用事を済ませるだけで通り過ぎていた長崎県にある神社に参拝した。
NO. | 神社名 | 住所 | 拝観期日 | 備考 |
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01 | 諏訪神社 | 長崎市上西山町18-15 | 2015/03/16 | |
02 | 松森神社 | 長崎市上西山町4-3 | 2015/03/16 | |
03 | 八坂神社 | 長崎市鍛冶屋町8-53 | 2015/03/16 | |
04 | 海童神社 | 南松浦郡新上五島町有川 | 2015/03/15 | |
05 | 恵比寿神社 | 南松浦郡新上五島町有川 | 2015/03/15 | |
06 |
・2015/03/18(水): 3/15,3/16に参拝
路面電車3〜5系統「諏訪神社前」電停で下車、地下道を通り一番出口に出ると神社の参道に出る。(徒歩1分)
一の鳥居(明神鳥居) |
大門 |
神額「諏方大神」 |
諏訪神社は鎮西大社と称えられる長崎の総氏神様として"おすわさん"と親しまれている。
かつては長崎市内には諏訪大社・森崎大権現・住吉大明神の三社があったが、戦国時代にイエズス会の教会領となり、焼かれたり、壊され無くなっていた。
その後、寛永二年(1625)に初代宮司青木賢清によって、西山郷円山(現在の松森神社の地)に先の三社を合祀し再興し、長崎の産土神としたのが始まりである。
さらに慶安元年(1648)には現在の場所に移築した。
諏訪大神、森崎大神を主祭神とし、住吉大神を相殿神として祀る。
大門は諏訪神社の顔と言うべき門だ。この下の坂は長坂と呼ばれ、73段の階段が続いている。
拝殿 |
神額「諏訪大社」 |
安政四年(1857)不慮の火災に遭い、社殿のほとんどを焼失したが、孝明天皇の思召しにより、明治二年(1869)に約十年の歳月をかけて以前に勝る社殿が再建され、さらに、昭和五十九年の御鎮座360年祭、平成六年の370年祭を記念して、二度の造営を行い現在の社殿が完成した。
康平社 |
廣足神社 |
蛭子社と河童狛犬 |
廣足神社は、江戸時代の長崎の国学者で長崎三歌人の一人である中島廣足(1792〜1864)が自分の邸宅に祀っていた祠だ。
中島廣足は、邸内に柿本人麻呂、本居宣長を祀り詩歌の上達を祈願していた。
この祠を平成二年八月、広く詩歌の道を志す人達の守り神としようとこの地に移設した物と云う。
末社の少彦神を祀る蛭子社のある池は、昔から「河伯の井戸」と呼ばれ、河童が住むと伝えられている。そんなわけで、河童のように頭に皿のある狛犬が置かれている。
頭の皿に水を掛けて祈願しよう。
玉園稲荷社 |
八坂神社 |
狛犬の井戸 |
止め事成就狛犬 |
玉園稲荷神社は商売、漁業関係の方々など多くの人々から信仰されている。
「止め事に霊験著しい狛犬あり」との社伝があり、家出の足止め・借金止め・受験のすべり止め・更に禁酒喫煙などの願い事に、コヨリを狛犬の足に巻き祈願する信仰が今も続いている。
太鼓楼 |
大楠 |
太鼓楼: 平成の御大典記念として多くの氏子崇敬者の募財をもって平成4年4月7日に竣工した。 この楼の中には、胴回り4.25メートルの大太鼓があり、朝夕に時を知らせている。
蛙岩 |
玉園稲荷神社の鎮座当時より本殿の上方にあった巨大な岩は、形が蛙に似ているころから「蛙(かえる)岩」/「どんく岩」と呼ばれ、注連縄を廻して信仰されていた。 昭和五十七年七月二十三日の長崎大水害の際、この本殿の裏山が崩れ、蛙岩も本殿近くまで滑り落ちたが、本殿への土砂を食い止めた。 このことから「災難除けの蛙岩」として信仰されているとのことだ。
路面電車3〜5系統「諏訪神社前」電停で下車、地下道を通り一番出口に出ると神社の参道に出る。参道階段を登り第一鳥居先で右折すると道の150m先正面にある。(徒歩3分)
神門 |
扁額「松森神社」 |
鳥居(明神鳥居型) |
寛永十七年(1640)に創建された。 今博多町(「諏訪神社前」電停から公会堂通りを約300mほど「公会堂前」電停方向に戻った辺り)に住む川上久右衛門と称する浪人が持っていた菅原道真公直筆の露像が、様々な奇跡を現すことから、家の傍に小さな祠を建てて、"天満宮"と名付け人々の信仰を受けていたが、明暦二年(1656)長崎奉行黒川興平の肝入りで諏訪神社があった現在の地に移った。
拝殿 |
神額「松森天満宮」 |
御神牛 |
菅原道真公をまつる天満宮に必ず牛がいるのは、道真公が誕生したのが永和十二年(845)6月25日乙丑(きのとうし)、つまりウシ年生まれで牛をとても可愛がり、守り神とされているからだとか。 この御神牛は慶応元年から100年以上ここに鎮座している守り神。願掛け牛として親しまれている。
本殿瑞垣 |
職人尽(ほり物)【県指定有形文化財】 |
拝殿奥の本殿の外囲いの瑞垣の欄干間にはめ込まれた彫刻欄間が「職人尽」だ。三十の職業が彫られている。 正徳三年(1713)社殿改修の際に奉納されたもので、彫刻者は御用指物師喜兵衛、同藤右衛門とのこと。
路面電車1or5系統「正覚寺下」電停で下車、駅前の軌道を横切る道を左手に向かうと突き当りの丘にある。
鳥居(明神鳥居型) |
神門 |
拝殿 |
元和六年(1620)に今籠町に天王社として創建され、寛永三年(1626)に京都から素戔嗚尊を迎え、寛永十五年(1638)、現在地に遷宮されたといわれている。
明和三年(1766)の長崎大火で一旦は焼失したが、明和八年(1771)に再建され、現在の境内地は、ほぼ当時のままの状態を保っている。
素戔嗚尊、八幡大神、大山咋大神を祀る。
櫻姫美人稲荷 |
この稲荷にはその名称の元となった以下の言い伝えがある。
「近所に住む夫婦が神社参詣中、出産で苦しむ狐を見つけた。不憫に思い自宅に抱いて帰り、看病することにした。
一生懸命介抱するとその甲斐があって無事、出産することが出来た。十分に養生した後、元気になった母狐と子狐をこの境内に戻した。
すると、その夜、夫婦の夢枕になんとも美しい姿のお姫様が現れ、お礼をされたと云う。」
有川港フェリーターミナル右隣の小さな丘に鎮座している。
鳥居(明神鳥居型) |
鯨骨 |
社石祠 |
海童神社は、元和三年(1617)〜同五年にかけて3年続けて決まった日に海で溺れ死ぬ者があった。神社の信託により石祠を建てて祀り、即席の「にわか芝居」などを奉納したのが始まりと云う。
海で溺れ死ぬことが無い様に建立された神社だそうだ。
鳥居の後ろにある鯨のアゴの骨で有名だ。この骨は昭和四十八年に捕鯨会社が奉納したものとのこと。
海童神を主祭神に、蛭子神を配祀する。蛭子神は、合祀された船津地区/蛭子神社の祭神である。
有川港フェリーターミナルから少し(50mほど)入った街中にひっそりと鎮座している。
鳥居 |
社殿 |
「水神社」碑 |