事事関心! 神社探訪:
[ 京都府宇治市 ]
京都府宇治市                2014/10/03(金)新規
探訪案内

 やっと平等院鳳凰堂の改修が終わったので、新装なった鳳凰堂を見たくて宇治を訪れた。 宇治には鳳凰堂以外に世界遺産に登録されている宇治上神社もあるので一緒に巡ることにした。

NO.神社名住所拝観期日備考
 01 宇治上神社 宇治市宇治山田59 2014/09/30 本殿修復工事中!
 02 宇治神社 宇治市宇治山田1 2014/09/30 
 03 縣神社 宇治市宇治蓮華72 2014/09/30 
 04 末多武利神社 宇治市宇治又振47 2014/09/30 

【履歴】
・2014/10/03(金): 09/30探訪。

宇治上神社 [世界遺産]                        宇治市宇治山田59

 京阪電鉄宇治線の終着駅「宇治」駅にて下車。駅前広場を通り、宇治橋東詰交差点を渡る。 宇治橋を右手に見て、宇治川に沿って上流方向(東南の方向)に続く道へと進む。 道の入口左手の店舗前に「右 ゑしん院 こう紹う寺」の道標が建っている。なんとなく歴史を感じるなー。
 宇治橋東詰交差点から200m強進むと左側斜めに入る道「さわらびの道」があるので、それを道なりに進むと宇治神社の横に出る。
 宇治神社を右手に見て"さわらびの道"を進むとすぐ奥に「宇治上神社」の赤い鳥居が見えてくる。 世界遺産の本殿を楽しみに鳥居を潜り境内へ入る。
 あれー!! 国宝の本殿が修復中! さらに、本殿前の狛犬も近づけないし、写真もキチンと撮れないなんて!


鳥居(明神鳥居型)

拝殿(工事中は仮本殿として使用中)【国宝】

 宇治上神社は神託を受けた醍醐天皇が延喜元年(901年)に社殿を築造したことに創まるという説があるが、詳細は明らかでないようである。 平安時代には現在の宇治神社、宇治上神社の両神社を合わせて正式名称の「宇治鎮守明神」や、醍醐天皇が平等院を訪れた折りに与えた神位「離宮明神」で呼称されていた。
 拝殿(【国宝】)は、鎌倉時代前期に伐採された桧が使用された単層切妻造の建物で、鎌倉時代の優れた建物遺構である。 また、本殿(【国宝】)は平安時代後期に伐採された木材が使われて、一間社流造りの三殿からなる。左右の社殿が大きく中央の社殿が小さい。 日本最古の神社建築である。なお、本殿内部の蟇股(かえるまた)は、醍醐寺薬師堂、中尊寺金色堂とともに藤原時代の三名蟇股のひとつに数えられる。
 祭神は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、応神天皇、仁徳天皇。
 拝殿の前に立つと目を引くのは「清めの砂」と呼ばれている円錐の盛り砂だ。 神様の依り代となるもので、八朔祭に奉納され、1年間神社を清めているそうだ。


摂社: 春日神社【重文】

宇治七名水「桐原水」

 摂社:春日神社は藤原氏ゆかりの神社で、祭神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)。
 拝殿の右に手水舎があり『桐原水』が湧き出ている。桐原水は宇治七名水のひとつに数えられる。他の6つの名水は無くなっている。


さわらびの道

 宇治川の宇治橋から川沿いから世界遺産の宇治上神社、源氏物語ミュージアムなど、源氏物語・宇治十帖ゆかりの地をめぐる散策道。
 さわらびの道の名称は紫式部作の「源氏物語」の内、宇治十帖に数えられる「早蕨(さわらび)」ゆかりの早蕨之古蹟(さわらびのこせき)に由来する。

宇治神社                      宇治市宇治山田1

 さわらびの道を戻り、宇治神社の境内に裏参道口より入る。
 宇治橋の上流宇治川の右岸、この辺りは応神天皇の離宮(桐原日桁宮:きりはらひけたのみや)跡でもあり、皇子の菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)の宮居の跡と伝えられている。


鳥居(明神鳥居型)

本殿【重要文化財】

拝殿(桐原殿)

 応神天皇が菟道稚郎子を天位に任命、王仁博士から儒教を学んでいた菟道稚郎子は、兄に天位を譲るため、死をもって節を全うした。 兄は仁徳天皇となり、菟道稚郎子の宮居に祠を建てて神霊を祀った。それが、宇治神社の始まりという。
 宇治神社は、宇治上神社と合わせて「宇治離宮明神」と称していたが、明治時代になり分離した。
 祭神は菟道稚郎子命。
 本殿は、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、檜皮葺の屋根を持っている。

 本殿をお参りすると鈴の紐の奥に首を後ろに向けた真っ白なウサギがいる。 このウサギは、「みかえり兎」というそうだ。
 菟道稚郎子が河内の国からこの地へ向かう途中で道に迷った際、1羽のウサギが現れて道案内をし助けたと伝えられている。 この由来のウサギを宇治神社では「みかえり兎」と呼んでいるそうだ。
 みかえり兎は、人々の人生を道徳の正しい道へと導く神さまのお使いとされている。

縣神社                       宇治市宇治蓮華72

 喜撰橋を渡り平等院のある側へ。橋から続く道を行くと大きな道に出るので、右折し道に沿って進むとすぐに平等院の南門がある。
 しかしながら、平等院見学の前に縣神社に寄り道しよう。通り過ぎて、100mほど先の四つ角の処に県神社があるので、先に参拝する。


鳥居(明神鳥居型)

社殿

神額「縣神社」

 創建時期は不詳であるが神代以来当地の守護神であったようだ。 平等院の鬼門にあたり、永承七年(1052)時の関白藤原頼道の平等院建立にあたり同院総鎮守とされた。
 祭神は木花開耶姫命とされている。木花開耶姫命は、別名吾田津姫(あがたつひめ)とも呼ばれており、それが当社名の由来とも言われている。
 現在の社殿は、昭和になってから建てられたものである。


県井戸


 鳥居を潜りすぐ左側、醴水舎の北に「県井戸」がある。この井戸は平安時代以来の歌枕で古歌にもしばしば詠まれ、社家蔵の古写本「波は満ま知ち登ど里り」によれば、「名所国府に云ふ、県あがたの井い、山城なり」とあり、「宇治郷県井を云ふ」とある。
 「都人 きてもをらなむ 蛙なく あがたのいどの 山吹の花」(後選集)


末多武利(みたふり)神社               宇治市宇治又振47

 京阪電鉄宇治線の終着駅「宇治」駅にて下車。駅前広場を通り、宇治橋東詰交差点を渡る。 宇治橋を右手に見て、宇治川に沿って東南の方向に続く道へと進む。 途中、「さららびの道」に入るとすぐに左手に末多武利神社が見えてくる。




 末多武利神社は、藤原忠文の怨霊を鎮魂する祠。
 忠文は、天慶三年(940)、平将門の乱を鎮圧するため征東大将軍として東国へ下った。 しかし、将門は、忠文が到着する前に藤原秀郷・平貞盛に討たれてしまったことから、大納言・藤原実頼は忠文に恩賞を与えなかった。 忠文は、そのことを深く恨んでいたという。
 天暦元年(947)六月二十六日、忠文が没すると、実頼の娘述子と長男敦敏が相次いで亡くなった。 これが忠文の怨霊に祟られたのだという噂がたち、その霊を慰めるために建てられたのが末多武利神社だという。


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