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[ 栃木県日光市: 日光東照宮 (世界遺産) ]
日光東照宮 (世界遺産)              2015/06/11(木)新規
日光東照宮

 日光東照宮は、元和三年(1617)創建の徳川初代将軍徳川家康を祭神として祀る神社である。
 徳川家康は、天文十一年(1542)三河国岡崎城で生まれ、幼少より苦労を重ねながらも戦国乱世を平定し、260年間続いた江戸幕府を創った。 元和二年四月十七日、駿府城で75歳の生涯を終え、直ちに久能山に神葬された。 そして遺言により、一年後の元和三年、久能山よりここ日光の地に移され祀られた。 正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに東照社として鎮座した。 その後正保二年(1645)宮号を賜り、「東照宮」と呼ばれるようになった。
 尚、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光によって、寛永十三年(1636)に造替されたものである。

神社名: 日光東照宮
主祭神: 徳川家康
社格等: 別格官幣社
創建 : 元和三年(1617) 所在地: 栃木県日光市山内2301

【履歴】
・2015/06/11(木): 06/10(水)に参拝。

石鳥居(一の鳥居) 【重文】

 幅20m超の緩やかな参道を登って行くと半分ほどの距離の処に堂々とした存在感を持った石鳥居が建っている。


社号標と石鳥居(明神鳥居)

 日光東照宮の石鳥居は、江戸時代に建立された石造りの鳥居としては日本で最大のものだ。 高さは9mあり、鳥居に掲げられている「東照大権現」の額は、畳1枚分の大きさがある。
石鳥居: 高さ9.2m、柱間6.7m、柱直径(太さ)3.6m 花崗岩製
 この石鳥居は、元和四年(1618)筑前国の黒田長政が奉納した。 15個のパーツで出来ており、個々の石材は、自領内(可也山)から切り出した御影石で造られている。 そのため、筑前国から海路で江戸湾まで運び、江戸からは川をさかのぼり、小山近くの乙女河岸で陸揚げされ、その後は陸路人力で日光まで運ばれたと云う。
 2011年の東日本大震災でも倒壊せず現在に至っている。
 石鳥居下の石段は、「千人桝形」と呼ばれている。十段の石段の各段に百人並ぶことが出来るのが名の由来とのこと。

五重塔 【重文】

 石鳥居を潜るとすぐ左手に天を仰がないと全てを見ることがかなわないほど大きな五重塔が建っている。



 ここの五重塔は慶安三年(1650)に初代若狭小浜藩主の酒井忠勝が寄進したものだが、文化十二年(1815)に焼失した。 その後、文政元年(1818)に十代藩主酒井忠進が再建したのが現在の五重塔である。
 高さは36m。極彩色の日本一華麗な五重塔で、初層軒下には富田宿(現大平町)の名工・後藤正秀が手がけた十二支の彫刻がある。 また、初層内部にも漆塗り・彩色・漆箔がきらびやかに施されている。
 塔を貫く心柱は事例の少ない懸垂式で、礎石には据えられず、四重から吊り下げられて浮いている。 これは、時を経て重みで塔身が縮んだ際にも、心柱が五重の屋根を突き抜けてしまわないよう、江戸時代に考え出された工法とのことだ。

表門 【重文】

 鳥居を潜り、更にまっすぐ参道を登ると石垣で一段高くなった処に建つ東照宮の表門がある。


表門

仁王像(吽像)

仁王像(阿像)

 表門は寛永十二年(1635)に建てられたもので、三間一戸、単層八脚門、切妻、銅瓦葺きの建物だ。 八脚門の両袖には古くから仁王像(阿形・吽形、像高約4m)が安置され"仁王門"と称されていたが、明治初頭の神仏分離により仁王像は大猷院に移され、"表門"と呼ばれるようになった。 なお、その後明治三十年(1897)になり再度仁王像は戻された。
 朱色を基調とし虎や麒麟、獅子、獏など極彩色に彩られた82体の彫刻が施されている。

三神庫 【重文】

 表門を潜り正面から右手に建つ3つの建物が三神庫で、左から上神庫、中神庫、下神庫だ。


上神庫

中神庫

下神庫

 三神庫は上神庫・中神庫・下神庫の総称で寛永十二年(1635)に建てられた。
 上神庫は桁行7間・梁間4間・切妻・銅瓦葺き、中神庫は桁行9間・梁間3間・入母屋・銅瓦葺きと三棟の中では最も大きく、下神庫は桁行7間・梁間4間・切妻・銅瓦葺きである。 三棟とも校倉造り、高床で内部には「百物揃千人武者行列」に使用される1,200人分の装束や舞楽用の装束などが収められている。
 上神庫の屋根妻面には狩野探幽が下絵した「想像の象」の彫刻があり、「三猿」と「眠り猫」と共に日光三彫刻の1つとされている。

校倉造り
 外壁が角材を菱形になるようして積み上げる工法で、湿度によって木材が伸縮する特性を利用している事から保存性が強く、倉庫や倉などに使われている。

神厩舎 【重文】

 表門を潜りすぐ左へと曲がる参道を進むと左手に神厩舎がある。


神厩舎

「子育て」

「成長」(三猿)

