埼玉県最初の訪問の川越市に続いて第二弾はさいたま市大宮区を訪れた。
戸塚からだと上野東京ラインに乗ると乗り換えなしで1時間20分ほどで大宮駅に到着した。
今回は、初めての土地なので手始めにJR大宮駅周辺を探索した。
さいたま市第二弾は浦和区のJR浦和駅に降り立った。ここも初めてなので駅周辺の探訪だ。
NO. | 神社名 | 住所 | 拝観期日 | 備考 |
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01 | 武蔵一之宮氷川神社 | さいたま市大宮区高鼻町1-407 | 2016/05/02 | JR大宮駅 |
02 | 天満神社 | さいたま市大宮区東町2-206 | 2016/05/02 | JR大宮駅 |
03 | 浅間神社 | さいたま市大宮区浅間町2 | 2016/05/02 | JR大宮駅 |
04 | 庚申神社 | さいたま市大宮区浅間町2 | 2016/05/02 | JR大宮駅 |
05 | 楢姫稲荷神社 | さいたま市大宮区吉敷町2 | 2016/05/02 | JR大宮駅 |
06 | 護国神社 | さいたま市大宮区高鼻町3-149 | 2016/05/02 | JR大宮駅 |
07 | 多子稲荷神社 | さいたま市大宮区土手町2-97 | 2016/05/02 | JR北大宮駅 |
08 | 倉屋敷稲荷神社 | さいたま市大宮区仲町3 | 2016/05/02 | JR大宮駅 |
09 | 神明神社 | さいたま市大宮区桜木町3 | 2016/05/02 | JR大宮駅 |
10 | 八幡神社 | さいたま市大宮区大成町1-203 | 2016/05/02 | JR大宮駅 |
11 | 柊稲荷神社 | さいたま市浦和区前地2 | 2018/11/29 | JR浦和駅 |
12 | 三本木稲荷 | さいたま市浦和区前地2-1 | 2018/11/29 | JR浦和駅 |
13 | 山神神社 | さいたま市浦和区本太1-35 | 2018/11/29 | JR浦和駅 |
14 | 本太氷川神社 | さいたま市浦和区本太4-3-33 | 2018/11/29 | JR浦和駅 |
15 | 八雲神社 | さいたま市浦和区元町1-21-3 | 2018/11/29 | JR浦和駅 |
16 | 三角稲荷社 | さいたま市浦和区本太3-27-1 | 2018/11/29 | JR浦和駅 |
17 | 調神社 | さいたま市浦和区岸町3-17-25 | 2018/11/29 | JR浦和駅 |
18 |
・2018/12/02(日): 11/29(火)に探訪。
・2016/05/02(月): 05/02に探訪。
JR「大宮」駅で下車。東口より目の前の道を東方向へ向かい、氷川神社の参道へ。参道に到着したら、北へ向きを変え神社を目指して進むと、800mほど先にある。
一の鳥居 |
社号標 |
二の鳥居 |
なお、参道には一丁毎に丁石が設置されており、一の鳥居そばの丁石には「是より宮まで十八丁」と刻まれている。 一丁は約109mなので、十八丁だと1,962mもある長い参道だが、欅並木になっており、日差しを遮ってくれるので散策がてら訪れてみてはどうだろう。(ついで参りは良くないと云われているけどねー...。)
氷川神社の創立は、社記によると第五代孝昭天皇の三年四月未の日と伝えられている。
氷川神社は、古くから歴朝や武将の尊崇をあつめた由緒ある大社としてその歴史を誇っており、「大宮」の地名もこの氷川神社に由来している。
古くは景行天皇のとき、日本武尊が東征のおり当地に足をとめて祈願され、また成務天皇のとき、武蔵国造となった兄多毛比命が出雲族を引きつれてこの地に移住し、氷川神社を奉崇したと伝えられる。
その後、聖武天皇(724〜49)のとき「武蔵国一の宮」と定められ、ついで称徳天皇の天平神護二年(766)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進された。
