大阪府大阪市は神社巡りとしては初めて訪れた。今回は五社だけ参拝できた。
NO. | 神社名 | 住所 | 拝観期日 | 備考 |
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01 | 露天神社 | 大阪市北区曽根崎2-5-4 | 2021/10/25 | |
02 | 大阪天満宮 | 大阪市北区天神橋2-1-8 | 2021/10/25 | |
03 | 豊国神社 | 大阪市中央区大阪城2-1 | 2021/10/25 | |
04 | 大江神社 | 大阪市天王寺区夕陽丘町5-40 | 2021/10/25 | |
05 | 安居神社 | 大阪市天王寺区逢阪1-3-24 | 2021/10/25 | |
06 | 堀越神社 | 大阪市天王寺区茶臼山町1-8 | 2022/11/01 | |
07 | 廣田神社 | 大阪市浪速区日本橋西2-4 | 2022/11/01 | |
08 | 今宮戎神社 | 大阪市浪速区恵美須西1-6-10 | 2022/11/01 |
【履歴】
・2022/11/01(火): 更新、11/01(火)探訪。
・2021/10/31(日): 新規、10/25(月)探訪。
鳥居 |
社殿 |
社伝によると、上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられている。
曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。なお、創建年代は不詳である。
昌泰四年(901)二月、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中、福島に船泊まりされた折に、当社東方に伽藍を構える「大融寺」に船頭茂大夫の案内でご参詣の道すがら、当地で下記の歌を詠ぜられた。
この故事にちなみ、「露天神社」と称すると伝えられている。
「露と散る 涙に袖は 朽ちにけり 都のことを 思い出ずれば」(菅原道真公)
祭神は、少彦名大神・大己貴大神・天照皇大神・豊受姫大神・菅原道真公である。
社殿は、旧社殿が昭和二十年の太平洋戦争で焼失したため、昭和三十二年に造営竣工したもの。
水天宮・金比羅宮 |
お初と徳兵衛像 |
神牛舎 |
当水天宮はもともと寛政九年(1797)に大阪中之島・久留米藩蔵屋敷内に祀られた社である。
明治維新に際し、蔵屋敷は朝廷に返上、水天宮の御神霊は丸亀藩蔵屋敷の金刀比羅宮に合祀された。
その後、高松藩蔵屋敷、堂島中二丁目への遷座を経て当地に遷され。
「曽根崎心中」のお初と徳兵衛像だ。露天神の森で心中した二人を追悼している。
「神牛さん」/「撫で牛さん」と呼ばれ、身体の病む処と神牛さんのそれを交互に撫で摩るという信仰が、古来より続いている。神牛さんに身代わりになっていただく、または神牛さんの霊力を持って病を治癒していただこうというものである。
昨今は、学力の向上を願う学生や受験生も多数参詣する。
大阪メトロ谷町線・地下鉄堺筋線「南森町」駅下車、4番出入口を出てすぐ天神橋筋商店街を右(南方面)へ進み、二ツ辻目を左へ曲がり50m程度進むとある。
表大門 |
本殿 |
菅原道真を主神に猿田彦命ほかを祭る。 長柄豊碕宮鎮護のため、現在境内摂社の大将軍社を祭ったのが最初という。 天暦三年(949)、道真の怨霊を鎮めるため村上天皇勅願により、社殿を創建したと伝える。 その後社殿はたびたび焼失したが、現社殿、正門は弘化二年(1845)に建てられたもので、天満の天神さんと親しまれている。
大阪メトロ「谷町4丁目」駅から徒歩約15分、大阪城桜門の目の前に鎮座している。
一の鳥居 |
二の鳥居 |
豊国神社は「豊臣秀吉公」・「豊臣秀頼公」・「豊臣秀長卿」を御祭神とする神社。
明治元年、明治天皇が大阪へ行幸された際、国家のために多大なる功労を残した豊臣秀吉公を大阪の清らかな地に奉祀するよう仰せになったことから、明治六年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営、大阪には明治十三年に別格官幣社豊國神社の別社として中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に創立された。
昭和三十六年一月に現在の地へ奉遷した。
境内社として白玉神社、玉繁神社、玉春神社、七夕神社、若永神社がある。
社殿 |
豊臣秀吉像 |
秀吉公の銅像:
以前、豊臣秀吉公の銅像が明治三十六年大阪城内に建立され、後に中之島の当社旧境内地に移され市民が秀吉公を身近に感じることが出来ていた。しかし太平洋戦争時の供出で無くなりその姿を見る事が出来なくなっていた。
