社を参拝したので更新
・ 2014/10/23(木): 市比賣神社,京都大神宮を参拝したので更新
・ 2012/09/30(日): 作成
JR京都駅の北側を東西に走る塩小路通りを西へ歩くこと数分で広い堀川通が見えてくる。 その一筋手前(オムロン本社ビル先)で左に曲がると、すぐの所にある。
全景 |
道祖神像 |
宇多天皇の居所である亭子院の鎮守社として祀られた。豊臣秀吉の街路整理により南不動堂町に遷座する。 猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)と天鈿女命(アメノウズメノミコト)の夫婦神を祭神とし、縁結びの御利益があると信仰されている。
渉成園に沿う間ノ町通に立つ看板で神社への案内表示があり、通りを上数珠屋通を越えて北上すると直ぐの所にある。
文子天満宮は、菅原道真の乳母だった多治比文子の住居跡に建立された天満宮で、菅原道真公を「天神」としてわが国で最初におまつりをした神社であることから、「天神信仰発祥の神社」と位置づけられており、北野天満宮の前身と言われている。
京阪電鉄「清水五条」駅で降り南口から出ると目の前に五条大橋がある。市比賣神社は橋を渡り、河原町通にぶつかったら左折して河原町通を南へ進むと250mほど先右手にある。
鳥居 |
社祠 |
創建は、桓武天皇の御代延暦十四年(795)に、京都の左右両市場の守護神として、当時の左大臣藤原冬嗣公が両市社領内の堀川の西、七条の北(現在の西本願寺)に坊弐町を囲い、勅を奉じて勧請された社と伝わる。
天正十九年(1591)豊臣秀吉の時代、現在の地に移転鎮座された。
祭神は、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)・市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)・多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)・神大市比賣命(かみおおいちひめのみこと)・下光比賣命(したてるひめのみこと)である。
全て女神様を祀っていることから女性の守り神とされ、良縁・子授け・安産等にご利益があると信仰されている。
特に「女人厄除け」の神社として有名だ。
京阪電鉄「祇園四条」駅で降り四条大橋を渡り四条通を河原町へ。250mほど東へ進み、「藤井大丸」手前の寺町通へ南に折れる。70mほど先左手にある。
社標 |
社祠 |
天正七年(1579)、九州の兵乱を鎮めるために老神官が菅原道真の像を背負って京都に入り、六条通り周辺に祀ったのが始まりとされる。 その後、天正十五年(1587)に大雲院が開創される際に鎮守社となり、豊臣秀吉の京都改造によって大雲院とともに現在地に移転した。 慶長二年(1597)に一社建立となる。 幕末の蛤御門の変(1864年)で周囲の家屋が焼失したが、火除天満宮は類焼を免れたため「火除けの神」として信仰されている。
京阪電鉄「祇園四条」駅で降り四条大橋を渡り四条通を河原町へ。250mほど東へ進み、「藤井大丸」手前の寺町通へ南に折れる。100mほど先左手にある。
鳥居 |
本殿 |
手水舎 |
伊勢神宮の遥拝所 |
明治六年(1873)伊勢神宮の内宮・外宮より、天照皇大神、豊受大神の分霊を勧請し、諾冊二神、八柱大神、大地主神、倭比売命を祀る。
当初は、伊勢神宮の布教機関、神宮教の京都教会所として創建された。
以後、第122代・明治天皇皇女、親王、大臣などの参拝が続いた。
明治八年(1875)に社殿を建立した。
祭神は、伊勢神宮の内宮より勧請された天照皇大神、外宮よりの豊受大神、相殿神に伊弉諾尊、弉冊尊。