さらに醍醐天皇の延長五年(927)の「延喜式神明帳」には、明神大社として破格の月次新嘗の社格が与えられている。
このほか、鎌倉時代には、治承四年(1180)に源頼朝によって社殿の再建と社領三千貫が寄進されたといわれ、足利、北条氏も相次いで尊仰した。
その後、江戸時代の慶長九年(1604)には、徳川氏より社領三百石が寄進され、また、文禄五年(1596)と寛文七年(1667)には社頭の整備と社殿の造営が行われている。
祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命である。
三の鳥居 |
神楽殿 |
額殿 |
額殿は江戸末期の建物だそうだ。
神橋 |
手水舎 |
楼門 |
舞殿 |
拝殿 |
明治元年(1868)東京遷都に際し、武蔵国の総鎮守「勅祭の社」に定められた。 同四年「官幣大社」となり、同十五年に本殿・拝殿などを改装、さらに昭和十五年に本殿・拝殿・回廊などを造り替え、現在の姿となった。
号鼓 |
回廊の角に「号鼓」が置いてあった。開門と閉門のときに打つもののようだ。
稲荷神社 |
宗像神社 |
松尾神社 |
天津神社 |
氷川神社の分社・関連社は武蔵全域に多く点在しており、特に埼玉県には、氷川神社が160社ほどある。
富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置する。
また、大宮の氷川神社・中川の中氷川神社(現 中山神社)・三室の氷川女体神社が浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。
また、氷川神社、所沢山口の中氷川神社、奥多摩氷川の奥氷川神社がそれぞれ、本社・中社・奥社の関係で一直線に並んでいるという。
JR「大宮」駅で下車。東口より目の前の道を東方向へ向かい、氷川神社の参道へ。参道に到着したら、北へ向きを変え神社を目指して進むと、200mほど先の埼玉県道2号「さいたま春日部線」との「氷川神社入口」交差点のすぐ南の参道東側に鎮座している。
氷川神社の末社だ。学問の神様である菅原道真を祀る。
JR「大宮」駅で下車。東口より目の前の道を東方向へ向かい、氷川神社の参道へ。参道に到着したら、南へ向きを変え400mほど進み、左手の脇道に折れると100mほど先にある。
左隣は幼稚園があり、子供たちの楽し気な声が響いていた。
参道口鳥居 |
浅間神社祠 |
「浅間祠」石碑 |
浅間稲荷神社 |
住宅地のど真ん中に高さ5m程の小山があり、その小山の頂上に浅間神社と浅間稲荷社の共に朱塗りされた社が建っている。
この小山は「浅間山(千間山)」と呼ばれているが、日光街道筋の沼地干拓の際(享保十年頃)に測量用の三角点用に人工的に作られたものだ。
塚の上にある浅間神社の祠には、幕末・明治の政治家山岡鉄舟の揮毫による明治十八年(1885)建立の「浅間祠」の石碑が祀られている。
また、境内の末社として、東松山の箭弓稲荷神社を祀る「浅間稲荷神社」がある。
JR「大宮」駅で下車。東口より目の前の道を東方向へ向かい、氷川神社の参道へ。参道に到着したら、南へ向きを変え500mほど進み、左手の脇道に折れると20mほど先にある。
社祠 |
庚申塔 |
青面金剛像の庚申塔が祀られている。碑は「寶暦十年辰ノ正月吉日」と刻まれており宝暦十年(1760)に大宮宿下町講中で建立したものだ。 なお、左右の面は道標となっている。
JR「大宮」駅で下車。東口より目の前の道を東方向へ向かい、氷川神社の参道へ。参道に到着したら、南へ向きを変え600mほど進むと右手の参道傍にある。
吉敷町の人たちがお祭りしている稲荷神社。3月の第1日曜日に初午祭が行われている。
氷川神社北側の大宮公園を進むと護国の一の鳥居があるので、更に進むと神社に到着する。
