事事関心! 神社探訪:
[ 京都市右京区 ]
京都市右京区                2021/10/31(日)更新
探訪案内

 右京区第1回目は嵐山・嵯峨野を探訪し神社を参拝した。
 第2回目は妙心寺〜龍安寺を探訪し、途中で見つけた神社を参拝した。
 第3回目は太秦にある広隆寺を拝観した帰りに木嶋坐天照御魂神社と法金剛院を訪れた。
 第4回目はバスでアクセスして梅宮大社と松尾大社、月読神社を巡った。

NO.神社名住所拝観期日備考
 01 兒神社 右京区嵯峨釣殿町28 2015/09/28 
 02 車折神社 右京区嵯峨朝日町23 2015/09/28 
 03 野宮神社 右京区嵯峨野宮町1 2015/09/28 
 04 御髪神社 右京区嵯峨小倉山田淵山町10-2 2015/09/28 
 05 大井神社 右京区嵯峨天竜寺造路町36 2015/09/28 
 06 住吉大伴神社 右京区龍安寺住吉町1 2016/09/26 
 07 今宮神社 右京区花園伊町17 2016/09/26 
 08 木嶋坐天照御魂神社 右京区太秦森ヶ東町50 2017/09/27 
 09 梅宮大社 右京区梅津フケノ川町30 2021/10/27 

【履歴】
・2021/10/31(日): 10/27(水)探訪。
・2017/10/01(日): 09/27(水)太秦を探訪。
・2016/10/10(日): 09/26(月)妙心寺・仁和寺・龍安寺を探訪。
・2015/10/01(木): 作成

兒神社(ちごじんじゃ) 右京区嵯峨釣殿町28

 JR「京都」駅から山陰本線で「嵯峨嵐山」駅へ(約12分)。北口より駅前の道を120mほど北上して「丸太町通」(府道187号線)に出る。 右折して700mほど先の「広沢南野町」交差点まで進み、ここで左折して道なりに北上する。 500mほど先に広沢池があり、左手角に兒神社がある。


鳥居

社殿

 創立年代は不明、祭神は寛朝(かんじょう)大僧正の侍児という。
 寛朝大僧正は、成田山新勝寺を開創し、後にこの嵯峨広沢の地に遍照寺を建立した名僧である。 長徳四年(998)、この寛朝大僧正が亡くなると、大僧正の霊が遍照寺山腹の老松から龍となって静かに昇天して行くのが見えたという。 大僧正に仕えていた侍児は、悲嘆・悲泣して寛朝大僧正の後を追い、遍照寺山腹下に広がる広沢の池に身を沈めたと伝えられている。 その後、近在の人々がこの児を哀れに思い、その霊を慰めるためにこの社を創建、以来兒神社と称されるようになったという。
 この社について、弘化四年(1847)末春に嵯峨青護山人という人物が記している所によれば、女性が懐妊すれば必ずこの殿神に詣でて安産を願って生まれる子の智恵愛敬を祈ったと伝えられている。 そして神社の霊験は非常に著しく、昔からこの地域に五体健全、長命の人が多いのは祭神の御神徳による所と崇敬されてきたという。 尚、寛朝大僧正がこの広沢池畔で座禅した際に、傍らでいつも侍児が腰を掛けていたという石椅子が、境内に移されて拝殿右側に置かれている。 そして、何時の頃からか、神前で一心に祈願して、この石に座れば、必ず長命・安産・縁結びが叶うと伝えられるようになった。

車折神社(くるまざきじんじゃ) 右京区嵯峨朝日町23

 JR「京都」駅から山陰本線で「嵯峨嵐山」駅へ(約12分)、南口より駅前の道を約200mほど歩いて嵐電(京福電車)「嵐電嵯峨」駅へ。 ここから嵐電にて二駅目の「車折神社」駅まで約5分、下車すると駅の前にある。


一の鳥居

二の鳥居と拝殿

本殿前

 創建は文治五年(1189)。前身は清原頼業公の墓所に建てられた宝珠院で鎌倉時代前期に御嵯峨天皇から「車折」の名を贈られた。 これは、嵐山に向かっていた御嵯峨天皇の牛車が同社の前で故障したことが縁と云う。
 祭神は天照大神と平安時代後期の学者「清原頼業」公を祀っている。


芸能神社

 芸能神社は境内社の一社で、天守受売命(あめのうすめのみこと)が祭神である。
 あるとき天照大御神が天の岩戸に入り固く扉を閉ざされたため、この世が暗闇になってしまった。 天守受売命が岩戸の前で大いに演舞されたところ、大御神は出て来られ、この世は再び光を取り戻したという故事に基づき芸能・芸術の神として信仰がある。 境内には芸能の分野で活躍されている名を記した朱塗りの玉垣が2000枚以上奉納されており、著名人の物も多くある。