 神厩は寛永十二年(1635)に建てられたもので、桁行3間、梁間5間、切妻、銅瓦葺き、妻入りの建物である。 東照宮境内の中で唯一の白木造りで、当初は初代将軍徳川家康が関ヶ原の合戦の折乗馬していた馬が神馬とされていたそうだ。
 長押上には猿が馬の守り神であるという信仰から猿の彫刻が八面彫り込まれ、子育てから恋愛、結婚、妊娠と人間の一生が風刺されている。 特に正面と右面には有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」を模った"三猿"があり、子供の教育とは"悪い事を見たり・言ったり・聞いたりしないように育てなさい。"という教育を論じているとも、東照宮の根本理念を現しているとも言われている。


「悩み」

「旅立ち」

「挫折・友情」


「出会い・恋愛」

「結婚」

「妊娠」
御手舎、輪蔵 【重文】


御手舎

輪蔵

 御水舎は唐破風屋根、銅瓦葺きの建物で寛永十二年(1635)に建てられた。 建物は水にちなみ波や竜が極彩色に塗られた彫刻で飾られている。 特に飛龍の彫刻は、東照宮内にある43箇所ある飛龍の中でも最高傑作とも言われている。
 輪蔵は重層宝形造という二重になった屋根が特徴で、下層、上層には軒裏までかざり金具がふんだんに使われ、極彩色の彫刻が施されている。 内部には、輪蔵とよばれる八角形の回転式大書架があり、天海版の一切経1456部、6323巻が納められていた。 その前面には輪蔵を発明した中国人親子の木像が置かれ、その像の子供たちが笑っている姿から「笑い堂」ともよばれる。

鐘楼・鼓楼 【重文】

 参道は神厩舎の先で右手へ曲がるが、曲り口には御水舎があり、曲がった参道の中程に鳥居が建ち、その先に階段がある。 階段の上の境内には、まず両側に鐘楼・鼓楼があり、真っ直ぐ正面に陽明門と回廊で囲まれた本宮がある。


二の鳥居

鼓楼

鐘楼

 鐘楼・鼓楼は寛永十二年(1635)に建てられ、桁行3間、梁間3間、入母屋、銅瓦葺き、袴腰付きで陽明門に向って右側が鐘楼、左側が鼓楼である。 一見同じ様に見えますが鐘楼の方が78体の彫刻に対し、鼓楼には38体しかなく鐘楼の方が格式が高いと言える。 全体的に黒と金を基調にして高欄を朱色、組物、彫刻を極彩色で彩った華麗な造りで、配置的には古い寺院形式にならって建てられたとされ神仏混合時代の名残が見られる。

陽明門 【国宝】

 残念ながら改修中だったため全容はうかがい知れず。




 陽明門は寛永十二年(1635)に建てられもので、三間一戸、八脚楼門、入母屋、四方軒唐破風、銅瓦葺きの楼門建築である。
 陽明門の名称の由来は京都御所にある十二門の東の正門が"陽明門"と呼ばれているところから授かったとされ、正面唐破風下には元和三年(1617)に後陽成天皇から賜った「東照宮大権現」の額が掲げられている。 陽明門には当時の技術の最高峰がつぎ込まれ彫刻の数は508体にのぼり、軒下には金と極彩色に彩られた麒麟、その下には白色の竜、さらに下が子供達の透かし彫りが施されている。 1層目には獅子や子供達が彫り込まれ、1日中見てても飽きない事から"日暮門"の別称がある。 柱は全部で12本あり胡粉が塗られ、グリ紋と称する渦巻状の地紋と鳥獣、草花が彫られている。 特に裏側の左手二番目の柱は"魔除けの逆柱"と呼ばれグリ紋の向きが逆で、"完成した瞬間から崩壊が始まる。"という古事からわざと未完成の部分を残しているそうだ。

御本社 【国宝】

 陽明門を潜った正面にある。


唐門

 

 御本社は本殿、石の間、拝殿が一体化した権現造りで、東照宮の中心を成している。 寛永十二年(1635)に建てられ、本殿は桁行5間・梁間5間・背面向拝1間・入母屋銅瓦葺き、石之間は桁行3間・梁間1間・両下造・銅瓦葺き、拝殿は桁行9間・梁間4間・入母屋・正面千鳥破風・軒唐破風・向拝3間・銅瓦葺きである。 拝殿には「将軍着座の間」・「法親王着座の間」があり天井は格天井で格それぞれ異なった竜が狩野一派によって描かれ百間百種の龍と呼ばれている。 本殿は神仏混合の名残が見られ、内陣や内々陣などが設えられ東照大権現が安置されている。 唐門は桁行1間、梁間1間の小規模で白と金を基調としている。屋根は四方軒唐破風の格式のあるもので棟には龍や獅子を模った銅製彫刻が設えられ、唐破風や欄間、柱には精巧な彫刻が施されている。