八柱大神として神皇産霊神(かみむすびのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、魂留産霊(たまつめむすび)、生産霊(いくむすび)、足産霊(たるむすび)、大宮売神(おほみやのめのかみ)、御膳神(みけつかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)。ほかに、大地主神(おほとこぬしのかみ)、倭比売命(やまとひめのみこと)、崇敬者の祖霊を祀る。
本殿は、五摂家のひとつ一条家の玄関・書院を移築した。唐破風屋根は日本有数といわれている。
また、手水舎の水盤は、伏見城より移築されたという。
地下鉄烏丸線「四条」駅にて下車、6番出入口より仏光寺通を西へ100m、室町通との交差点手前にある。
日曜日10時前に伺ったが門は閉められており参拝できなかった。
創建は平安時代後期、第73代の堀河天皇の時で、比叡山の僧兵が起こした強訴で僧兵たちが日吉社より持ってきた神輿をこの地(山王の森)に置いて帰ったことから、土地の人たちが祟りを恐れ祠を建て祀ったのが最初。
その後、日吉社から三座を勧請したという。
祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、玉依姫命荒魂(たまよりひめのみことあらみたま)の三座を祀る。
日吉神社から室町通へ左折し、南へ下り高辻通で右折、西へ20mほどの処にある。
延暦年間(901-922)、藤原繁成の邸内にあった功徳池(くどくいけ)の中島に、安芸宮島より市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神を勧請したのが始まりという。
明治以前は功徳院と呼ばれ、真言宗の僧が管理していたが、神仏分離令により神社だけが残ったと伝えられている。
「繁昌の宮」「京の弁財天」、「班女(はんにょ)ノ社」ともいわれている。
班女とは弁財天の別名・針才女(はりさいじょ)の転訛によるという。
祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三姫神を祀る。
地下鉄烏丸線「四条」駅にて下車、4番出入口より少し北側の綾小路通を西へ約150m通りの右手にある。
日曜日10時前に伺ったが門は閉められており参拝できなかった。
室町時代、永正年間(1504-1520)、僧・顕興忍想の開基により、綾小路町室町西(下京区)に善長寺が建立された。(「坊目誌」)。
大原神社は、境内に福知山・大原神社(おおばらじんじゃ、天田郡三和町)より、鎮守社として勧請された。
大原大明神、瘡神(くさがみ)さんとも呼ばれている。
祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)、相殿に八品大神(はっぽんおおかみ)、事代主神(ことしろぬし)を祀る。
地下鉄烏丸線「四条」駅にて下車、4番出入口より少し北側の綾小路通を西へ約600m油小通路との交差点左手手前角にある。
創建、変遷の詳細は不明。
中世以来、社名の由来は、町の東北角にある愛宕神社が「火伏(ひぶせ)の社」といわれたことに由来するという。
地下鉄烏丸線「四条」駅にて下車、6番出入口より烏丸通を南へ20m、右手仏光寺通へ右折、仏光寺通を西へ約250m、右手にある。
創建、変遷の詳細は不明。現在、小社が残るのみになっている。
かつて、境内南に近い菅大臣神社と地続きだったという。「紅梅殿神社」とも呼ばれた。
祭神は菅原道真の父・是善を祀る。御霊社。
地下鉄烏丸線「四条」駅にて下車、6番出入口より烏丸通を南へ下り、「烏丸高辻」交差点で右折、高辻通を西へ約250m、右手にある。
菅大臣神社は菅原道真を祭神とする神社で、この地は菅原道真の旧宅跡で、道真以前から菅原家の邸宅地であった。 道真が幼少のころ研学したところと云い、それに因んで社殿を造営したのが起こりである。古くは天神御所または白梅殿とも云われた。