昭和九年四月九日埼玉県招魂社として設立鎮座し、同十四年三月神社制度の改正により、埼玉県護國神社と改称され四月に指定護國神社となり、例大祭には神饌幣帛の供進がなされたことになった。同二十一年二月神社制度の変革により宗教法人埼玉県護國神社と改められ更に同二十三年十月埼霊神社と改称。同二十七年再び埼玉県護國神社と改称し現在に至る。昭和三十年一月奉賛会が設立せられ以来年々の例大祭は埼玉県民挙て厳粛盛大に行っている。
大宮から東武野田線に乗り換え、次の「北大宮」駅で下車。少しみなみへ向かうと300mほど先にある。
多子稲荷神社は旧土手宿村の鎮守として祀られてきた社である。
勧請の時期は不詳であるが、京都の伏見稲荷大社の分霊を祀ったものと伝えられている。現在の本殿は天保四年(1833)の建立である。
明治四年(1871)に村社となり、同二十七年(1894)に村の南方に当たる字下西耕地から字下東耕地に移転した。
これが現在の社地であり、移転当時は社殿は西向きで、参道は荷車が通れるほどの幅で中山道に抜けていた。
ちなみに、この移転は、鉄道の敷設に際し、旧社地がその用地にかかり、社殿に蒸気機関車の出す煤煙や火の粉が降り注ぐようになったため、やむなく行なわれたものである。
その後、昭和二十八年(1953)に至って社殿を南向きに改め、当社は今日見られるような姿になった。
祭神は五穀豊穣、商売繁盛の御神徳のある倉稲魂命である。
JR「大宮」駅で下車、東口出口より正面の東口駅前通りを進むと、二つ目の交叉点の右斜向かいに大宮区役所がある。 区役所の方へ横断歩道を渡り、南へ進むと隣に鎮座している。
倉屋敷稲荷神社は、岩槻城の出城であった寿能城の倉屋敷に由来し、寛永五年(1628)徳川幕府が中山道を現在の位置に付け替えるに当たり、その道筋に鎮座していた社を現在の地に遷座した。
また、このあたりは明治の初めに廃寺となった境内になっていたので、またの名を中寺の稲荷社とも呼ばれていた。
昔から、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全の神様として、町内はもとより、近郷近在の庶民に厚く信仰されてきた。
昭和四十年(1965)、隣接する旧大宮市役所が市庁舎を新築する際に、当社の本殿、拝殿も修復の上、やや南に移動し、今日に至っている。
金毘羅社 |
天神社 |
JR「大宮」駅で下車、西口出口から駅前の線路と平行する道を北へ向かう。 600m程先で二股に分かれる処で左手の道に入り進むと30mほど先左手にある。
鳥居 |
社殿 |
神明社は天照大神を祭神とし、伊勢の皇大神宮を奉祀した神社で、伊勢信仰に基づいて同社の御師による配札活動などを通じ、全国各地に伊勢講が結成され、その結果、各地に神明社が設立された。
当神明社は、文政年間(1818〜30)に徳川幕府が編纂した「新紀」によると「鎮座の年は伝えざれど、天正二十年(1592)の水帳に神明ヶ谷戸の小名出たれば古社なるべきなり。村民の持ちなり」と記されている。
JR「大宮」駅で下車、西口出口から中程の道を進み「桜木町」交差点に出る。国道17号線を北へ200mほど進み、左手脇道に入ると100mほど先右手にある。
鳥居 |
拝殿 |
明徳年間の御草創と伝わるが創立の年代は不詳。
古くは大成村金子駿河守の居城大成城の鎮護として八幡神を勧請した。
宝暦八年(1758)十一月社殿を改築したとの記録あり。近くは今上天皇皇位御継承大典の年に社殿を修理し社務所を新築している。
昭和三十三年六月には拝殿、鳥居、手水舎、掲示板を新設。社殿外へ社務所等を移転、修営し昭和三十四年四月十五日竣工している。
手水舎 |
富士塚と浅間神社 |
御神木「雨乞いの黄楊」 |
「雨乞いの黄楊」
社伝によると、宝暦乃時代「祭事」として「雨乞い神事」を八幡神社氏子達は毎年夏季に入ると豊作を願い行っていた。
即ちその時代は降雨少く旱魃が多かった為、氏子達は藁で龍を作り龍神様に「雨乞い」をし地域の五穀豊穣を祈願したものである。