坂下門−眠り猫【国宝】

坂下門−雀 

 坂下門は元和四年(1608)に建てられた一間一戸、銅瓦葺き、八脚平唐門で、この奥が初代将軍徳川家康が眠る奥宮に続いていた為、普段は閉められ将軍参詣の折しか開く事がなかった事から「開かずの門」とも呼ばれていた。 全体的に白と金を基調としている。
 欄間には鶴の透かし彫り、腰羽目には牡丹と唐草が彫り込んでいる。 廻廊は寛永十二年(1635)に建てられたもので梁間1間、桁行東54間、西36間、入母屋、銅瓦葺きで坂下門へ続く部分は唐破風の"眠り門"が付いている。
 奥宮へ続く欄間には有名な"眠り猫"と"雀"の彫刻が彫り込まれている。 彫刻は名工左甚五郎で彫刻の由来は平和を象徴し、天敵である猫が居眠りをし、雀が踊る姿を表現しているが、場所によっては猫が薄め目を開け爪を立てているように見え、侵入者には断固として拒否する姿勢が窺える。

本地堂(薬師堂) 【重文】

 陽明門を潜るとある。


本地堂(薬師堂)

 本地堂は寛永十二年(1635)に建てられ、桁行7間、梁間5間、入母屋、銅瓦葺き、平入、3間向拝付き、規模としては東照宮最大の建物です。 神仏習合時代は東照宮の祭神である東照大権現(徳川家康の御霊)の本地仏が薬師如来だった事から本尊として薬師瑠璃光如来像が祀られ薬師堂とも言われていました。
 天井には狩野派の狩野永真安信が描いた8mの龍があり、その下で手を打つと起きる"鳴き龍現象"が有名だったが、昭和三十六年(1961)に火災により焼失したため、その後再建された。 現在も、龍の頭の下で拍手をすると音が天井と床で何回も反射を繰り返す"鳴き龍現象"は再現されており,「日光の鳴龍」と呼ばれている。 (現在の天井画の龍は堅山南風作)。

神輿舎 【重文】

 陽明門を潜ると左手にある。


神輿舎

「天人舞楽」(狩野派)

神輿(徳川家康)

 神輿舎は寛永十二年(1635)に建てられ、桁行3間、梁間3間、入母屋、銅瓦葺き正面には軒唐破風が設えられる建物で反対側にある神楽殿と対になっている。 黒と金を基調とし高欄は朱色、組物、彫刻、欄間は極彩色で彩られ、内部には千人行列で渡御する徳川家康(中央)、豊臣秀吉(左)、源頼朝(右)を祭った神輿が安置されている。 (往時の神輿は1トン以上あり担ぐ事が困難になった為、昭和40年に800キロの神輿が新調され、例祭である「千人武者行列」は元和三年、久能山から日光に徳川家康の御霊を遷す際行なわれた行列を模したもので約1,200人が参加する)。 天井には狩野派が描いた天人舞楽が描かれていて神輿が無い時真下で手を叩くと鳴き竜現象が起こるそうだ(天女の天井画として日本一の美人画とされ、鳴き龍は「天女のささやき」とも言われている)。

奥宮 【重文】

 坂下門を抜け、200段超の階段を登ったところにあるのが御祭神の墓所である奥宮だ。


鳥居

鋳抜門

宝塔

 奥宮は、拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる御祭神の墓所である。
 鋳抜門は初代将軍徳川家康の墳墓の上に建てられた宝塔(奥宮)の前に建てられた銅製唐門で、高さ3.4m、柱間2.5m、慶安三年(1650)に鋳造されている。 門は全て青銅鋳物製で屋根、柱、壁と別々に鋳造されたもので組み立てられ、重厚な造りだが門扉の細かな意匠には金が使用されるなど格式と荘厳が感じられる。 鋳抜門の製作者は、幕府お抱えの鋳物師・衛椎名伊豫である。 又、鋳抜門の正面に鎮座する狛犬は創建当時は木製だったが寛永十八年(1641)に石造となり、慶安三年(1650)鋳抜門が再建された際に銅製に造りかえられている。 製作者は鋳抜門と同じ衛椎名伊豫とされ、鋳抜門の附として国指定重要文化財に指定されている。
 奥宮は初代将軍徳川家康の墳墓の上に建てられた宝塔で、当初は木造で、さらにその後石造に改められたが、天和三年(1683)に新たに唐銅(金・銀・銅の合金)で鋳造されだ。宝塔は石造りの玉垣の内部に八角九段の基盤を築き、その上に高さ5mあり、前面には寛永二十年(1643)に朝鮮から献上された香炉、燭台、花瓶、三具足が備え付けられている。 宝塔の製作者は、これも幕府お抱えの鋳物師衛椎名伊豫である。

あとがき

 ツアー旅行だったため決められた見所を足早に拝観した。拝殿でも巫女さんが一通りの説明が終わった後、お守りを宣伝していた。 次回は大改修が終わった後で来てみたいがどうなることか...。


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