愛宕神社

清めの社

地主神社

 神門(本殿)を正面にして右側には火(火伏・防火)の神様「愛宕神社」があり、愛宕神社の向かいは水の神様「水波能女命(みずはのめのみこと)」を祀つる水神社が祀られている。



 清めの社は家相・地相・方位の守護神をお祀りする神社である。
 後嵯峨天皇が嵐山に遊行された際、社前で牛車の轅(ながえ)が折れ動かなくなった。 帝はそのご神威を畏れ、門前右側の石を「車折石(くるまざきいし)」と呼んで「正一位車折大明神」の神号を贈られたことに車折神社の社名は由来している。
 このことから、この神社は石に清めの神力があるとしてさまざまな祈念を行っている。このお社はその中心的存在なのだそうだ。
 裏参道から参道を進むと左奥に嵯峨天皇様を祀つる境内社/地主神社がある。もともとこの地にあったお寺の鎮守社だったそうで、廃寺の折にこの神社に遷られた。

野宮神社(ののみやじんじゃ) 右京区嵯峨野宮町1

 JR「京都」駅から山陰本線で「嵯峨嵐山」駅へ(約12分)。 駅南口前の道を南へ約200m進み交差する道に出たら右折。真っ直ぐ300mほど行くと天龍寺前の丁字路(府道29号線)に出る。 道を渡り右折して北へ200mほど。最初の左手路地に折れ、道なりに200mほど先にある(徒歩15分)。




 野宮はその昔、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王(皇女、女王の中から選ばれる)が伊勢へ行かれる前に身を清められたところである。
 嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地だった。その様子は源氏物語「賢木の巻」に描写されている。
 野宮の場所は天皇の御即位毎に定められ、当社の場所が使用されたのは平安時代のはじめ嵯峨天皇皇女仁子内親王が最初とされています。斎王制度は後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱で廃絶した。 その後は神社として存続し、勅祭が執行されていたが、時代の混乱の中で衰退した。
 そのため後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が下され当社の保護に努められ、皇室からの御崇敬はまことに篤いものがあったと云う。 黒木鳥居と小柴垣は平安の風情を現在に伝える。縁結びの神様、子宝安産の神様として全国から崇敬を集めている。




 中央の本殿には、健康と知恵授けの神・野宮大神(天照大神)、境内右手の奥には、子宝、安産、商売繁盛の神・白福稲荷大明神、財運と芸能の神・白峰弁財天を祀る。 野宮大黒天は縁結びの神で、横の神石「お亀石」をさすると、願い事が叶うといわれる。 境内左手の井戸にまつられた龍神は、病気で苦しむ人の救いの神。

御髪神社 右京区嵯峨小倉山田淵山町10-2

 JR「京都」駅から山陰本線で「嵯峨嵐山」駅へ(約12分)。すぐ隣にあるトロッコ電車「嵯峨」駅に乗り換え「嵐山」駅へ。 「嵐山」駅前の道を左手へ行くと目の前に小倉池があり、神社は池の左手直ぐ奥の処にある。




 西暦1200年代の人皇90代亀山天皇(1259〜1274年)の御代に藤原鎌足の末孫である北小路左衛尉藤原基春卿は皇居の守護にあたる武士だった。 文永年間下関に居を構え、その三男の藤原采女亮政之(うねめのすけまさゆき)公は、その地に於いて髪結職を我国最初に始め、基春卿死後の弘安四年(1281)、居を鎌倉に移す。建武二年(1335)に歿し、その立派な処世と功績により従五位を賜った。 御髪神社は、政之公と最も由縁の深い亀山天皇御陵に程近い小倉山の麓に建立された。
 祭神の御髪大神は藤原采女亮政之公のことである。

大井神社 右京区嵯峨天竜寺造路町36

 JR「京都」駅から山陰本線で「嵯峨嵐山」駅へ(約12分)、南口より駅前の道を約200mほど歩いて嵐電(京福電車)「嵐電嵯峨」駅へ。 ここから嵐電にて一駅目の「嵐山」駅へ。(もしくは歩いても約5分。)下車すると駅の左手(桂川側)にある。




 堰神社、大堰神社、大橋神社とも呼ばれている。 秦氏が大堰を造ってこの地を開拓したとき、治水の神として祀ったのが起こりとされている。
 祭神は倉稲魂神(うかのみたまのみこと)。稲の精霊が神格化されたもので,五穀,食物を司る。 「日本書紀」では伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉(いざなみの)尊の子。 「古事記」では須佐之男命と神大市比売(かみおおいちひめ)の子で,宇迦之御魂神と書く。