度々兵火にかゝり、鎌倉期には南北両社に分かれ、当社を天神御所、白梅殿社、北社を紅梅殿社と呼んでいた。
応仁の乱後慶長十九年(1614)に、 管家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王により再興され、明治維新まで曼珠院が管轄していたが、明治六年(1873)独立した。
この間、天明の大火、元治の兵乱で再度焼失するが、現本殿は明治の初めに天保六年(1835)造立の三間社流造という下鴨神社の旧殿を移築しその後幣殿を建立して、現在に至っている。
境内には火御子社、白太夫社、老松社、福部社、春崎稲荷社、三玉稲荷社など多くの摂末社がある。
地下鉄烏丸線「四条」駅にて下車、6番出入口より烏丸通を五条方向(南)へ向かう。 一辻目の高辻通に右折し進む。五辻目の醒ヶ井通との交差点の左手側にある。
住吉神社は歌道の神として信仰を集める。「住吉さん(すみよっさん)」とも呼ばれている。
祭神は天照皇大神(あまてらすおおみのかみ)、田霧姫神(たぎりひめのかみ)、底筒男神(そこつのおかみ)、中筒男神(なかつのおかみ)、表筒男神(うわつつのおかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)、武内宿禰命(たけしうちのすくね)。
末社の熊丸稲荷神社の祭神は速秋津比売大神(はやあきつひのおおかみ)。人丸神社には柿本人麻呂を祀る。
地下鉄烏丸線「四条」駅にて下車、6番出入口より烏丸通を五条方向(南)へ向かう。 二辻目の松原通に右折し進む。五辻目の西洞院通との交差点の左手向側にある。
社のある鴨川にかかる松原橋の西の土地は、鴨川の氾濫原であり、水神、雷神を鎮め疫病を防ぐ御霊社だった。
天使社、天使の宮、五条天神宮ともいわれた。
平安時代、794年、平安京遷都にともない、奈良北東部の大和宇陀郡より天神(あまつかみ)を勧請したといわれる。
祭神は、大自己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)。
農耕、病気退散の神、疫神、厄除け、医道の祖神、医薬、禁厭(きんえん、まじないの意)の神。
地下鉄烏丸線「四条」駅にて下車、6番出入口より烏丸通を五条方向(南)へ向かう。 二辻目の松原通に右折し進む。三辻目の新町通との交差点の左手向側にある。
創建の詳細、変遷は不明。
松原道祖神社は、五条の道祖神、首途の社(かどでのやしろ)とも呼ばれたという。
祭神は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)。
厄除開運、縁結び、夫婦円満、家内安全、子孫繁栄、商売繁盛、交通安全などの信仰を集める。
地下鉄烏丸線「四条」駅にて下車、6番出入口より烏丸通を五条方向(南)へ向かう。 二辻目の松原通に右折し進む。二辻目の室町通との交差点を過ぎ約50m先右手にある。入口には丹波国亀山藩京屋敷跡の石碑がある。
江戸前期に当地は芸州広島藩42万石、浅野氏松平安芸守の京屋敷でその後、丹波篠山藩五万石、形原松平紀伊守信岑の京屋敷となった。
信岑は寛延元年、丹波亀山藩五万五に転封になり、以後、歴代亀山藩主は幕府の要職に就き、京都火消役にもなり、譜代大名として京都監視の重責をはたした。
また、亀山稲荷神社は京都松原邸の珍守の神で、諸厄除災、商売繁盛、家庭円満に霊験あらたかと伝えられている。
地下鉄烏丸線「四条」駅にて下車、6番出入口より烏丸通を五条方向(南)へ向かう。 二辻目の松原通に右折し進むと80mほど先左手にある。
新玉津島神社は、平安時代末期〜鎌倉時代初期を代表する歌人の藤原俊成のゆかりの神社である。 文治二年(1186)に、玉津島神社に祀られている和歌の神様の衣通郎姫(そとおしのいらつめ)の分霊を、藤原俊成が自邸内に勧請したのが始まり。1183年に後白河法皇の院宣により藤原俊成は、この邸宅を和歌所とし、「千載和歌集」を編纂し始めた。江戸時代には、松尾芭蕉の師である北村季注が、約七年間この神社の宮司として住み、万葉集の注釈書を編纂した。 これらの由縁から今も多くの人が短歌、俳句、文章の上達祈願に訪れているそうだ。
