出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建された。 貞観九年(867)には正二位に叙せられ熊野大社とは別に出雲国一宮と称せられるようになった。 中世には12郷7浦を領したが、豊臣秀吉により減じられ5郷2浦となった。 明治四年(1871)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。
神社: 出雲大社
祭神: 大国主大神
創建: 神代とされる
住所: 島根県出雲市大社町杵築東195
アクセス: JR「出雲市」駅より一畑バス[出雲大社・日御碕・宇竜行き]で25分。
【履歴】
・2019/06/21(金): 06/17(月)散策。
一の鳥居(宇迦橋の大鳥居)(コンクリ製) |
二の鳥居(勢溜の大鳥居)(木製) |
堀川に架かる宇迦橋を渡った処に建つ「一の鳥居(宇迦橋の大鳥居)」を潜ると勢溜まで「神門通り」の外参道が真っ直ぐに奔っている。
一の鳥居は、大正三年(1914)に新たな参道として整備された「神門通り」を彩るため、また大正天皇の即位を祝って1915年に建てられた。
鉄筋コンクリート製で、高さは出雲大社御本殿の24mを超えない様に23mに抑えられているが、建立当時は日本一の高さを誇り、中央の額だけでも6畳の大きさがある。
祓社 |
浄の池 |
そして、その勢溜には「二の鳥居(勢溜の大鳥居)」(木造門)が建っており、ここから出雲大社の内参道が始まる。
出雲大社の内参道は「下り参道」と呼ばれ、神社仏閣の参道としては珍しく本殿に向かって下り坂になっている。
二の鳥居を潜り少し行くと右手に「祓社(はらえのやしろ)」がある。
出雲大社に参拝する人々は、まずここ「祓社」で身心を祓い清める。祓戸に祭られている四柱の神は、瀬織津比盗_(せおりつひめのかみ)、速開都比盗_(はやあきつひめのかみ)、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、速佐須良比盗_(はやさすらひめのかみ)。正面下り参道(此処)と神楽殿前の二箇所に祀られている。
祓社の先には「浄の池」があり周りには回遊できる小路が整備されている。参拝した時には丁度アヤメと紫陽花が咲いていた。
三の鳥居(鉄製) |
ムスビの御神像 |
浄の池を過ぎると素鵞川が参道を横切って流れており、この川に架かる祓橋を渡ると三の鳥居「中の鳥居」が建ち、側道のある「松の参道」が始まる。
以前、松の参道では殿様や貴族の方だけが真ん中を通ることが許されていたそうだ。
現在参道に生える松は寛永年間に松江藩主・堀尾忠氏の夫人が祈願成就の御礼に奉納したものとのことだ。
松の参道も終わりに近づいた処に「ムスビの御神像」が置かれている。
この像は、大国主大神が日本海の荒波の向こうから現れ、「幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)」を授けられ結びの神となったと云う神話の一場面を碑揚言しているそうだ(昭和六十一年製)。
四の鳥居(銅製) |
四の鳥居(鋼門)は大社神域の荒垣正門に立っている。この碧銅の鳥居は、寛文六年(1666)六月毛利輝元の孫綱広が寄進したものである。
四の鳥居から境内を見るとすぐ手前に拝殿があり、その後方に本殿が控えている。鳥居、拝殿、本殿は真っ直ぐ一直線に並んでなく、拝殿が少し左へずれて建てられている。
旧拝殿は、室町時代の永正十六年(1519)に尼子経久が造営した。名工の坪井大隅守が華、青龍、松竹梅などで豪華絢爛に仕上げ、高く評価されていた。
しかし、昭和二十八年五月に、荒垣内にあった古い拝殿・鑽火殿・庁舎が不慮の火のために焼亡し、その後、昭和三十四年に現在の拝殿が竣功している。
拝殿では、通常は参拝者の御祈祷が行われ、古伝新嘗祭等の祭の他、さまざまな奉納行事が行われる。
社造と切妻造の折衷した様式となっている。屋根は銅版だが、木曾檜材の木造建築で、建坪485.1u(約147坪)、高さ12.9mある。
楼門 |
本殿【国宝】 |
瑞垣 |
「天下無双の大廈(二つと同じものが無い壮大な神殿)」と称えられる本殿は、悠久の歴史の中でその度々の御造営遷宮と御修造遷宮を繰り返し、今にその姿を受け継いできた。
現在の本殿は延享元年(1744)に造営されたもので、昭和二十七年に国宝に指定された。
玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。
本殿の高さは8丈(24m)にも及び、"大社造"と呼ばれる日本最古の神社建築様式を今に伝えている。
その特徴は切り妻、妻入りの構造で、平面は九本の柱が田の字型に配置された 正方形の間取りとなっている。
素鵞社【重文】 |
八雲山の岩「磐座」 |
本殿の後ろに回った処に建っている。
祭神の素戔嗚尊(すさのおのみこと)は天照大御神の弟神で、出雲国の肥河上での"八岐の大蛇退治"はあまりにも有名である。
また大国主大神の親神で、大神に国づくりの大任を授けた。
素鵞社の裏手はすぐ八雲山だ。八雲山は、この山自体がご神体となっている。
近年では素鵞社へ参拝する方も多く、素鵞社の裏側の岩に触れたり、社殿の裏側にまわって社殿に肩を当てると「肩コリ」がたちまちのうちに治るという"ご利益"を求めて「裏側」が人気なのだという。
文庫 |
彰古館【有形文化財】 |
文庫は方形造り越屋根付の木造平屋建の木造家屋。出雲大社の文庫も、おそらく出雲大社に関係する歴史書や古文書、神道の書物などを保管する目的で造営されたものだと考えられる。
彰古館は本殿の北西方にある宝物館で、亀甲積基壇に建つ木造二階建、入母屋造銅板葺で、正面中央に一間切妻造の玄関を設け、二階は桁行梁間とも側廻り一間を逓減し、縁高欄を廻して安定した外観となっている。
神楽殿は本来、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれていた。
明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、現在では國造家大広間、並びに出雲大社・出雲大社教の神楽殿として御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われている。
昭和五十六年に出雲大社教が特立100年を迎えた折、現在の神楽殿として規模を拡張して建て替えられた。その大広間は270畳の広さを誇り、神社建築にはめずらしく正面破風の装飾にステンドグラスが使われている。
正面の大注連縄は長さ約13m、重さ5.2tに及ぶ。この大注連縄は数年に一度、新しい注連縄へと懸け替えられる。
そして、神楽殿前庭には高さ47mの国旗掲揚塔が聳え立ち、揚げられる国旗は75畳(縦8.7m,横13.6m)の大きさだ。
弁天島 |
天照大神より、国譲りの使命を受けた建御雷神が大国主神と対面した場所と云われている。
また旧暦の10月10日には、出雲大社に集まる全国の神々がこの浜から出雲へ上陸すると伝えられ、今なお神迎えの神事が行われる出雲のパワースポットの一つである。
稲佐の浜に一際目立つ丸い島がある、「弁天島」だ。
古くは「沖御前」といい、遥か沖にあったといわれている。
昭和60年前後までは島の前まで波が打ち寄せていたが、近年急に砂浜が広がり、現在では島の前まで歩いていける。
神仏習合のころには「弁財天」が祀られていたが、今は豊玉毘古命(トヨタマヒコノミコト)が祀られている。
昨年伊勢神宮に参拝したのでそんなに間を空けずにここ出雲大社に参拝出来てよかった。 でも、ツアーだったので案内員の説明を受けながらの参拝が用意されていたが、失礼して一人急ぎ足で神社内を巡ぐった。 そんな訳で要所しか巡ってないような...。