住吉大伴神社 右京区龍安寺住吉町1

 衣笠山などに続く住吉山の山麓、京都市道183号(きぬかけの道)の南側にある。 南西150mには仁和寺が、北東150mには龍安寺がある。




 この神社は、古代豪族大伴氏を祀る「伴氏(ともうじ)神社」(祭神は大伴氏の祖神とされる天押日命(あめのおしひのみこと))に「住吉大神」(底筒男命(そこつつのおのみこと)と中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)を併せ祀っている。
 本殿は、昭和初めに建立された。それ以前は一間社流造だったという。 現在は間口1間、奥行1間半の縮小型住吉造で、この造りの建物は全国唯一という。 1978年、茅葺から銅葺に改修された。

今宮神社 右京区花園伊町17

 JR山陰本線「円山」駅にて下車し、駅前の交差点を渡りまっすぐ行くとすぐ右手に鎮座している。




 三条天皇の代の長和四年(1015)、同年に流行した疫病を鎮めるために創祀された。 その後一時的に衰退したが、後冷泉天皇の代の永承七年(1052)にも疫病が流行したため、御霊会を行い、ふたたび当地に神社が造成された。 なお、京都市北区紫野にある同名の今宮神社(994年創建)も、疫病を鎮めるための御霊会を起源とする神社(御霊社)である。 神仏混淆の時代には法金剛院や仁和寺の鎮守社であり、寛永二十一年(1644)には覚深法親王によって、仁和寺再興の一環として今宮神社の本殿、拝殿、末社が建造された。 本殿は昭和三十五年(1960)、昭和四十一年(1966)、昭和五十三年(1978)に改修されている。 明治初期の神仏分離令後には厄除神今宮大明神となった。

今宮神社

 "今宮"とは、当時本宮から神霊を分けて、新しく祭った神社との意である。
 三条天皇の御代に疫病が流行し、これを鎮めるために創祀された。 この神社がちょうど平安京の西の端、西京極大路の内に位置しており、疫病を京都より外へ追い払うということでもあったようだ。

木嶋坐天照御魂神社 右京区太秦森ヶ東町50

 JR山陰本線「太秦」駅にて下車し、広隆寺前の三条通りを東へ進む。300mほど先で道が南へカーブするので、直進する道に入りまっすぐ進むと、200mほど先左手に鎮座している。
 飛鳥時代末期には既に存在していた古社とされており、通称 木嶋神社(このしまじんじゃ)もしくは蚕の社(かいこのやしろ)と呼ばれている。 ここは松尾大社を造った秦氏ゆかりの神社である。


表参道口

拝殿

本殿

 由緒書によれば、創建年代は不詳とされるものの、六国史の一つである『続日本紀』の大宝元年(701)4月3日の条に当社の名前が記載されていることから、この年以前から存在していた古社であると考えられている。 また、社伝によれば「天之御中主神を主神として奉り、天神から地神に渉る御魂の総称を天照御魂神と称して奉る神社であり、広隆寺の創建と共に勧請された」と伝えられている。
 祭神は、天之御中主命(アメノミナカヌシノカミ)、大国魂神、穂々出見命(ホホデミノミコト)、鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)である。


三柱鳥居

 本殿西側(左手)に"元糺の池"と呼ばれる場所がある。現在、池には水は無いが、かつては水が湧いていたと云う。 古来、"糺の池"とは、水で身を洗って罪穢れをはらう場所、禊の場所である。 この元糺の池の中に三柱の鳥居が建っている。
 鳥居の中心には石が積み上げられている。かつては積み石のあるあたりから水が湧いていたそうだ。 この鳥居は三方、どの方向からでも参拝できるようになっている。それぞれが下鴨神社、伏見稲荷大社、松尾大社に向いているという説があるが、いずれも秦氏と関係のある神社だ。
 現在日本にある三柱の鳥居は7基とも言われいるが、これまで私が拝観出来たのはまだここ以外は東京向島にある三囲神社の一つのみだ。

梅宮大社 右京区梅津フケノ川町30

 京都駅前バスターミナルから市バス「28系統: 大覚寺行」に乗車し、「梅宮大社前」バス停にて下車、徒歩約3分の処に鎮座している。


鳥居

随身門

 橘諸兄の母、橘三千代が酒解神、酒解子神(大山祇、木花咲耶姫)を祭り酒造安全と子孫繁栄を祈願した神社。 檀林皇后(嵯峨天皇の后)が井手町から現在地に遷座。建立は奈良時代750年頃。
 随身門は三間一戸の楼門で、入母屋造、屋根は本瓦葺。随身門内の左右には随身として豊磐間戸命・奇磐間戸命の2神の神像が安置されている。


拝殿

本殿/拝所

 現在の社殿のうち、本殿・拝殿・楼門・境内社若宮社・境内社護王社の5棟は江戸時代の造営であり、京都府登録文化財に登録されている。
 祭神は酒解神(さかとけのかみ)・大若子神(おおわくこのかみ/おおわくごのかみ)・小若子神(こわくこのかみ/こわくごのかみ)・酒解子神(さかとけこのかみ)。


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