宝暦八年(1758)八幡神社は大改築の工事を実施中であったが「雨乞い」神事を実施し降雨をみた為、神社改築工事竣工と雨乞い神事を記念して本黄楊を植樹し現在に至ったものである。
樹齢約二百三十年位と推定される。
JR浦和駅東口より東京方向に進み、二つ目の信号交差点で左折する。400mほど先の信号交差点を超え次の四つ角で右手に折れ坂道を上るとある。
創建年代は不明。かつて、金庫が珍しかった時代に、大きな金庫があったということから、別名、「金庫稲荷」と呼ばれていたという。
入口の門の扉が閉じられ参拝できず。なお、家人の許可を得れば見学できるとの張り紙があるが、敢えて許可を得て見る気にはなれず。
鳥居 |
社殿 |
JR浦和駅東口より東京方向に進み、最初の信号交差点を超え、次の四つ角で"前地通り商店街"に左折する。
約300mほど進むと右手に鎮座している。
雰囲気から古くより商店街の鎮守として崇拝されてきた由緒ある社に見えるが良く分からない。
JR京浜東北線「浦和」駅東口から歩いて15分程。母の会幼稚園の東側に位置し、住宅街のなかにひっそりと佇んでいる。
JR浦和駅の東口から徒歩10分ほど。東口より北側の線路沿いに道に進み、すぐ先の分かれ道で右手「東仲町通」に折れる。 真っすぐ行くと国道463号線に出るので、国道を東方向へ進む。 100mほど先左手に「本太小入口」バス停があるので、その先の左手脇道に入り本太小学校を目指して進むと、小学校の先に鎮座している。
昭和鳥居 |
室町鳥居 |
明治鳥居 |
"弥栄鳥居潜り"と云われる鳥居の潜り順番があるそうだ。
参拝は東側にある赤い昭和鳥居から境内に入り、続いて室町鳥居を潜り拝殿へ。
参拝が終わったら室町鳥居から真っ直ぐ明治鳥居に進み境内を離れる。
拝殿 |
上向福徳神 |
末社合祀社 |
本太氷川神社の創建年代は不詳。元府址であったとも伝えられる。
宝徳三年(1451)に当地の地頭高(たかはな)左衛門盛影が氷川大明神の大檀那として、神輿と鳥居を造立寄進した。
古くから当地本太の鎮守社だったと云う。祭神は素盞嗚尊。
えびす様と大黒様が上を向いていると云う珍しい神様が上向福徳神だ。
JR浦和駅にて下車し、東口より左手の線路に並行する道を北へ向かう。 約700mほど先で国道463号バイパス跨線橋の下をくぐり右折、2つ目の信号の処で左折し、直進すること200m先の四つ角で左に折れる。 さらに50mほど進むと右手に脇道があるので折れると20mほど先右手に鎮座している。
「天王様」と呼び親しまれている。
創建の年代は不詳。口碑によれば、往古、本太を疫病が襲い多くの村人が倒れたため、牛頭天王社を勧請し、神輿を作り疫病消除の祭りしたのが始まりと云う。
祭神は建速須佐之男命である。
JR浦和駅にて下車し、東口より左手の線路に並行する道を北へ向かう。 約700mほど先で国道463号バイパス跨線橋の下をくぐると左手に鎮座している。
三角稲荷神社の創建年代は不詳。
旧本太村の北部一帯に古くから住む石井姓と石塚姓を名乗る両一族が氏神として祀った社で、京都の伏見稲荷を勧請して創祀した。
また、社号の「三角」は社地が三角形をした土地であったことに由来すると云われている。
祭神は宇迦之御魂大神。
JR浦和駅にて下車、西口より県庁通りを埼玉県庁方面(西)へ向かい、「駅西口」交差点で中山道に左折し、まっすぐ蕨方向へ行くと400mほど先左手に鎮座している。
境内口 |
拝殿 |
社名を調(つき)神社と云い、地元では「つきのみや」と愛称されている。
鳥居のない神社として有名で、狛犬ではなく兎が置かれているのも全国的に珍しい。
祭神は、天照大御神、豊宇気毘賣神、素盞嗚尊の三柱を祀る。
延喜式内の古社。第九代開花天皇乙酉三月の頃、祭奉幣の社として創建されたと伝わる。
中世以降、「月待信仰」の神社として崇められるようになった。
稲荷社−鳥居 |
稲荷社−社殿 |
享保の造営の折の旧本殿は、境内社稲荷社の本殿となり、現在に至っている。