以来、銅像の再建を多くの人々が望んでいたが、この度念願かない平成十九年(2007)に総高5.2mの銅像が境内に再建完成致した。
大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘」駅で降りD番出口から南方向に進み、大阪星光学院の北壁沿いの道へ右折。 そのまま真っすぐ進むと突き当りに鎮座している。
鳥居 |
拝殿 |
大江神社は、上之宮、小儀、土塔、河堀、堀越、久保の各社と共に天王寺七宮と云われ、四天王寺の鎮守として聖徳太子が祀られたものと伝えられている。
祭神は産土神の豊受大神・素戔嗚尊・大己貴命・少彦名命・欽明天皇。
大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より南西に徒歩6分。
一の鳥居 |
二の鳥居 |
社殿 |
昌泰四年(901)菅原道真が太宰府に左遷された際、河内の道明寺にいた伯母の覚寿尼を訪ねて行く途中、ここへ立ち寄って安井(休憩)した。
当時、道真に同情した村人が"おこし"を差し上げると、お礼にと菅原家の紋所「梅鉢」をもらった。
これが、今でも大阪名物の「粟おこし」の商標の梅鉢となったといわれている。
安居神社は、その道真の死後の天慶五年(942)、道真の霊を祀るために村人たちが建てたもの。
また、当地は四天王寺の僧侶がここで夏安居(げあんご:雨季の間に外出を控え寺院で修行に専念すること)することもあり、「安井」が「安居」になったと云う。
祭神は少彦名神、菅原道真を祀る。
金山彦神社 |
稲荷社 |
真田幸村像 |
大坂夏の陣にて真田幸村は茶臼山に陣を置き、徳川家康の首を狙って撃って出た"茶臼山の戦い"でこの安居神社の境内において傷を負った家臣らの手当てをしながら休息していた時に越前松平勢に発見され討ち取られたと云う。 境内には真田幸村戦死跡の石碑と像がある。
地下鉄御堂筋線・JR環状線「天王寺」駅下車、谷町筋を阿倍野橋北詰から北へ約300m、西側にある(徒歩約15分)。
聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として社殿を造営したのが始まりと言われている。 四天王寺の裏鬼門(南西の方角)に当たり、主祭神の崇峻天皇に加え、配神に小手姫皇后、蜂子皇子、錦代皇女を祀っている。 古くから明治中期まで、境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を超えて参拝したため、「堀越」という名がつけられたと言われている。
南海本線「今宮戎」駅下車、東側左手高速道路を潜り、1つ目の辻右に曲がるすぐ。
神功皇后の諸国征伐の帰途、海路を難波に向かう途中、皇后の船は海中をぐるぐると廻り、前に進まなかったので、占いをたてたところ、天照大神から、摂津国広田の杜に祀れとの神告があり、この廣田の地に天照大神の荒魂「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」を祀ったのが、廣田神社の起源とされている。
神功皇后の頃はこの辺りは海岸だったのは想像に難くないが、海岸の近くにある神功皇后にまつわる神社(住吉大社、敷津松之宮など)には、それぞれに祀る祭神が異なるのはどうしてだろうか。
当社の創建年代は不詳ではあるが、上記のごとく古い由緒を持ち、江戸時代には広田の杜といわれ、「浪花百景」にはうっそうとした森の中の社として描かれており、当時は境内も広く、紅白二種の萩を植えた茶店があって、萩の茶屋と呼ばれていた。
又、当社は、祭神の一人に「賢彦名命(さかひこなのみこと)」を祀り、この神はアカエ(エイ)に乗り訪れる智恵の神様で、無病息災・痔疾をはじめ難病治癒にご利益があり、叡知の“エイ”に通じることから合格・必勝の祈願を叶えるといわれており、広く信仰されている。
地下鉄御堂筋線「大国町」駅3番出口より東へ徒歩5分。
南口鳥居(三ツ鳥居) |
拝殿 |
創建は皇紀千二百六十年(600)、推古天皇の御代に聖徳太子が四天王寺を建立に当り、同地西方の守護神として鎮齋せられ、市場鎮護の神として尊崇せられたと伝えられている。
天照皇大神・事代主命・外三神を祭神とする。
社殿は豊臣秀頼が建て替えたと言われているがその後第二次世界大戦中(昭和二十年)の空襲により焼失、現在境内にある建物は全て戦後造営されたもの。
大国社 |
稲荷社 |
商売繁盛の神「えべっさん」として知られる。えびす様として信仰を集めるのは事代主神だ。 約100万人もの参詣者が集う毎年1月9-11日の「十日戎」が特に有名である。