若宮八幡宮 |
水盤 |
地下鉄烏丸線「五条」駅にて下車、8番口より出て「烏丸通」を南へ。東本願寺手前の「花屋町通」に右折し進み、300mほど先の「若宮通」で右折するとすぐ右手に鎮座している。
天喜五年(1058)に源頼義が後冷泉天皇の勅を奉じ、文武の神・長寿の神として、邸宅内に創建された。
六条八幡とも、左女牛八幡とも呼ばれていた。
平安時代、六条の地は堀川館をはじめ、頼義・義家の館、その東には後に義経が居を構えるなど、長く源氏の邸宅があった所で、
拾芥抄(1540年代)にも「八幡若宮義家宅」の書き入れがあるように、まさに「六条若宮は、かつて源頼義が邸宅の家向構えた堂に始まる」(古事談)なり。
JR京都線「西大路」駅で下車、改札口を出て左手を奔る西大路通を「西大寺八条」交差点まで北上すると交差点の斜向かいに若一神社が鎮座している。(徒歩約5分)
鳥居 |
社殿 |
若一神社の創建年は仁安元年(1166)、平清盛公が祀ったのが始まりという。
宝亀三年(772)、天王寺にいた威光上人が紀州熊野に参拝したときに、庶民の苦しみを和らげようと、若一王子の御分霊を持ち帰った。
そして、ご神体を背負ってこの地の森の中のお堂に泊まった際、御神意が下り、そのお堂の中にご神体を安置した。
その後、その御神体は土の中に入っていかれた。
時は流れて平安時代末期、六波羅に住んでいた清盛公が、その地に「西八条御所」と呼ばれる壮大な別邸を造営した。
仁安元年(1166)清盛公が熊野詣に行かれた際に「土中に隠れている御神体を掘り起こして奉斎せよ」との神のお告げがあった。
帰京し邸宅内を探していると、敷地の東にある築山が光を放ったので清盛公自らが掘ってみると、若一王子の御神体が現れ、邸宅内に社殿を造営して鎮守とした。
祭神は若一王子(にゃくいちおうじ)を祀る。五所王子(天照大神から始まり神武天皇に至るまでの系譜上の5柱の神々)の筆頭である天照大神のこと。
福徳稲荷社 |
弁財天社と長寿社 |
社頭の大楠 |
弁財天社(左)の祭神は市杵嶋姫命で芸能、音楽、福運がご神徳だ。
琵琶湖に浮かぶ竹生島に鎮座する宝厳寺弁財天堂からの勧請とのこと。
長寿社(右)の祭神は高砂の尉姥。社名の通り延命長寿、そして夫婦円満・子孫繁栄がご神徳である。
社前の楠の大樹は清盛公御手植と伝わる御神木である。そのご神木には「座敷わらし」が宿るという。
神供水 |
平清盛石像 |
「平清盛公西八条御所跡」石碑 |
清盛公が西八条第を造営した頃、この地は浅水の森と呼ばれた風光明媚な場所で、"浅水の森"と名付けられるほど、水が豊かに湧いていたという。
地下20mほどの処に水脈があるようで、今も一日中水が出、近隣の人が汲みに来る。
平清盛石像は太政大臣の衣冠束帯姿の像だ。平成二年の建立。
言い伝えによると仁安元年(1166)平清盛が土中に埋まった御神体を掘り起こすように御神託を受け、実際に掘ったところ土中から若一王子の御神体が発掘されたと云う。
その御神体を祀ったのが今の社殿(若一神社)で、平清盛は開運出世を願ったそうだ。
すると、仁安二年(1167)二月十日に平清盛は太政大臣に任命されて大出世したという。
このため、若一神社は「立身出世の神社」と言われている。
西大路通は若一神社のある処だけ神社を迂回するように湾曲している。
西大路通は昭和十四年(1939)に北大路通から九条通を南北に結ぶ大通りとして開通(拡張工事)した。
ただし工事の際、若一神社の前にある「平清盛公、御手植えの楠(平清盛が太政大臣になった時の記念に植樹)」を切ると祟りがあるとされたため、西大路通はこの区間だけ少し西へズラして開通することになった。